第72話 Erbe des Vaters

 ハインリヒはある人物に電話をかけ続けていた。自動音声が主の不在を告げる。彼は舌打ちした。

 ドイツに戻ってきた彼は、弟に託されたデータチップの中身を確認した。厳重な暗号化はヒルデガルトのものだ、と解析に協力したヘクサエーダーが言っていた。彼女はこの中身を知っていたのだろうか。

 データチップに格納されていたのは、書きかけの報告書といくつかの動画データ、そして巨大な3D設計データだった。2年も経って、新しい遺産を手にするとは思わなかった。ハインリヒは報告書の署名を見て、全身が総毛立った。フリッツ・シュタール、彼の父親の名だったのだ。

 報告書の草稿データが作成されたのは、父の命日の数日前だった。父が死んだエジプトのカイロ近郊。彼は最も凄惨な戦場となったカイロ総攻撃の1週間前に、この報告書をしたためていた。これは完成されることなく、誰の目にも触れることなく今まで封印されていた。

 報告書はカイロの民兵が潜む市街地への偵察で得られた情報について記していた。添付されていたいくつかの動画は隊員のボディカメラの映像だった。重たい3Dデータは潜入した地下施設で入手したものだとされている。

 ハインリヒは額に滲む汗を拭った。ヘルマンはこれを自分に託したのだ。プレッシャーに脈打つこめかみを押さえる。

 もう一度3Dデータを開いて目を凝らそうとして、車の窓がコツコツと叩かれた。ハインリヒは反射的に拳銃に手を伸ばした。

 季節外れのコートを羽織った細いシルエットが窓の外に佇んでいる。ハインリヒは大げさにため息をついた。



 ハインリヒは連れを隣に乗せて車をベルリンに向けた。

 新しいレンタカーは思うように進まない。


「ベルリンが封鎖された頃もこんな感じだったのか?」


フェーゲラインの隣接地域から逃れようとする人々の車で、幹線道路はパンク状態にあった。


「ネオナチ女の私に言って面白いか?」


オデット・T・レルシュはそう真顔で返す。

 オデットは頭に包帯を巻き、眼帯で片目を覆っていた。

 あの狼のサイボーグに頭を叩き割られた彼女は、ハインリヒの仕業で一般の病院に搬送された。どういう取引をしたのか、彼女は適切な治療を受けた後に病院を抜け出すことができたらしい。


「やっぱりお前もアイツのこと好きだったりするのか?」

「誰だ?」


ハインリヒは頭の上で三角耳を描いてみせた。フン、とオデットは鼻を鳴らした。


「おそろいじゃないか」

「どうだか。アイツはあの狼のことを好いてるが私には関係ない。頭を粉砕されてなお好意を抱いていられるのはアイツくらいだろう」


オデットはそう冗談めかして言った。



 オデットはハインリヒの車に乗るや否や、ベルリンにあるSPDの党本部に向かうのだと言った。渋滞を迂回してようやく大通りの角にそびえる特徴的な鋭角の建物にたどり着く。

「私のことはヒルデガルトと呼べ」とオデットは事前にハインリヒに釘を差した。彼女は営業スマイルで入館の正式な手順を踏んだ。受付の係員はオデットの運転免許証を機械的に確認して入館バッジを渡した。彼女の目的はSPDの青年部のリーダー、イレーナ・ゾーティスだった。

 イレーナ・ゾーティスはフェーゲラインが鎖国していた頃からのヒルデガルトの古い友人だ。彼女はフェーゲラインの難しい立ち位置を知りながらも、ドイツに寄生するのではなく経済的に自立すべきだと唱えている。フェーゲラインから距離を取ろうとするSPD本部よりも一層踏み込んだことを主張し、若者の支持を集めている。

 一見対立するように見えるが、彼女は何度もヒルデガルトの「夜会」の招待を受けている。政治主張は噛み合わないが、政界の情報などをヒルデガルトに持ってきて議論する間柄なのだ。というのも、SPDの青年部としてのイレーナはSPDの老人を厳しく追及する立場にある。現政権の主張に反発し、新しい思潮を生む新陳代謝の役割を担わされているのだ。それが本心からのものであるのかは誰にも分からない。

