第75話 Großherzog des Waldes
眠りの君との謁見を果たしたヘルマンとヒルデガルト。日が落ちていく中、賢者エルダ・ジレーネは二人を一晩もてなすことにした。
夕食の後、温かいハーブティーを飲み、ヒルデガルトはぱったりと食卓の上で眠ってしまった。薬を盛ったのかとヘルマンは戦慄する。
「まさか。緊張がほぐれる薬草を少しばかり煎じただけですわ」
エルダはそう微笑み、ヒルデガルトを寝室に連れて行った。
ヘルマンはシャワーを借り、綿わたのベッドに入った。久々に溶けるような深い眠りに落ちた。
次に目を開いたとき、寝室はまだ夜の闇に包まれていた。エルダの家には時計がないようだ。ヘルマンはスマホを見たが、2時を回った頃だった。喉の乾きを感じて起き上がる。向こうのベッドを見ると、ヒルデガルトが身じろぎもせず眠っている。
ヘルマンは彼女を起こさないように静かに部屋を出た。リビングから暖かな光が漏れている。燭台に火を灯し、ロッキングチェアに腰掛ける貴婦人の姿があった。彼女は小さな声で窓辺に向かって話しかけていた。窓辺に巨大な蝶が留まっている。虫の姿に驚いたヘルマンは壁に体をぶつけて音を立ててしまった。蝶がひらひらと飛び立ち、エルダは振り返った。
「すみません、邪魔をしてしまいました」
「お気になさいませんよう。眠っている場合ではないと、あなたの魂は
エルダは結った金色の髪を下ろして背中に垂らしていた。よく手入れされ艷やかに輝く髪は年齢など感じさせない。
「虫はお嫌いでしたか」
「驚かせるつもりはなかったんです……」
お掛けなさい、と彼女はソファを指した。ヘルマンは彼女の言葉に甘え、しばらく月の光を浴びることにした。
「眠りの君のことをお聞かせ願えませんか。あなたは長くかれに仕えていらっしゃると聞きました。昨日あのお方とお話したんですが、言っていることがよく分からなくて」
「そうでしょうね。かれは人を安心させたり喜ばせたりするために言葉を紡ぐ方ではありませんもの。決して人の心が分からないわけではないのですが」
「運命を定める神ではないと……」
「あなたはドイツからいらっしゃったのでしょう。キリスト教の価値観にかつて支配された国からいらっしゃったのなら、困惑するのも無理はありませんね。わたくしもかつて、あなたのように異邦の神のあり方に馴染めない時がありましたわ」
エルダは縦に長いリラを取り出し、爪弾いた。
「もう1万年くらい前のことでしょうか。空が禍々しい色に染まり、無数の天星が降り注ぎ、ひときわ大きな星が森に墜ちました。大地は鳴動し、天火によって森は燃え上がりました。人々は恐れおののき、ありったけの供物を持ち、歌を歌い、涙を流して神に祈りました。しかしあの大岩から姿を表したのは、金色に輝く光の御子――、いまだ見ぬ若き神の姿だったのです」
ヘルマンはじっと彼女の語りに聞き入った。
「我に生贄を捧ぐことを禁ず、かれはそう空に鳴る声で語りました。集落からやってきた娘たちは今にも炎に捧げられるところでした。それは彼らの神々に捧げられるべき供物。我に神託を仰ぐことを禁ず、それは彼らの神々が告げるべき言葉。大地の神々は、空からやってきた若き神を赦し、
薄く開いたエルダの目はどこか遠くを見ているようだ。
「あなたはそのとき生贄にされた原住民族の子供だったんですね」
エルダは肯定の言葉のかわりに微笑んだ。
「
「ああ、懐かしい。かれが現れた後、多くの神々が立ち上がっては運命とともに去っていきました。かれはどの神や信仰とも対立しなかった。この国の長く生きた者でも私ほどのものはいません。ひとつ歌ってもいいでしょうか?」
エルダは古びたリラを爪弾き、歌い始めた。眠りにつく森を起こさないように、古い記憶が壊れないように。
ああ神々よ、流星とともに降り立った若き神を赦せよ。その黄金の躰はひび割れ、煙に曇った手足は打ち捨てられ、焔の中途方に暮れる若き神を赦せよ。
