第73話 Wolf, der den Mond jagt
辺境の地で王剣を手に入れたヒルデガルトとヘルマン。ヒルデガルトは人間の姿に戻り、二人は車に乗り込んだ。
ヒルデガルトの腹が鳴る。彼女はこの短い間に2回も転化し、2回も人間の姿に戻っている。栄養補給が必要だった。
ヘルマンはヒルデガルトに言われたとおりに車を走らせ、車は小さな旧市街にたどり着いた。石畳と石造りの街並みはどこか懐かしさを感じさせる。
小さな街の中心には枯れた噴水があった。噴水広場は人々の集まる場でもあるようだ。普段なら市場が開かれ賑わっているのだろう。ドイツの旧市街に見られるようなゴシックの尖塔や時計台はない。フェーゲラインではキリスト教が一般的ではないのだから当然か、とヘルマンは認識を改めた。
ヒルデガルトは小綺麗なレストランに入った。ウェイターはヘルマンが一緒に入るのを渋ったが、ヒルデガルトに説得されたようだ。
「……もしかして、人間は下賤だから主人とは別の入口から入るべきだってことでしたか?」
ヒルデガルトは肩をすくめた。
「ちょっとお堅い店を選んでしまったみたいだ」
席に通され、彼女はメニューの上から下まで目を通して、あれもこれもと頼んでいく。
「外の世界の人間はフェーゲラインで飲食するべきではない」
「それは祝福と関係があるんですか?」
「その通り。フェーゲラインにはブルネニットの微粒子の健康被害を受けない者しかいない。そして、ブルネニットから力を得ることができる者がこの国の覇権を争っている」
「外の世界の人間がブルネニット微粒子に暴露されたら……、具体的にどうなるんです?」
「アルケーもブルネニット微粒子も、それ自体強い毒性を持つわけじゃないが、生命体にとって栄養になるものじゃない。代謝できない物は吸収できずにそのまま出てくるか、体のどこかに詰まって細胞を壊死させる。体は必要なエネルギーを得られなくなり、徐々に弱っていく。栄養失調と内臓不全で最終的には死に至る」
「…………」
ヘルマンが沈黙で返すと、ヒルデガルトは青い目でじっと彼を見つめた。ヘルマンはフッと笑った。
「リッターさん、そうは言っても私もお腹が空いたんですけど……」
「野菜なら危険性が少ないだろう。彼に豆のサラダとリンゴを持ってきて」
ヘルマンはグラスに注がれた水をじっと見つめた。代謝されない物質なら、食物連鎖の上位にいるものほど体内に蓄積する。生物濃縮が起きるということだ。
オデットによって
ヘルマンのサラダはすぐに運ばれてきた。彼は主人の食事が運ばれてくるまでじっとしていた。ヒルデガルトは頬杖をついて周囲の会話を聞いているようだ。車の中では押し黙っていた彼女だったが、いくばくか調子を取り戻したらしい。
皇女グンヒルドとヒルデガルト。アーテファクト4と泉の御子ヒルデガルト。1000年前に生きた彼女たちについて、ヒルデガルトは自分を重ね合わせずにいられないのではないか、とヘルマンは察した。
「アーテファクト4は……」
「皇帝を殺すまで正気を取り戻すことはないだろう」
ヘルマンがためらった言葉をヒルデガルトが続けた。自分を呼び醒ました皇女の骸を葬った怪鳥は、空に飛び去っていった。
「ちょうどいいじゃないか。革命は成さなければならないが、私には皇帝を殺す理由がない。アーテファクト4には彼を殺す十分な理由がある」
名付けの親に対して冷たい言い方をするヒルデガルト。ヘルマンは反論できなかった。
ヒルデガルトの料理が運ばれてきて、ヘルマンはやっと食欲の解放を許された。
「まさか、待ってたのか?」
芋虫になったようにサラダを頬張るヘルマンを見て、ヒルデガルトは無垢に呟いた。