 ハインリヒは彼女に「父の遺産」を渡すべきか考えていた。今やヒルデガルトにとって、強力な政治家へのパイプは残り少ないだろう。



「こんにちは、えーと……」


目につく鮮やかなジャケットを羽織ったイレーナ・ゾーティスは、客人の姿に困惑しているようだった。


「あなたがヒルデガルト・リッターさんの代理、ということ?」


オデットはうなずいた。


「私のいつもの躯体はフェーゲラインにいて手を離せない仕事をしているんだ」


イレーナは意外にも素直に受け入れた。


「彼はヘルマンの兄、ハインリヒだ。今は一緒に行動している」


どうも、とハインリヒは挨拶した。ヒルデガルトが友人にしか見せないフランクな口調を、オデットは完全に演じている。ハインリヒは内心気味悪く思ったが、顔には出さなかった。

 イレーナは秘書に茶を出させた。温かい紅茶はおそらくヒルデガルト好みのものだ。


「ヒルデ……、あなたからの連絡が来たときは心底驚いたわ。あなたが無事でいるのが信じられなかったし、まさかこういう形で話ができるなんて」

「心配してくれてありがとう。もうなりふり構っていられる状況ではなくなったんだ。確かに私は愛らしいお嬢様でいなければならないが、力ある者が国の窮地の際に能力を発揮しないわけにはいかない」

「時間が惜しいでしょう? 遠慮しないで言って。私にできることは何でもする。できることが限られているのが辛いところだけど」

「そんなに結論を急ぐべきじゃない。順を追って話そう。まずは伝えたいことがあるんだ……」


オデットは完璧な令嬢の所作で紅茶を飲んだ。


「今のフェーゲラインの状況は、違法科学集団カドケウスが引き起こしたものだ。カドケウスはフェーゲラインに不利な世論を醸成し、人々の総意であるかのように装ってテロリストをフェーゲラインに送り込んでいる。彼らの目的は最初からフェーゲラインを滅ぼすことだ。世界の裏側に潜むフェーゲラインを地表に引きずり出せば、どこからでも侵入できるし、世論を掻き立てれば正規軍を使って攻め入ることだってできる」

「滅ぼすって……。確かにあなたはカドケウスのサイボーグを破壊してきたけど、そこまでする理由が?」

「問題は、カドケウスの背後にいる存在だ。カドケウスは所詮数人で構成された漠然とした集団で、知能は場所を問わない。だから本拠地やリーダーを見つけることが困難だった。私達は彼らのサイボーグプラントや周辺の組織からヒトとモノの動きを探り、背後にいる一人の人間にたどり着いた」


カリーム・ビラール、とオデットは口にした。

 今市場に流通している食用人肉や医療用臓器は、プラントで造られたクローン人間のものだ。彼らが人間のクローン技術を確立したのは途中からだった。サイボーグ技術の最初の実験体は、皆カリーム・ビラールが設立して監督している難民向け児童養護施設から提供されていた。


「そんな、どうして? 違法科学に出資して、ましてやフェーゲラインを滅ぼすなんて彼に何の動機があるというの?」

「彼は混迷に陥ったエジプトから来た。カイロの政府を転覆させた者の生き残りだ」

「それは……、すでに多くの人がゴシップを書き立てたけど、誰も立証することができなかったでしょ」

「もちろん証拠がついに見つかったから、あえて言うんだよ」


イレーナは瞑目した。まだ証拠を見ていないが、ヒルデガルトを信頼しているのだ。

 オデットはその隙にハインリヒに目配せした。横に首を振る。「証拠」はまだ使うべきではないようだ。

 すでにフェーゲライン上空に浮かぶ超文明の構造物も、兵士を鼓舞するヒルデガルトの姿も世界に報道されている。父の遺産はすべての点を繋げる手助けをするものに過ぎない。


「多くの人にとって彼のサクセスストーリーと聖人のごとき行いは、消費されるストーリーに過ぎない」


オデットは淡々と話した。そうね、とイレーナは小さく答える。


「彼は元々ミステリアスな人物。大きな成功を収めながら謙虚なままで、理想にひたむきでいる。そこが人々を惹きつける不思議な魅力だし、人々に物語を作らせる弱点でもある、ということね」


すでに彼は様々な物語を作られ、ことごとく疑惑を跳ね除けてきた。


「でもその多くは彼のような有色人種や難民を憎む差別主義者からの攻撃だった。私はその側に立つことなんてできない」

「イレーナ、君にその必要はないさ。物語を紡ぐポピュリストになる必要はない。君に頼みたいのは別の仕事だ。私たちには君以外に頼れる政治家がいないし、残された時間も少ないんだ」


