第18話 Labyrinth 2


 お腹をすかせて帰ってきたヒルデガルトにヘルマンが料理を作った。深夜にもなって濃い疲労の色がヘルマンの顔に浮かんでいる。彼は文句一つ口にせず黙々とキッチンに立ち、山盛りのパスタを作った。

「お説教は明日にしておきますから、好きなだけ食べてください」

山盛りのパスタをヒルデガルトは頬張る。彼女は温かな食事に涙すら滲みそうになるのをこらえた。

「現金を持っていかなくて何も食べられないなんて、お馬鹿さんですねえ」

ヒルデガルトは無言でパスタを胃に収めるので精一杯だ。ヘルマンはその姿を眺めながら続ける。

「フランクフルトの駅前は特にひどいスラムではありますが、ドイツではもう珍しくない光景ですよ。私はハンブルクの軍大学にいましたけど、近寄ってはいけないエリアというものが何箇所かありました」

戦争の災禍は人々を一瞬で家無しにし、あらゆる誇りを奪っていった。周辺国に比べてそれほど高くなかった貧富の差は戦争によって拡大し、今まで貧しかった者はとうとう這い上がることもできなくなった。難民問題は継続し、誰も手を差し伸べる余裕がなくなり、彼らは自助努力で生きていくしかなくなった。その結果として、無法地帯のスラムが点々と生まれているのだ。貧しい人々は犯罪に手を染め、貧しい人々を食い物にする犯罪者がそこに集まり、罪の連鎖がとめどなく繰り返されていく。

「この街があまりにも無傷で、平和なだけです。人間に襲われたのではないのが奇跡ですよ」

ただの人間相手ならヒルデガルトが恐れる必要はないだろう。だが、この厳しい社会は彼女のような見た目の少女たちにとりわけ厳しい。カドケウスの餌食にされる少女たちの存在も、そうした当たり前の中で看過されてきた。荒くれ者にとって、スラムに迷い込む子羊はいつ食べても構わない無料の餌のようなものだ。

「フェーゲラインにもそういう景色は珍しくない」

口の中のものを飲み込んでヒルデガルトがようやく反応した。

「わかってるならどうして……」

ヘルマンは呆れのため息を付いた。

「むぐ、むぐ……」

ヒルデガルトは再びパスタを頬張り始めた。

「おいしい」

「それはどうも」

「リッターさん、ついこの間ヘクサエーダーに身体を乗っ取られてあんなに怒っていたのに、どうしてまた一人で行動なんかしたんですか?」

「うん……」

ヒルデガルトは少し後ろめたそうな表情を浮かべた。

「軍にいるとできることが厳しく限られてくる。第4軍でも自由に身動きは取れない」

当然じゃないですか、という言葉をヘルマンは飲み込んだ。

「我々がこの国で上手くやっていくためには、自由に動かせる手足が必要なんだ。そしてそれはまだ揃っていない。であれば私が動かなければならないこともある」

「この事態はフェーゲライン第4軍が承認した任務ってことですか?」

「そういうわけじゃないけど……」

まったく、とヘルマンは呆れた。

「ヘクサエーダーは隷下の戦闘部隊を管理している。だが、奴の隷下にない地位向上局は私の直属局で、私が自在に動かせる組織だ。今回は私が私の意思で、地位向上局の任務として出かけた」

第4軍地位向上局。この旅団は第4軍の指揮系統上は地位向上局の隷下にある。そして、コンスタンツは地位向上局の監査官だ。

「はあ、それで、どんな偉大な任務なんですか?」

「軍の外部とのコネクションを作り出し、第4軍の生存を確かにすること、そして地位を向上させること。それが地位向上局の任務だ」

スパイじゃないですか……とヘルマンはため息を付いた。

「お腹が空いて敵の罠に落ちるスパイなんて、初めて聞きました」



 連邦刑事局BKAの解析の結果、フランクフルトのスラムで射殺したサイボーグは捜索願が出された少女ではなかった。DNA鑑定を行っても、この少女がどこの誰か突き止めることはできなかった。ただ、彼女が自分の肉だと称した料理からは彼女と同じDNAが検出された。そして料理を提供していたキッチンの冷凍庫からは人間の肉が何人分も発見されたという。ただし、それらの死体がどこから提供されたものかオーナーは知らなかった。死体は丁寧に処理され、食用に供されたものであることは確かだった。オーナーらは人肉レストランはそう珍しいものではないと言って釈明した。

 サイボーグの口から語られた何者かの発言が確かなら、カドケウスはサイボーグ手術の過程で出た元々の少女たちの肉体を、人肉市場に売り出して利益を得ているのだ。

 ウェイトレスのサイボーグについて、オーナーは3日前に肉の入荷と共にアルバイトを申し込んできた少女だと答えた。このスラムに似つかわしくない少女だったが、感情に乏しく何か訳ありのように思われたため、親身になっていたという。BKAは肉を納入した業者を追跡しようとしたが、地下ビジネスは複雑に入り組んでいて容易ではなかった。

 カドケウスが関与している深い闇の一端を知って、ヘルマンは嫌悪と憤りに体を震わせた。だがその一方で、肉を食べるべきか悩んだヒルデガルトの心の内に、不気味なものを感じていた。いくら空腹で死にそうになっていても、人肉を供されてまともな人間なら迷ったりしない。ヒルデガルトならなおさら、空腹が限界に至っても完全な死に至るわけではないのだから、迷うはずがないのだ。

 やはり彼女は人間ではないのだ。人間ではないとはどういうことなのか、ヘルマンは少しわかった気がした。彼女は人類を同じイキモノだと認識していないのだ。人類が家畜を食べるように、彼女にとっても……。

 ヒルデガルトを連れ帰ってきたコンスタンツの暗い表情を思い出す。いつも余裕に満ちた笑みを口元に浮かべている彼が、真剣に眉間に皺を寄せていた。ヒルデガルトはぎこちなく彼らに手を振って別れた。彼はきっと、ヒルデガルトに怒っていたのだろう。だが、狼の彼自身は……?

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