ヘルマンは野菜と豆類のサラダを食べながらひもじさを感じた。少しくらい水を飲んでも大丈夫だろう。
「しかし、手に入ったアーテファクトはまだこの王剣だけだ」
ヒルデガルトの隣の席に立てかけた棒状の包みに視線を送ると、どうしてもおいしそうな肉料理が目に入る。
「怪鳥はまだ言うことを聞くか分からない。次に手に入れるべきは白い門の鍵だが……」
「イシスかあのサイボーグが持っているんでしょうね」
どちらも渡せと言って渡すような相手ではない。
「あいつらはあの巨大な砲を持ち込むために門の鍵を奪い、フェーゲラインの国境を開放した。だが、この状態が続くことはイシスにとってもそう都合のいいことではない。滅ぶべき異界がいつまでも地表にあり、汚染物質を垂れ流し続けることは、世界の守り手であるイシスにとっては不都合だ」
「汚染物質……」
「ブルネニットもアルケーも自然界に還元されない。眠りの君の真躯の上に浮かぶと言われるこの大地が、地球の表面にめり込んだんだ。かれの真躯は大地に浸透し、すでに海に流れ出しているだろう」
「それは眠りの君にとっても都合が悪そうですね……。準備が整い次第、イシスたちは門の鍵をもう一度使って国境を閉じるんでしょう。ですが、門の鍵をもう一度使ったところで、本当にドイツの国土は回復すると言えるんでしょうか。砂の辺境伯は、この世界の運行は眠りの君にしか知り得ないことだと言っていましたが……」
「それはイシスにとっても同じだ。この世界は眠りの君が造ったモノ。その摂理を外部から操作することは例え巨大なアルケーの知能でも容易なことではないさ」
計算高いイシスがこのような制御不能な事態を自ら招いたのだろうか。それとも、何かを待っていて、お互いに不利な状況で睨み合いを続けているというのだろうか。
ヘルマンはスマホに兄からのメッセージが来ていることに気付いた。
フェーゲラインに来てから電波状況が悪く、外との連絡がうまく取れないでいる。
興奮気味な彼のメッセージは、データチップの中に入っていた情報についてまくし立てていた。データチップにはエジプトで戦士した父が残した告発文書の草稿と、巨大な構造物の設計図が収められていたという。
彼はこの情報とカドケウスのスキャンダル情報を持って、ある政治家に会いに行くというのだ。メッセージの受信時間を見る限り、おそらくちょうど目当ての人物と会っている頃合いだろう。
「外のことはオデットに一任している」
ヒルデガルトは彼の通信を盗み見したように言った。
「良かった、オデットさんは無事なんですね」
「そう簡単に死ぬような躯体じゃない」
ヘルマンがリンゴを一つ平らげる間に、ヒルデガルトは3皿くらいの凝った料理を次々と呑み込んでいった。
「外のことが気になるか?」
ヒルデガルトの青い目は動揺を簡単に見透かす。
「……いえ。私も外のことは兄さんに任せます」
遺産のことも、と彼は胸の内で付け加える。
さて、とヒルデガルトはお上品に口元を拭った。テーブルにウェイターを呼ぶ。ヘルマンは反射的にポケットをまさぐった。
「はあ、気遣ってもらって悪いが、ここはユーロ使えないよ」
「ああ……」
またご令嬢のお財布の世話になってしまう。ヒルデガルトはどこからかキラキラと輝く宝石を取り出し、ウェイターに可愛らしく謝ってみせた。ウェイターは手の上に広げた宝石をまじまじと見つめ、畏れか感謝か分からない表情を浮かべた。どうやらブルネニットは通貨に使えるようだ。
ヒルデガルトは食事代を払うと、三言二言ウェイターと言葉を交わした。ヘルマンはそれとなく耳を傾けたが、フェーゲライン内地の言葉は現代ドイツ語からかけ離れていてよく分からなかった。1000年も隔たりがあるのだ。言葉もまったく違うものになっていても無理はない。