オデットは澄んだ青い目でイレーナを見つめた。


「君には意のままにできる老人がいる。今の国防相はSPDの爺さんだっただろう。彼を突き上げればいい。国防相はフェーゲライン第4軍との折衝を現場任せにしてきた。すべてを担っていたハノーファーは今やフェーゲラインの下敷きだ。無知な大臣のさじ加減で状況がコントロールされてしまう。だがちょうど私はいて、君に現場の情報を譲ることができる。君は第2の国防相として状況をコントロールできる」

「連邦軍を使ってフェーゲラインを助けること、それがあなたの望みなの?」


オデットはフフッと笑った。


「そんなこと望んじゃいないさ。連邦軍を使わせないこと、それだけが叶えばいい。私たちがドイツ人の敵じゃないことは、残念ながら現場しか知りえないことだった」

「本当に? 軍事支援はいらないの?」

「何人たりともフェーゲラインに踏み入るべきじゃない。今の状況は長引かせない。踏み入った者は帰れなくなる可能性がある」


イレーナは少し逡巡して眉根を寄せた。


「簡単なことじゃないわ。戦争がようやく終わって、確かにSPDはCDUとの連立を呑む条件として国防相に平和主義者を置いた。国防相は軍事費の拡大には懐疑的だけど、平和をもたらすための軍の動員までも渋る老人とは言えない。それに、議会も世論もフェーゲラインに不利に動いているわ」


事実として、ドイツの国土の上に覆いかぶさったフェーゲラインの国土は、国土と国民に大きな被害をもたらしている。フェーゲラインへの不信感は最高潮に達している。


「フェーゲラインは必ず、数日内にドイツの国土と人々を解放する。私の言葉で足りなければ、後で正式に書簡を出そう」


オデットの眼差しは真剣だ。


「押し潰された人々はどうなっているの? 国境付近では切り抜かれたように人々や建物に被害が出ているけど」

「彼らは無事だ。押し潰された空間では、時もまた止まっている。このままフェーゲラインが再び世界の裏側に戻れば、国境の内側にいた人々は無事戻れる」


ヒルデガルトの書簡は、彼女の外交特権。皇帝の委任により彼の養女の名で出される青い封筒は、政治的儀礼を重視する政治家にとって無視できないものらしい。それを使うということは、ブラフでは済まないということだ。勝算があるのか、とハインリヒは勘繰った。

 イレーナの視線は揺らいでいた。彼女の言葉を信じるべきか、自分が彼女の期待に応えるために危険な賭けに出るべきか。


「……いいえ、もう彼の励ましを頼るべきじゃないわね。彼はいつも私の背中を押してくれた。いいえ、私が彼の強さに憧れていただけ。彼の強さは私が追い求めるべきものじゃない。彼が社会正義について語るとき、どこか遠いところをくらい目で見ている気がした。彼は理想の実現のために費やされる犠牲について覚悟ができていたのね」


イレーナは彼の目が見ているものを漠然と分かっていたのかもしれない。


「格差と差別が固定化されたこの世界を変革するだなんて、一朝一夕にできるはずがない。夢を見せてくれるかもしれないと思いつつ、みんな彼の挫折へのストーリーを楽しんでいるけど、夢が本当に現実になるとしたら、これほど恐ろしいことはない」

