第74話 Schlafende Monarch

 2羽のカラスに導かれ、ヘルマンは車を飛ばした。後部座席で休むヒルデガルトは気配すら希薄に感じられた。でこぼこ道にハンドルを取られながら時折バックミラー越しに視線をやり、彼女の姿を確認する。魂が抜けたようにただ座っているだけだ。

 その大きな瞳がまた涙に潤みそうで、ヘルマンは彼女に声をかけることができなかった。彼女を気遣う自分さえ、何か言えば視界がにじみそうだった。コンスタンツ・ヴェルフ、かれはヘルマンにとっても……。彼は頭を振って思考を遮った。


 深い森につながる小道にたどり着き、ヘルマンは車を止めた。ここから先は歩いていくしかない。

 眠りの君――フェーゲラインの人々を異次元に連れ出したアルケー。この世界では泉の神と称され、すべての異能力と長命の源泉として崇められ、一方では忘れ去られた神。その神がおわす原初の森だ。

 原初の森と呼ばれるのは、そのじつ鬱蒼とした森だった。親しみやすいドイツの森と違って、木々の葉と枝が光を遮り薄暗い。倒木は柔らかな苔に覆われ、キノコが生えている。

 2羽の不思議なカラスは枝に止まって後ろを振り返っては、二人が進むのを待って先導してくれる。

 カラスはガラス玉のような青い目をしていた。ひと目で神の使いだと分かる。

 獣道のような踏み固めただけの細い道をたどり、森の奥へ進んでいく。むき出しの木の根や倒木、巨大な岩がところどころで行く手を阻み、二人はそれを乗り越えなければならなかった。風がざわざわと葉を揺らし、あちこちから何者かの気配を感じた。

 何がいてどんな森なのか尋ねたかったが、無言で突き進むヒルデガルトに声をかけることができなかった。

 どれだけ進んだだろうか。ヒルデガルトは木の枝を折って差し出してきた。枝の傷口から透明な水がにじんでいる。ヘルマンは礼を言って喉を潤した。

 奥に進むにつれ、足元は不安定になっていく。そこらじゅうに大小の鋭い岩が転がっていて、足を滑らせれば突き刺さって命を落としそうだ。奥に踏み入る者はほとんどいないのだろう。ヘルマンの目には道などないように見えたが、ヒルデガルトは迷いなく枝や下草を薙ぎ払いながら進んでいく。



 突然視界が拓け、柔らかな陽光が降り注ぐ草地に出た。色とりどりの花々が一面に咲いている。奥に草木に埋もれたような家があった。

 二人が近付くのが分かったのか、木の扉が開き、小さな屋敷の主が姿を現した。


「お待ちしておりましたわ、ヒルデお嬢様とそのお連れ様」


美しい貴婦人が柔らかに微笑んだ。彼女は透き通る青い石版を抱えていた。ヒルデガルトはこわばった声で短く紹介した。


「エルダ・ジレーネ卿だ。眠りの君に仕えている」


ヘルマンは丁寧に挨拶した。優しい花の香りが鼻孔をくすぐる。ひと目で善良な賢者だと分かった。5つ目のアーテファクト、叡智の書と呼ばれる石版を持つ森の大公だ。


「本来ならば温かなお茶でも出してお客様を歓迎するところですが……」

「……この剣を持ってきた」


ヒルデガルトは背中に担いだ剣を示唆した。エルダは何もかもお見通しといった具合に微笑む。


「ええ。君もあなたをお待ちでしたよ。……それも永い間」


こちらへ、とエルダは先導した。花畑を進んでいく。斜面の底に草にも苔にも覆われていない黒い大きな塊が見えた。聖なる場所であることがすぐに分かった。

 エルダはぽっかりと空いた穴から巨大な構造物の中へ入っていった。

 2羽のオオガラスは彼女を追い越し、闇の中に消えていく。

 冷たい階段を青白い人工の光が照らしている。奥へと続く階段室を抜け、通路を進む。文明的な構造物の内部だった。開いたままの隔壁から、広い空間に繋がっている。

 暗闇の中、水滴が落ちる音が響いていた。ヘルマンは暗闇に目を凝らし、はるか奥の方まで水が張られていることに気付いた。

 エルダは立ち止まったが、ヒルデガルトは水面に歩を進めた。波紋が広がり、光り輝く。水に浸った通路があるらしい。ヘルマンはおずおずと彼女の後に続いた。通路の数歩隣には透明な水がどこまでも深く溜まっている。水面下にも構造体は続いていて、ほのかな光が見えた。これはおそらくすべてアルケーの真躯なのだろう。