人々は輝く神の躰を恐れ、村で最も美しい子らを、村で最も肥えた家畜を神の前に差し出した。
しかしああ 子らの美しい声も涙も、家畜の血も肉も、かれのひび割れた胸を埋めることはない。
かれは短い言葉で供物を断り、溶け落ちた舟の中に去っていった。
ああ神々よ、どうかこの若き異邦の神を赦せよ。神々に捧げられるべき供物を断るのは、人々のいかなる贄もかれの傷を癒やすことができぬゆえ。
みずみずしい血も、酒も、そのひび割れからすべて流れ出てしまうゆえ。
子らの捧げる歌も、その黄金の躰を軋ませるゆえ。
ああ神々よ、この若き神を赦し、その叡智を与えたまえ。
ああ神々よ、木々をなぎ倒し、赤々と燃える焔を消したまえ。
かれの美しい頬は憂いに霞み、涙のごとく青い瞳は遠く故郷の星を探す。
神々は若き異邦の神を赦し、慈雨を降らせた。
雨は焔を消し去り、かれの美しい肌を伝い、煤を洗い流した。
神々よ、ご覧になられたか。かれの憂いに満ちた顔がほんの少し緩んだのを。
ああ神々よ、どうか私を赦されよ。
私はすでにこの若き神に捧げられた。この神のために祈ることを赦されよ。
神々よ、黄昏に沈んだ神々よ
あなた方がこの大地に顕れた当時、あなた方の誰よりも若かったかの神は、すでに誰よりも歳を重ねた。
黄昏を見届け、かれは一人この大地に残った。
あなた方は去り、人間に大地を明け渡した。
ああどうか 私の声がまだ届くのならば
かれの栄光を言祝ぎたまえ。
あなた方は神の鍛冶師を遣わし、かれのひび割れた躰を繕った。
今やかれは誰よりも古く、大きな神となった。ただ独りこの大地に残り、人々の安寧を願う。
かれは言葉を弄さず、ただ行いにより人々を助ける。
今も供物を断り、ただ祈りのみを求める。
憂いに満ちた眼差しは今は空に向けられることなく、人々の行く末のみを見つめている。
ああどうか 私の声がまだ届くのならば
かれの勝利を言祝ぎたまえ。
ただ独りの神となったかれに、大地の神々の加護を与えよ。
かれはまだ覚えている。
あなた方と炎を囲み、酒の席を共にしたことを。
かれはまだ覚えている。
あなた方の盃を断り、神々の王に赦されたことを。
その黄金の躰は、その時囲んだ炎の熱をまだ孕んでいる。
ああどうか 黄昏に沈んだ神々よ
かれの航路に安寧あれ
ひび割れた躰が再び星海に浮かべるように。
リラの音が静謐に溶けていった。
ヘルマンは最後の音が森にしみ入って消えてから、小さな声で礼を言った。
「礼を言うのは私の方ですわ。あなたのおかげで昔のことを多く思い出しました。長く生きたとはいえ、私は人間のままなのです。あまりに長く生きたせいで、私のことを女神と目する人さえ現れ始めた。何とも恐れ多いことです」
エルダはクスクスと笑った。
一万年前といえば、現存する神話や文明よりも古い時代だ。文字もない時代のことを覚えているというだけで、女神と呼ばれてもおかしくはない。
「何となく眠りの君のことが分かりました。かれが盟約に固執するのが理解できませんでしたが、かれを崇める人々のためだったんですね。かつてかれがここに現れたとき、かれは土着の神々の信仰を脅かすことを恐れた。かれはこの星の人々と共に生きることを選んだから……。かれは土着の神々に捧げられるべき信仰を尊重し、神託を下ろさないことを決めた。かれは多くのことを知っていて、あらゆる問題の解決策も分かっていたが、それを示すのは土着の神々の権能だった」
エルダは微笑んでいる。
信仰の面からはそのように解釈できるが、もっと唯物的に捉えるなら、かれは遥か未来の人類を背負うアルケーの舟であり、安全な航路を導き出し舟を動かす超知能である。舟をどこに向かわせるか決めるのはかれの主である未来の人類の意思であり、それを背負うことを棄てたかれは、億万の未来を算出するだけの頭脳でしかない。かれは最初から運命を定める神ではないし、自らの運命を定めるべき「