「イシスは彼に約束したんだ」


人類の終焉を見届けた遠未来の技術なら、世界を変革することだってできる。

 力を尽くしてみる、とイレーナ・ゾーティスは約束した。



 二人はイレーナ・ゾーティスの事務室を去った。廊下でハインリヒが腑抜けた声を上げた。踵を返し、通りすがりの女性の肩を掴む。


「あんた、アリシアじゃないか」

「あっ……、な、人違いでしょう」


そう言いながら、赤毛の若い女性は小さな声で囁いた。


「大きな声を出さないで! こっそり来てるんだから!」

「ははーん……」


ハインリヒはつい先ほど出てきたイレーナの事務室の扉を振り返った。彼女もイレーナの客人だったようだ。


「ちょうどいい、ぜひ会いたいと思ってたんだ」


彼は戸惑うアリシア・ミュラーを連れて3人でカフェに入った。

 ARDの若き記者アリシア・ミュラーは、ハインリヒが連れている女の姿に目を丸くした。


「あなた、その、ファッションモデルの方よね?」

「よく分かったね、もしかして私のファン? あいにくサインペン持ってないんだけど」


オデットはVIP気取りの濃いサングラスをかけて帽子を目深にかぶっている。ハインリヒはどこから説明すべきか悩んだ。


「それはいいだろ、ともかくあんたが無事でよかった。てっきりフェーゲラインの下敷きになったかと思った」

「それはあなたも同じく。でも、ヘルマンは? 彼と連絡が取れないんだけど、無事なの?」

「連絡なんか取ってるのか?」


アリシアは焦って取り繕った。


「合同旅団の司令部ごとなくなったんだから、心配してメッセージくらい送るって!」

「あいつはフェーゲラインでヒルデと一緒だよ。無事だと思うけど、ヒルデが何とかしてくれるさ」


ハインリヒはアリシアが弟のことをまだ気にかけているのを意外に思った。


「ヘルマンには他にも心配してくれる人がいたんだな、いいことだ」

「何の話?」


二人は同時に振り向いて、つまらなさそうにアイスティーの氷をかき混ぜているオデットを見た。アリシアはハインリヒに耳打ちした。


「この人は信用できない。一体どこで知り合ったの?」


それもそうだ、とハインリヒは笑う。オデットは二人のささやき声を拾った。


「私はヘルマンの今カノなんだ」

「えっ? 絶対嘘だわ」


アリシアは一瞬で嘘を見抜いた。だって、と続けようとして、アリシアはきまりが悪そうに口を噤んだ。


「じゃあこいつの彼女」


ストローで指されたハインリヒは何でだよ、と笑った。


「喉も潤したし本題に入っていいか? そもそも名誉ある国営放送の記者が何でこんなところをウロウロしてるんだ? ゴシップ誌にでも転職したのか?」

「からかわないでよ。悔しいけど、フェーゲラインの報道はウケが悪いって干されてるの。何でもいいから情報を集めてるの。まずリッターさんの最後の『夜会』に参加した面々に接触しようと思って」

「とんだフットワークだ。それでイレーナ・ゾーティスに会おうとしてたのか」

「彼女に会えば、彼女が懇意にしてるカリーム・ビラールにも会えるかもしれないし」

「奇遇だな、俺たちもそいつに会いたくて仕方ない。それにしても、情報を集めてるなら俺たちの持ってる情報は一番役に立つだろう。これで特集を組めるぞ」


ハインリヒは小さなデータチップを取り出した。オデットが口を開く。


「これはイシスが血眼になって探していたデータだ。それもそのはず、彼女がカドケウスを召集する前、彼女がエジプトを立つ前の事件にまつわるものだからだ。そのとき、彼女はまだ『イシス』という名をまだ名乗っていなかった。彼女はデータの流出を感知し、証拠隠滅のためにカイロは完膚なきまでに叩きのめされた。このデータこそが彼女がカリーム・ビラールに約束した『楽園アアル』を築く具体的な方法を説明しているからだ。そしてカイロの政府とヨーロッパを破壊したのは同一存在だと物語るものだからだ」


アリシアは目を白黒とさせた。

 WW3エジプト戦線。NATO軍所属のドイツのある部隊がカイロで地下空間を発見し、無人の工場でミサイルが製造されていることを知った。そして、さらに深部から彼らは「巨大な構造物」の設計データを持ち帰った。1週間後にはカイロへのNATO軍の総攻撃が迫っていた。

 命からがら持ち帰られたデータを見た指揮官フリッツ・シュタールは、情報をNATO軍本部に渡すべきか悩んだ。NATO軍は母国からの強い要請で、戦果に焦っていた。ミサイルを次々発射するエジプトは直ちに非武装化されなければならない。情報を今提供すれば、揉み消される可能性が高いし、自身の身も危うい。

 彼は文書をしたためた。本当に立ち向かうべき脅威について、彼の力だけでは解き明かすことはできなかった。

 だがフリッツ・シュタールはカイロから撤退する前に戦闘に巻き込まれ、戦死した。カイロの地下に眠る脅威の痕跡はNATO軍による総攻撃で跡形もなく破壊された。

 彼の持っていたデータチップは何も知らない戦友の手に渡り、今日に至るまで公開されることはなかった。


「そ、それがあなたとヘルマンのお父さんの死の真相……?」


饒舌なオデットの推理にアリシアは言葉を失った。


「驚いただろう。不可解な事件の裏側には、人類より強大なものが絡んでいる。残念ながらそれは陰謀論なんかじゃない。その驚きこそが、我々を勝利に導くカギだ」


オデットはハインリヒがアリシアを呼び止めた意図をよく理解していた。

 車の中で、ヘルマンから託されたデータチップの内容についてオデットと話をしていた。

 フェーゲラインを元に戻すのは、国内にいるヒルデとヘルマンたちの仕事だ。自分たちは彼らとドイツのため、ドイツの世論がこれ以上フェーゲラインに不利に働くのを阻止しなければならない。パニックに陥った人々、加熱するデマゴギー、膨れ上がった感情は急激に政治を動かす可能性が高い。ドイツが軍事行動に腰を上げれば、フェーゲラインとの国交正常化はますます困難になり、自分たちがやってきた仕事も泡沫と化す。