 ヒルデガルトは立ち止まり、水面に突き出した黒い列柱を見上げた。彼女の視線の先に、ヘルマンは小さな人影を見つけた。歪んだ鉄の柱を玉座にして、豪奢な衣服に身を包んだ人影が腰掛けていた。ほのかな光が水面に反射し、黒い外套に施された金糸の刺繍と、かれの白い頬を照らした。

 ボチャンと大きな音がしてヘルマンはぎょっと飛び上がった。きらめく青い結晶の王剣が水底に沈んでいく。

 カラスの騒ぎ声が広い空間に反響した。

 水面がひとりでにざわめき、暗闇が光で満たされた。ヘルマンは思わず目を閉じたが、光は瞼を通り越して網膜に焼き付いた。


『――静まるが良い』


声がどこからか響く。ヘルマンは目を開けたが、目がくらんで何も見えてこない。


「剣を持ってきた」

『そなたは王剣と――、叡智の書を持ってきた。我らの報いを求めて』


空間が震え、声が響く。ヘルマンにはその声が男性のものにも女性のものにも聞こえた。

 衣擦れの音と、何かきしむような音が聞こえた。小さな足音が近付いてくる。ヘルマンは見え始めた目で玉座を見上げた。

 王族の豪奢な衣装がきらめいている。ヘルマンは小さな人影が人形であることにすぐ気付いた。キュロットの裾から覗く球体関節をきしませながら、眠りの君は階段を数段降りた。美しい貌、目には透き通る青いブルネニットが嵌っている。


「だが……、アーテファクト2は壊れてしまった。盟約しんわはもはや果たせない……」


彼女の声はひび割れた心を隠し切れていなかった。


『鍵のみならず門さえもすでに破壊され、箱庭世界の壁は崩壊した。元に戻すことは容易にはかなわぬ』

「この世界の管理者そのものでさえ?」

『アーテファクトは人間に権能を分け与える物。それを造ったからといって我らから技術そのものが失われたわけではない』


人形の口は動いていない。声は人形の口から放たれたものではなかった。息もしていない人形は一呼吸置いて彼女の問いに答えた。


『時間とエネルギーさえ十全であれば、ふねを再び航行させることは可能だ』

「艦……」


まさかフェーゲライン自体がかれの艦であるというのか。ヘルマンは耳を疑った。

 ヘルマンは玉座の間を見渡した。黒い結晶と輝く神躯に囲まれたこの空間は荒涼として、あまりにも寂しい。少し高いところにあるかれの「腰掛け」に向かう階段は、折り重なる鉄板の層であるし、神の玉座は折れた柱のようだ。

 ここは神と対話するために作られた空間ではなく、元は別のものの遺構なのだ。本当の神の躰――骸となったかれの艦体なのだ。


「こんな墜落船がまだ動くというのか?」

『この国、この世界は我が艦体の外殻の上に築かれた。そしてすべてのアーテファクトは艦体から分離して世界を維持するために機能し、メインリアクターからのエネルギー供給を受けている。核融合炉は依然として良好な状態にある』


フェーゲラインの「浮上」により、ドイツは3分の1近くの国土を失っている。フェーゲラインが船の上に築かれた世界だというなら、どれほど大きな船だというのか。

 ヒルデガルトは驚く素振りを見せなかった。彼女は冷たい疑似感情モジュールの仮面を被り、淡々と上位者と対話する。


「私は……あと何をすればいい? 私はこちら側に立つことを選んだが……、私ではイシスに打ち勝つことができない。それに、この世界を引き剥がす力もない」

『そなたはそのために創られたものではない』

「……ッ」


ヒルデガルトの薄氷の仮面はあっさりと割れてしまった。


「ならばなぜ私は……! 私があちら側に立ったとしても、あなたには問題がなかったのか?」


人形に表情はない。薄く開いた青いブルネニットの両目がヒルデガルトを見下ろしていた。


『我らはかつてあのエジプトのアルケーと刃を交え、エジプトのアルケーがこの泉に溢れ落ちた。我らは彼女を退けたが、致命傷を与えるに至らなかった。いずれ再び顕れる異敵を迎え撃つにあたり、我が神躯の不純物は取り除かねばならなかった。我らはいくつもの可能性を試算し、最も不確定な未来につながる選択肢を選んだ』