「ここからどうするつもりなんですか? 白い門の鍵を持っている相手をこの広大な大地で探すのは骨が折れるでしょう」
「第4軍と合流するつもりだ。イシスはあの砲台のそばにいるだろうが、狼の方は依然として破壊工作を続けている。いまだ無傷の重要拠点に現れるはずだ。奴が我々の通信拠点を破壊して回っているおかげで、ヘクサエーダーとの通信強度が脆弱になっている」
戦えるのか、とヘルマンはヒルデガルトを見つめた。視線に気付き、彼女はフンと鼻を鳴らした。
「私は奴と2度も戦ったんだ。4度目はない」
二人はしばし休憩した後、車を出した。
「先ほどウェイターの方と何かお話を?」
「ああ、広場の泉が枯れてたのが気になってね」
「私はてっきりそういうものかと……」
ヒルデガルトは遠くの景色を見ていた。
「フェーゲラインに異変が起きてから、水が出なくなったみたいだ」
閉じた世界の循環に問題が起きているようだ。
ヘルマンは街道に沿って車を走らせる。石が敷かれた道路は鮮やかな緑の田園風景を貫いている。
どこか上の空のヒルデガルトの視線を追う。小さな集落から黒い煙が立ち上っていた。
目的を最優先するはずのヒルデガルトが食い入るように村を見つめている。
「ここ一帯の畑は諸侯の領地だが、ああいう集落は支配から逃げ出した農奴のもので、襲う意味がない」
「敵の仕業でしょうか」
村に寄れ、とヒルデガルトは短く命じた。
日干し煉瓦で作られた食料庫は手付かずだった。集落の人々は突然の襲撃に、わずかな食料も持たず散り散りに逃げていったようだ。ヘルマンは先ほど休憩した街と比べてひどく貧しい状況だと思った。
押し付けられるようにして重い剣の包みを渡される。
「狼煙だ」
燃えていたのは一軒の茅葺屋根の建物だった。
「来てくださると思いましたよ」
聞き慣れた声にヘルマンは背筋が凍った。揺らめく火影から異形のサイボーグが現れた。
「イシスはすべてのサイボーグを操作している。無意味なことはしない。襲っても仕方がない数人の集落なんて襲わない。これは私を誘い出すための狼煙だ。あの女はいないようだが」
ヒルデガルトは冷たい視線を向けた。
「ええ、私も無駄なことはしない。あなたは必ず誘いに乗ってくる。アーテファクトを集めているからね」
「門の鍵を大人しく渡せ。渡しても渡さなくても、お前は倒す」
彼女にはアーテファクトの気配が分かる。狼のサイボーグはアーテファクトをどこかに隠し持っているのだ。
「あなたの虚勢は嫌いじゃありませんよ。その様子だと、剣を手に入れても怪鳥は従えられなかったようだ」
「饒舌だな。お前はイシスの何なんだ?」
「今はヘルマヌビスという祝福された名を持っている。イシスが創った合金の躰は私の魂によく馴染んでいます」
古代ギリシアで習合されたアヌビス神の名だ。かれの姿が黒い肌、尖った耳と鼻先を持つ特徴的な獣頭のエジプト神を模していることは、容易に推測できた。
「イシスの使い走りの
ヒルデガルトは狼を睨んだ。腰に差した鉄の剣を抜き払う。ヘルマンは王剣を差し出そうとしたが、彼女は首を振った。
「随分と舐められたものだ。そんな安っぽい鉄の剣で十分だと? まあこの不安定な空間で王剣を振り回せば、彼の故郷を切り刻んでしまうからね」
ヒルデガルトは斬りかかった。鋭い音が響いて、銀色の刀身が弧を描いて砂地に突き刺さった。狼は鉄の腕から伸びたブレードで剣を折ったのだ。
至近距離をかすめた鋭い殺意にヘルマンは身震いした。切っ先の軌道さえ見えない。ヘルマンはじりじりと後ずさった。