 起きてしまったことは仕方がない。状況を変えるためには、ものの見え方を変えることが必要だ。

 世論を傾かせるためには、もっともらしい上辺の面白いストーリー、ナラティブが必要だ。

 イシスの戦争準備はずっと前から始まっていて、ハインリヒたちがサイボーグと戦い始めた頃には彼女はすでに世論を握るに至っていた。フェーゲラインはドイツに損失を与える一方で、ドイツ民族に帰属すべき土地だと。彼女の杖カドケウスはすでに社会に食い込んでいた。「違法科学」という概念が暴いたのは、おぞましいほどの社会の分断と、修復不可能な世界への絶望。

 劇場化した世界で物語を楽しむ人々は、もっともらしい物語に感情を突き動かされる一方で、演者に対する責任感を何ら持ち合わせていない。どれだけ同情してみせたところで、彼らが手のひらを返すのは一瞬だ。

 最もファンタジックなアイデアは、人々に次の楽しみを与えられるはずだ。残念ながらそれが事実であるということは、次第に理解されればいい。

 アルケーの存在を暴露し、すべての陰謀の裏側にいる黒幕だと声高に叫ぶのだ。材料はすでに揃っている。


「父さんの死を有象無象の人々のエンタメに使うのは癪だけど、彼らを楽しませるには十分だろう。軍に渡したところで、戦果を讃えられた英雄が名誉を返上するはずがない。これは告発されるべき罪でもある。真実を闇に葬る手助けをしたんだからな」


アリシアはデータチップを受け取り、書類ケースの中に滑り込ませた。


「スタジオの力が借りられないなら、私が見繕ってやるよ」


どういうこと?とアリシアは半信半疑にオデットを見上げる。


「番組を作るのには間に合わないだろ。こいつはネット友達が多いからな」

「ナ、ナチの手を借りたなんてバレたら局での立場が怪しくなっちゃうわ……! でも、急を要するならネットニュースとかSNSが一番速い……」


オデットは切れ長の目を細めた。包帯でぐるぐる巻きになっていても、さながら肉食動物のようだ。


「仕方ないな……。キミに私のヒミツを教えてあげようと思うんだけど」


彼女は返事も聞かず、アリシアの手首を掴んで立ち上がった。カフェの店員に言ってトイレの方向にツカツカと歩いていく。ハインリヒはアリシアが手首がねじ切れないようについて行くのを見送った。

 二人が戻ってくるのを待っている間、ハインリヒはテーブルに近付いてくる人影に警戒心を絞った。スーツの前を開けた人物は明確な意志を持ってテーブルの前に立った。明らかに銃を持っている。


「……何だ?」

「彼女が戻ってきたら、『来た』と伝えてほしい」


スーツの人物はチラリと店の奥を一瞥すると、それだけ言って去っていった。

 トイレから出てきたオデットは満足そうで、アリシアは困惑した表情だった。


「納得できたなら、後はよろしく頼んだよ。私は別のお客さんが来たみたいだから」


軽い足取りで外に出ようとするオデットを見てハインリヒはすぐ立ち上がった。


「おい! ヒミツばっかりはやめろ」


オデットの客がスーツの人物に関係するのはすぐに分かった。アリシアの動揺した声を残して店を出る。


「え、ちょっと、お代は私持ちなの?」



 ぴかぴかに磨き上げられた防弾車がカフェの前に停車していた。先ほどのスーツの人物がドアを開けた。オデットは何の抵抗もなく車に乗り込んだ。ハインリヒも彼女の無礼さを真似て体をねじ込む。


「やっとこの封筒を渡すにふさわしい人物に会えたよ」

「まさかこのベルリンのヴィリー・ブラント・ハウスに来ておいて、私に会っていかないはずはないと思ったけどね」


今さら驚きはしない。ヒルデガルトの「夜会」に来たことがあると言われる人間の一人だった。

 老獪なドイツ連邦首相はにんまりと笑ってみせた。

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