「でも人々は今や眠りの君への信仰も忘れかけて、一体何を信じているというんですか?」
「人々はすでにかつて崇めていた大地の神々や、その後顕れたヴォータンやトール、テュールなどの神々への信仰を忘れて久しい。もちろん外の世界の救世主への信仰もフェーゲラインでは人気がありません。でもまあ、あなたも神のいない国からいらっしゃったのでしょう。神なき世をそう恐れる必要はありませんわ」
「だからこそ……、神が御業を見せるというのがうまく飲み込めないんです」
「大丈夫、ご安心なさい。神も運命もないのなら、そこにあるのはただ自分の望むとおりの未来をつかもうとする者たちだけ。あなたがそうであるように、お嬢様も、そして眠りの君もまた、自らの望む通りの未来を掴むために全力を尽くしているのです」
エルダは巫女らしくない言い方をした。ヘルマンは彼女の信仰心を蔑ろにしてしまったような気がした。
「かれは最後に残された盟約を……」
「叶えるとは断言できないのです。まして相対するのは同等以上の力を持つ神なのですから。神の言葉が何を意味するのか、神を僭称するかれにはよく分かっていらっしゃる。断言すれば、多くの者が無根拠にそれを信じるでしょう。言葉に安堵すれば、あなたは自らの努力を放棄するかもしれません」
望む未来は遠のくことになる。
「かれはお嬢様の内側に渦巻く感情も、言動の矛盾も見抜いていらっしゃる。そのうえで、それ以上問答することの無意味さも理解し、次の行動への足がかりをお作りになった。王剣を渡すことで彼女の意思を肯定されたのです。決して見捨てたわけではありませんわ」
「…………」
眠りの君のスタンスを理解したからと言って、すぐに収まるような不安ではない。揺れる彼の眼差しを見て取ったエルダはポロンとリラを鳴らした。
「あなたには自分がやるべきことがすでにお分かりのはず。ただそれに励むのですよ」
最初の目的を思い出す。アーテファクトを集めることには、革命に正当性をもたせる神話的な意義があるのだ。アーテファクトを集めること自体が眠りの君を呼び醒ますわけではない。世を平らげ、かれが再び大地に立つ建前を用意すること。
人の手に余る物事だけが神の関心事だとのたまう神の眼差しを、俗世に向けさせること。
俗世を支配するレガリアを手に入れ、本来の主に返すこと。それは、この国の支配を神の手に還すことだ。それを受け入れない者はいない。しかし実際のところ、輝ける泉の御子はこの世界の運命を定める神ではない。その先のことはかれにとっても定まらぬ未来だという。ならば、自分のするべきことは一つだ。
「ええ、あなたの仰るとおりです」
ヴェルフ少佐、結局自分はあなたの背中を追ってしまうようです。あなたが一人で為した大罪を私も犯そうとしている。あなたの苦しみが少しだけ分かる。
「あなたの優しさに免じて、少し泣き言を言ってもいいでしょうか……」
「ええ、神の代わりに言葉を弄するのはわたくしの役割ですから」
「私が軽薄な男だったらと時折思うんです。ただ彼女を抱きしめて、優しい言葉だけ好きなだけ浴びせて、『最も個人的な契約』を迫るような人間だったら、どんなに単純だっただろうかと。
彼女に必要なのは世界のことも、使命のことも、自身の正体のことも忘れさせるほどの愛情なのだと……。ですが誰もヴェルフ少佐に取って代わることはできないし、私だって残念ながらそういう役割を買って出るような軽薄な男ではありません」
この感情に名前をつけることをずっとためらってきた。かつて自分は自身に向けられたその感情を拒んだのだから。
言葉を探すヘルマンは自分の手を優しく握られ、顔を上げた。エルダの青い目が微笑みかけている。
「告解の必要はもうありませんわ。あなたの迷いはすでに晴れているのですから。
あなたは帝冠を欲している――そうでしょう?」
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