ヒルデガルトは小さく舌打ちして、短くなった剣を左手で握った。赤い血がポタポタと足元に滴る。鉄の刀身がドロリと溶け落ち、青く輝く光の刀身が代わりに現れた。アーテファクト4の振るうプラズマの剣。
ヘルマヌビスの合金の腕からは高熱のプラズマブレードが伸びている。凶悪な鉤爪で空を掻きむしるたびに、躯体全身の重みをかけた一撃がヒルデガルトに畳み掛ける。身をよじり砂地に身を投げ出し、彼女は攻撃の合間を縫って細い剣を振る。
ボロボロの軍服にこびりついた乾いた血がくすぶる。骨肉を焼き切るプラズマの剣は合金の躰を貫くことができない。
イシスの祝福は名前と見た目だけではない。特殊な耐熱コーティングか、とヒルデガルトは淡々と評価する。
「羽根で撫でられるが如くだ」
狼は嘲笑う。
ヒルデガルトは熱い息を吐いた。
狼の合金の躰は痛みも疲れも知らない。
「その重い肉の躰を焼き捨ててしまえ!」
「私に指図するな! 狗の分際で」
押されている。最適化された躯体から繰り出される一撃はすべてが重く、まともに受け止めればそれだけで関節が壊される。
「非情な兵器であったことを忘れてしまったようだ。下等生物など何の感慨もなく握り潰していたあの頃のことなど!」
剣を受け流され、ヒルデガルトはわずかによろめいた。
「…………!」
脇腹を膝蹴りされ、ヒルデガルトは日干し煉瓦の穀物庫に叩きつけられた。しなびた小麦が濁流のように降り注ぐ。肋骨と内臓が損傷、躯体のシステムが警鐘を鳴らす。自らを火に焚べる。アプリケーション・アーテファクト4は寡黙に稼働している。
鉤爪で八つ裂きにするのに十分な隙だった。弄んでいるのは相手の方だ。
ヒルデガルトは身にまとわりつく小麦の波を叩き切った。
「あなたはいつからそのように剣を振るうようになったんでしょうね。私があなたに初めて持たせた人間の武器は、ライフルだったはずだ」
「それはお前じゃない」
「皇帝はあなたに剣を教えなかった。私でなければ誰が教えたんです?」
誰だ? 頭の中にノイズが走る。
戦いに集中しろ。
ヒルデガルトはヘルマヌビスの言葉を無視した。鉤爪をかわし、プラズマの剣を振るう。合金の躰は硬く、1000度のプラズマでも断ち切るに至らない。相手の攻撃を受け流すたび、関節が軋んで筋肉が悲鳴を上げる。組織が破壊されるそばから急速再生させる。
気を抜けばプラズマの制御が解けてしまう。そうなれば敵の刃に肉の体はたやすく両断されるだろう。
「あなたは剣の扱いが不得手だった。力を振り回しているだけだ」
うるさいな、と悪態をつく。メモリーを参照しているだけの機械人形のくせに。
「まさか……答えられないのですか?」
首を掻き切ろうとする刃を正面から受け止める。交錯するプラズマが揺らぎ、髪がチリチリと焼けた。
言葉に誘われ、記憶の螺旋階段を降りていく。木の棒を構える少女。目の前に相対する者――その者に教わっている。理論より模倣から入るしかなかった幼少の自分。
誰だ? 問いかけても答えない。砂のように綻びて、姿が霞む。あとはただ一人髪を結んだ自分だけが虚空に向かって木の棒を振り回している。
ヒルデガルトは目を見張った。何だ、この感覚。
こいつは嘘を言っている。私に剣の扱い方を教えたのはコニーのはずだ。かれは口では謙遜しながらも、まともな剣術を知っていた。かれはなんて言っていたんだっけ。
螺旋階段が崩れ落ち、記憶をたどる自意識が支えを失う。
胸の内からパズルのピースがこぼれ落ちていくように、何かが欠けていく。自分を構成していた小さくて大切なもの。何がなくなっていくのか、分からない。これは、不快だ。
これが忘却? チリチリと音を立てて燃えていく。灰となってこぼれ落ちる。