「それが私だと……?」

『我らはコスモスレコードを異にするアルケーの雫を引き上げ、アーテファクト4の残骸と組み合わせ、そなたを創り出した。かたちを得て泉から去ったそなたは、我らの予測通り、この世界にとって最も大きく複雑な変数となった。それこそ我らがそなたに期待した働きである。閉ざされた世界では未来は収束する。今のそなたには我らの意志が分かるだろう。我らが何を背負い、何のために存在し、なぜ相戦うのか』

「…………」


ヒルデガルトは返す言葉もなくうつむいた。

 2羽のオオガラスは君の叱責を受けてどこかに消えてしまったようだ。滴り落ちる水音だけが響いている。


「もう一つ教えてほしい。アーテファクト4はどういう権能なんだ?」

『アーテファクト4は敵対するアルケーの神格に対抗するための兵器。アルケーに意味焼失を引き起こす……、すなわちアルケーが格納する記録情報を焚べるものだ』


あの超高温の青いプラズマは記録情報が燃えたものなのか、とヘルマンは納得した。


「……知らなかった」

『誰もそなたに力の使い方を教えなかった』


勢いよく上げた顔には一瞬怒りの炎が見えた。


「知っていたら……! 使わなかった……」

『我が神躯と接続しているアーテファクト4と違い、そなたのアルケーは有限だ。躯体の焼失を繰り返せば、固有の情報すら失う可能性がある』

「意味を……焼失する」


ヒルデガルトはショックを受けた様子でこめかみを押さえた。怪鳥に身を転じたアーテファクト4が皇女のことを忘れて怒り狂っていたのは、1000年に渡る暴走によって自らの意味を焼失したからだ。ここに満ちた神躯に比べたら雨後の水溜まりの如きヒルデガルトの容積では、自分の意味を失ってしまうのも時間の問題だ。

 そもそもアーテファクト4自体は何かを記憶する必要がないのだ。他者に使役される兵器なのだから。


『そなたは異なる躯体を使い分けて戦う中で、必然的に自らの真躯の本来の機能を解放した。まったく新しいコスモスレコードを有するアルケーの個体となったのだ。しかし、記録するものとしてのアルケーとアーテファクト4の権能は相反するものだ』


人型の躯体の脳が記憶していることは、躯体が燃え尽きたり死亡すれば失われる。彼女が一貫した人格や記憶を保持しているのは、常に同期しているヘクサエーダーや自らのアルケーに記憶のバックアップを保存しているからだ。ヘクサエーダーに接続できず、アルケーのみをバックアップにしたとき、アーテファクト4の権能によってアルケーの記憶情報を焚べてしまえば、彼女は様々な記憶を失ってしまう。


「そ、そんな惨い……。イシスのアルケーとアーテファクト4からリッターさんを作ったあなたには、最初から分かっていた未来でしょう」


ヘルマンは憤慨と呆れの言葉が口をついて出た。本当に眠りの君はヒルデガルトに「変数」としての役割しか求めなかったのか。賽を振る神にとって、転がされる賽の苦悩など意に介さないというのだろう。

 眠りの君は彼の感情に答えた。


『アルケーは不純物を好まない。彼女のような存在を創り出すのは我らにとっても大きな試みであった。あらゆる可能性が予測され、危険さえあったとしても、我らは彼女自身の選択に委ねることにした』


眠りの君は自身の被造物を見つめた。


『アーテファクト4の力を破壊に使うことも、自らの真躯を本来の用途で使うことも、そなた自身が選んだ道だ。そしてここに現れたのも、そなたの選んだ道だ。そなたは我らの同盟者になることを選んだ』

「同盟?」

『そなたの半身たるヘクサエーダーはすでに、我らと同盟することを選んだ』

「そんなの聞いてない。……いや、あいつは勝手にすればいい。私は私だ」

『エジプトの黒い大地ケメトのアルケー、イシスは葬らなければならない存在だ。我らがかつて彼女を退けた後、彼女はこの大地を葬り去るに十分な準備を整えて現れた』

「それがあの大砲か?」

『あれは彼女がかつて統制システムとして導いたエネアド級大戦艦3番艦、オシリスの第2砲塔、セルケトと呼ばれる重力子単装砲だ。戦闘艦としてのオシリスはこれにより、敵性艦34隻のエネルギーシールドを飽和させ撃破した記録を持つ。中型の衛星型基地を破壊した記録もある』


淡々と情報を口にする君の声に、ヘルマンはゾッと青ざめた。遠い未来で言う大戦艦がどれほど大きく、中型の衛星型基地とはどのくらいの星なのか分からないが、地面に向けて放てば地球という天体自体も影響を受けるのではないか。