「果たして私を笑えるのかな? そのように何度も躯体を再構築して記憶さえ失うのなら、なぜヒルデガルト・リッターだと名乗れる?」
「黙れ!」
忘れるはずない。私を私たらしめるものは、意味のない星空に上書きしてある。
ほどけた青いプラズマが竜のごとく唸り、鉄の狼を押しのけた。振り下ろした剣先は下草を焼き尽くした。体の芯が赤熱している。荒い息をつき、内なる凶鳥の手綱を握りなおす。奥歯を食いしばる。痛覚のマスキング許容量をすでに越えている。
「…………」
集中しろ。
狼の後ろ足が燃える地面を蹴る。迫る鉤爪をかわし切れず、腕の肉がザクリと掻き切られる。炎の上を転がり、体をバネにして飛びかかった。狼は刺突を鋭敏にかわした。
鋭い鉤爪に肩を掴まれ、ヒルデガルトは宙を一周して地面に叩きつけられた。意識が明滅する。プラズマブレードを首筋に向けられ、肌が焼ける。
「まさかもうやる気を失ったのですか? 私に殺されても死なないと思っているのでしょう。否、私はあなたの真躯をイシスに献上しよう。元はと言えばあの女のものだ」
血が皮膚の内側で沸騰し、血管を破ろうともがいている。
足掻くヒルデガルトの上からヘルマヌビスは突然飛び退った。輝く光の帯が二人の間を駆け抜け、衝撃波が火を掻き消した。空気がキラキラと結晶化する。
「やめろ……、お前が剣を振り回すたび、お前は他ならぬ母国を斬っているんだぞ」
「あなたが戦えないなら……、私が、た、戦います」
ヘルマンはそう言ってみたものの、恐れと剣の重みに震えを隠せなかった。
「蛮勇だな! だが何も中身を伴わない。君はいつもそういうやつさ」
ヘルマヌビスは嘲笑った。
「どけ、ヘルマン……! お前に恥をかかされる私ではない」
血反吐を吐き、ヒルデガルトは立ち上がる。アーテファクトの力を部分的に解放した戦いを静観していた躯体のシステムは、継戦不能だと悲鳴を上げ続けている。その通りかも、とヒルデガルトは胸の内で同意する。
アプリケーション・アーテファクト4は何も言わない。己が何であるのかも自ら語ることがなかった。
星々が青い焔を上げている。きらめきながら、この肉の躯体を突き動かす力をもたらしている。
「く…………」
何も燃やしてないのに、火が上がるはずがないのだ。
今まで気付かなかったのは、いつもヘクサエーダーがバックアップになっていたからだ。今は通信強度が確保できず、ヘクサエーダーは呼びかけに答えない。
これ以上忘れるわけにはいかない。この青い焔にすべて委ねて一切を忘れてしまえば、自分とあの怪鳥を区別するものは何もない。
「これで――終わらせる」
ヘルマヌビスは聞き入れたように手招きした。
自分が生まれ持ったアーテファクト4の両脚ぶんの力。迷いさえ焼き尽くしてくれ。
光剣を抜く。一閃。涙がプラズマの熱に爆ぜた。
ほとんど死んでいる脚に鞭打ち、飛びかかる。赤熱するプラズマブレードを両断し、硬い胴めがけて刺し貫く。
青い結晶が砕け散った。
「――――!?」
何を斬ったのか。ヒルデガルトは間合いを取った。
後ずさるヘルマヌビス。手に握った球状の物体にはヒビが入り、青い輝きが漏れ出ている。
「それは……!」
鉤爪が宝珠を握り潰した。光が溢れ出し、破裂した。
閃光と衝撃波が周囲を吹き飛ばした。
ヒルデガルトは光の中に飛び込んだ。
「よくもアーテファクトを……!!」
ヘルマヌビスのボロボロになったマニピュレーターの隙間から青い欠片が輝きながら流れ落ちた。アーテファクト2、白い門の鍵だった。
「これを渡すわけにはいかないのですよ、お嬢様」
「どういうことだ!」
ヒルデガルトは半狂乱に喚いて狼に飛びついた。
「それは私のセリフよ」
背後から冷たい声が響いた。ヘルマヌビスは振り返りざまに鉤爪を振るった。耳障りな金属音を立てて金色の杖を阻む。