「想定される被害は?」

『フェーゲラインの地殻、すなわち本艦の外殻は破砕され、高温高圧となった岩石や構造物により世界は内部から膨張する。この爆発により、地表の生命体は本艦の重力圏から引き剥がされ、生存率は限りなく0%に近付く』


ただし、と付け加える。


『これはカタログスペック上の演算であり、この時代の地球の重力圏でレストアされた第2砲塔の出力は低下している可能性が高い。その上、艦体から分離しているため、メインリアクターからのエネルギー供給がなく、イシスが扱えるのは砲塔に貯蔵しているエネルギーに限られる』

「回りくどいな。低く見積もっても脅威であることに変わりはないんだろう」

『故にイシスは必ず我が艦のメインリアクターを標的にし、艦体の内部からの崩壊を狙うだろう』

「回避や迎撃はできないのか?」

『セルケトはすでに我が艦の重力圏内にある。しかし、我が艦がいまだ基底世界の表層に浮上している限り、イシスは撃つことができない』

「基底世界への被害を避けられないから?」


カクンと人形の首がうなずいた。

 イシスは最初からフェーゲライン全体を基底世界の表に引き出すつもりはなかったのでは、とヘルマンは思った。セルケトとテロリストが通れるだけの穴があればよかったはず。ヘルマヌビスとなったコンスタンツ・ヴェルフは、最初からイシスの完全な支配を受けていなかった。かれの言う通り、かれの魂はあらゆる主を裏切るようにできているから。


「再び転移することができるのか?」

『すでに準備を進めている』


異空間に転移すれば、イシスは容赦なく撃ってくる。眠りの君には何か策があるのだろうか。人形の無表情からは何もうかがい知ることができない。


『同盟者よ、我に指示を仰ぐのは適切ではない。そなたは何を望む?』


目の前に立っているのはアルケーにとって、人間とコミュニケーションを取るためのアバターでしかない。かれの真躯は足元に満ち、あらゆるところにある。頭ではそう分かっていても、姿がある限りそこに視線を注がざるを得ない。

 造物主に問われ、ヒルデガルトは震える手を握りしめた。


「私は……、私がイシスを倒す」


ヘルマンは耳を疑った。彼女の言葉を覆そうと口を開いたが、眠りの君の声が響いた。


『ならば剣を持っていくがいい』


水面が揺らぎ、ひとりでに結晶の剣が浮き上がってヒルデガルトの足元に流れ着いた。彼女が先ほど水の中に投げ込んだ王剣だ。ヒルデガルトは無言で剣を掴み、踵を返した。彼女は足音を立てて去っていく。ヘルマンは慌てて彼女の背を追おうとした。


『人間、ヘルマン・シュタールよ』


呼び止められ、ヘルマンは小さな神の躰を振り返った。


『そなたは皇帝の姿に「永遠の帝冠」をたか?』

「…………」


ヘルマンは首を振った。かれが示唆しているのは、フェーゲライン皇帝の冠のことだろう。


『最後のアーテファクトを我が手に還すが良い。それは欲する者にしか視えぬ帝冠。黄金のヤドリギの冠だ』

「そんなの、私には視えません。私は皇帝の冠なんてちっとも欲しくないんですから」

『世俗の支配者がいる限り、我らは地上の統治に関与しない。これは盟約である』

「恐れながら……、あなたは地上の人々の命や生活を護ろうと思わないのですか? なぜそこまで盟約にこだわるんですか」

『案ずる必要はない。我が艦はすでに眠りから醒めている。人の手に負えぬ物事だけが神の関心事である』


かれは黒い手袋をはめた手を差し伸べた。金色のレースの袖がキラキラと輝く。


『神を僭称する我らにとって、盟約は人と繋がる重要なものだ。かつて我らに救いを乞うた者たちの子孫は、それを忘れ、滅びだけが救いであると信ずるようになった。泉に乞い願う者はなく、泉が涸れても顧みる者はなく、彼らは盟約を忘れつつある』


神話とは、神と人が交わした盟約。色んな人の口から何度か聞いた考え方だ。神が何に力を及ぼし、いかにして人を支配するか。人はいかにして神を崇拝するか。人知を超えたアルケーが現代文明と接触したときに定めた、かれらと人との関わり方の原則。


「だから表向きは私達が古い信仰を呼び起こし、あなたがそれに応えたというように見せかけるんですか」


ヘルマンはやきもきする胸の内を覆い隠そうとした。


『これは未来のために必要な布石だ』


「未来? あなたが視る未来にリッターさんはいるんですか?」


人形の無機質な目をヘルマンは覗き込んだ。抑えきれない感情が溢れ出す。


「あなたは帝冠を持って来いと仰る。ですが私がリッターさんより帝冠を優先できるとお考えですか?