血のように赤いイシスの目が、いつもの作り物の笑みも失って明確な敵意を向けていた。狼はヒルデガルトを引き剥がして合金の躰の陰に庇うように隠した。
「アーテファクトはあなたごときに扱えるものじゃない。なかなか渡さないのを大目に見て好きに泳がせていたらこの始末。どうやらあなたは躾けようのない野良犬だったようね」
「それは光栄な言葉だ。野良犬にとって鎖など不名誉なものに他ならない」
「放せ! イシス……お前を!!」
「いいえ、この女と戦うのはお嬢様、あなたではない」
ヘルマヌビスは杖を弾き返した。イシスはよろめきもせず、半歩下がる。
どういうことだ、とヘルマンは物陰から様子を窺いながら同じ疑問を抱いた。ヘルマヌビスはイシスの手によって創られたものだ。だがこの穏やかで自信に満ちた口ぶりは、まるでコンスタンツ・ヴェルフそのひとそのものではないか。
「お前がアーテファクトを壊したせいだ!」
「アーテファクトを集める、それはアイデアとして正しい。ですが目的を履き違えている。アーテファクトをすべて集めたって、あなたはイシスには勝てない」
イシスは肯定する。
「その通り。私からすればあなたは矮小な小鳥に過ぎない。私は最初からこの世界の主、そしてこの世界を沈めることしか眼中にないわ」
「だがそれよりもお前が優先しなければならないのは、表の世界の安寧だ、そうだろう?」
「あなた最初から私を欺くつもりだったのね」
赤い目はゾッとするほど冷たい光を宿している。
「それはお前がよりによってこの私を飼った代償だ」
「さっきから何なんだ、私を騙したのか?」
ヒルデガルトは鋼鉄の爪を振りほどこうともがくも、鉤爪が肉に食い込むだけだった。
「ええ、私は裏切り者です。あいにくこのような呪われた星の下に生まれたおかげで、主を裏切らずにはいられない」
「どうして……」
「忌まわしい獣め、私のものにならないのなら、失せなさい」
イシスが白い手を伸ばした。狼は鋼鉄の牙を剥いた。
「……フン」
片腕を食いちぎられながら、イシスは眉一つ動かさなかった。肘から先を失った腕から赤い血がどくどくと流れ出したが、すぐに新しい組織に覆われる。
「…………! コニー、」
ヒルデガルトは狼に掴まれたままの手から、ヘルマヌビスの躯体の異変に気付いた。
肉と骨の欠片を吐き捨て、重い合金の躰が膝を折る。装甲に覆われた手がそっとヒルデガルトの頬に触れた。硬くて冷たくて、チリチリと内部の回路が焦げる音がする。
「お嬢様……。誓いを破る宿命にあっても、私はあなたのお側にいることを選びたかった」
全身に満ちた機械から生気が失われていく。駆動音が途絶え、電子回路の瞬きが消えていく。ヒルデガルトは青い目を見開いてかれを見つめた。合成音がかすれる。
「私を忘れないでください、決して……」
「もう充分に死者の言葉を聞いたでしょう?」
冷たい声が遮った。空から光が迫り、雷のように狼の躰を貫いた。知性なきモノと化した躯体が音を立てて倒れる。高熱に揺らぐ空気の向こうに赤い目が燃えている。
「――――」
動け、逃げろ、今すぐに。
戦闘システムが悲鳴を上げている。上位者の殺意がまっすぐに注がれている。本能的な恐怖が全身に走り、心臓が早鐘を打つ。おそらくあの砲から放たれた熱線、防ぐ術はない。
何か戦意を失わせることを言う? ――疑似感情も放棄した敵には無意味だ。
体はヘビに睨まれたカエルのように竦んで動かなかった。
熱線が雲を貫いて輝くのが見えた。
衝撃。
ヒルデガルトは吹き飛ばされ、木の柱に頭をぶつけた。グラグラする意識で目を開くと、先ほど立っていた数メートル横の地面が大きくえぐれていた。
「クソッ……」
女神は悪態をつき、空を仰いだ。しわがれたカラスの声が響いている。2羽のオオガラスが頭上を旋回していた。
「あなた、よっぽど好かれているのね。……忌々しい」
イシスはゾッとするような笑みを浮かべた。
「でもおかげで頭が冷やせたわ。あなたのようなジャンクにセルケトのエネルギーを浪費する必要はない。邪魔者を排除するという目的はすでに果たした。
この犬ころ……、ボロ雑巾のようになって死にかけていたから私が特別に腕を振るって新しい躰を用意してあげたというのに。いいえ、これは私の落ち度ね。眠りの君による種の改変が意識の構造にすら及ぶことを見落としていたんだから」
彼女は二股に分かれた王杖の先で合金の躰をつついた。
「こいつは最初から私を邪魔する目的で、アーテファクトをガイコツ伯爵から奪い、今の今まで私に渡さず持っていた。どういう意味か分かる? 間抜けなおちびさん」
ヒルデガルトは答えることができなかった。
「白い門を解放し、フェーゲライン世界が基底世界に覆い被さったまま放置したら……、フェーゲラインの汚物が基底世界を汚染するだけじゃない。基底世界はフェーゲライン世界に完全に上書きされることになる。そんなの私さえも望んでいないってこと、その数リットル分のおつむでも分かるでしょう?」
「……失せろ」
ヒルデガルトは声を絞り出した。
「ええ、消え失せてあげるわ。あなたなんかに構ってる場合じゃないし。鍵が壊された今、鍵をもう一度造るか、この世界を引き剥がすかしかないもの。それはこの世界のことを一番よく知っている設計者にしかできないんだから」
イシスは白髪をなびかせ、踵を返した。現れたときと同じように、溶けるようにして気配が消え失せる。
「リッターさん……」
脅威が去ったのを確認して、ヘルマンが瓦礫の陰から這い出した。ボロ小屋の柱にぶつかったままもたれたヒルデガルトの肩を揺する。ヒルデガルトはフラフラと立ち上がり、合金の
砲撃に晒された躯体はいまだ熱を帯びている。機械の躰はもう溶け落ちた鉄の塊でしかなかった。
「………………」
声を詰まらせるヒルデガルトに、ヘルマンは掛ける言葉がなかった。雨も降っていないのに、大粒の雫が躯の上に滴り、ジュッと音を立てた。
荒涼とした大地に乾いた風が吹きすさび、空で音を立てて渦巻く。わら屋根に降りたカラスがガアガアと騒ぎ立てている。
「……コニーじゃない」
かすれた声が呟く。
「とっくの昔に死んでたんだ。私が偽の王剣なんかに刺されて寝てる間に。これはコニーなんかじゃ……ない」
「そんな酷いこと、言わなくていいんですよ……」
ヒルデガルトはずるずると鼻をすすった。何かまだ言おうとしてしゃくり上げる。
「少し一人にしてほしい。ほんの少しだけ……。いつまでも泣いてたら、革命なんかできないから」
「……分かりました。私はあっちにいますから」
ヘルマンは彼女の求めるままに立ち去った。鼻の奥がツンとして、咄嗟に歯を食いしばる。
瓦礫を乗り越えたその時、背後にまばゆい光の柱が立ち上った。熱波に焼かれないようにヘルマンは慌てて地面に伏せた。
青い焔。
ヘルマンは光が弱まってから様子をうかがった。うつむくヒルデガルトの視線の先には、もう黒い亡骸がなかった。かろうじて残骸のように燃え滓が残されていた。
そのままどれだけの時間が流れただろうか。ヒルデガルトは振り返った。泣き腫らした目はもう涙を流さなかった。
「……行こう。迎えを待たせてる」
2羽のオオガラスが喚き立てた。
死者を弔うにはあまりにも短い時間だ。
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