あなたは彼女に何を望むかお尋ねになり、彼女はイシスと戦うと答えた。つい先ほど自分はイシスに勝てないと言った同じ口で、ですよ。彼女が理性を欠いていて、矛盾しているのは明らかです。なのにあなたは王剣を渡されただけ。振るえば空間を傷付ける剣なんかを渡して、まさかリッターさんには勝ち目があるとでも仰るんですか?」

『…………』


人形はしばしの間、瞑目した。感情を抑えろと言われているようで、ヘルマンは余計にやきもきさせられる。


『彼女はすでに前に進んでいる。彼女の定まらぬ未来について、我が言葉でひとところに刺し留めることはせぬ。我らは言葉の力を信ぜぬゆえ』


そう言うと眠りの君は沈黙した。かれの言葉は何を言っているのか分かりにくい。どう尋ねれば求める返答が得られるのかヘルマンは頭を悩ませた。


「リッターさんは生まれてからずっとこの世界のために尽くしてきた。彼女は報われるべきです。門の鍵となるアーテファクトは取り戻せませんでしたが……。もし、もし私が帝冠をあなたにお還ししたら、彼女を死なせないと約束してくださいませんか」

『…………』


口を滑らせてから、ヘルマンは自分の言葉を悔やんだ。「約束」も運命をひとところに刺し留める言葉だ。フェーゲラインのは約束などしない。


「でも、盟約だって運命を定めた言葉ではありませんか……。運命が定まっていないのなら、一体何を信じて生きるんですか」

『「君のために道を平らげよ。さすれば君は目を醒まし、全てが報われん」。これは我らに残された最後の盟約。これを叶えずんば、人々はもはや絶望の淵に沈むであろう。これを叶えぬはすなわち、我が艦の消失に他ならぬ。しかし我らは運命を定める神にあらず。星を占い、航路を導くもの。我らはすでに航路を選ぶ者たちを棄てた。最後の盟約を叶えた後の未来は我らにとっても定まらぬものである』

「ううん……、つまりあなたは人々に報いようとなさっているが、できるかどうか明言はしないということでしょうか……」


人形の石の目の輝きが突き刺さるようだった。


『そなたは一つ勘違いをしている。価値があるから守るのではない。我ら神を僭称するアルケーにとって、この躰の上に住まう者はすべて、我が慈悲の対象である』

「…………」

『さあ、行くがよい。行いと結果だけが我の信ずるものである』


眠りの君は出口をそっと指した。問答の時間は終わりだ。ヘルマンはかれの言葉を反芻しながら薄暗い聖所を去った。

 答えといえない曖昧な言葉だ。だが、どう答えたところで人は神の言葉を信じ込む。液体のように混ざり、情報のやり取りができるアルケーにとって、抽象的な自然言語によるコミュニケーションはどうやっても不完全で、効率的でないのだろう。

 しかし寡黙な神は一つ支えになる言葉をくれた。この世界にとって価値があろうがなかろうが、アーテファクトをすべて集められようが集められまいが、ヒルデガルトもまた、かれにとって守るべき存在に他ならないということ。行いと結果だけを信じるかれは、おそらく自身の行動についても同じ信条を通しているはずだ。


 まばゆい夕日に目がくらむ。狂い咲く無数の花々の鮮やかさが目に焼き付く。

 木材の軋む音が聞こえた。小屋のテラスで待っていたヒルデガルトが慌ただしく立ち上がったのだ。


「待ちくたびれたぞ!」


不満を隠そうとしない。エルダは彼女をなだめた。


「お嬢様といったら、あなたを置いていこうとしたのですよ」


それはひどい、とヘルマンは呟いた。


「まさか君とお話をされたのですか?」

「ええ、まあ……」


あまり対話と言えるものではなかった。


「お嬢様、夕闇に落ちる森を抜けるおつもりですか?」


立ち去ろうとするヒルデガルトを引き止めたのはエルダだった。細い手首をしっかりと掴んでいる。ヒルデガルトは抗議の目でエルダを見上げたが、諦めたように家の中に入っていった。

 暗がりの中、獣道を上って森を抜けることにならなくてよかった。ヘルマンは貴婦人に礼を言った。


「原初の森は迷いの森とも呼ばれています。心に迷いを抱えた者は、ここにたどり着くことも森を出ることもできない。休息が必要ですわ。あなたにも、お嬢様にも」


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