第17話 Labyrinth

前回のあらすじ

 フェーゲライン人と対等な関係を演出しているドイツ連邦軍も、実際は一枚岩ではなかった。彼らに友好的なハト派将校たちすら、ヒルデガルトの立場を利用しようとしていた。人類とフェーゲライン人――ヒルデガルトとの間に存在する深い亀裂をヘルマンは目の当たりにする。ちょうどその頃、ヒルデガルトは密かに行動を起こしていた。



 地下研究室を抜け出し、旅団司令部をヒルデガルトはこっそりと出た。いくつもの監視カメラの目をごまかし、何も知らない兵士の脇をすり抜けた。司令部をぐるりと囲む3mはある高い壁を飛び越え、畑の土に覆われた外の世界へ。

 それでも忠臣の目はごまかせない。それも計算のうちだ。マスクのコウモリが背後から追跡しているのを無視して、人気のない道に踏み出す。

 あらかじめ呼び出していた相乗りタクシーがちょうど到着し、ヒルデガルトはするりと乗り込んだ。――ハノーファー中央駅へ。

「お嬢さん、ニュースは見たかい? 今ハノーファー中央駅前はデカいデモがあって物々しいんだ。いいのかい?」

運転手に声をかけられてヒルデガルトは顔を上げた。

「ああ。大丈夫だよ。極右のデモじゃないんでしょ」

「まあそうだけどね……」

「規制線より手前で降ろしてもらえたら、自分で歩く」

「そう? 過激派も来るとか言われてて相当危ないと思うけどねえ」

大丈夫、と彼女は繰り返し、窓の外の景色を見つめた。


 北西ドイツにまたがるニーダーザクセン州の州都、ハノーファー。それがこの街の最も大きな肩書だ。フェーゲラインにつながる白い門が長きに渡って閉ざされ、かの帝国の名も忘れ去られ、この街は名誉あるハノーファー王国として有名になった。その栄光を築き上げた国王が高い台座の上から道行く人々を見下ろす。石畳のハノーファー中央駅前広場だ。

 そんな中央駅前も、今日は緊迫した空気が流れていた。青色のパトランプを光らせる警察車両が何台も詰めかけ、アーマーに身を包んだ警官隊が人々の通行をコントロールしている。デモ隊が駅前から市街地を行進する直前だった。大きな手書き文字の横断幕やプラカード、国旗を持った参加者が駅前に集合している。

『戦災孤児救済!!』

『州政府は適正な補償を!』

『戦争責任追及!』

『軍縮して福祉に』

 自分より背の高い人混みに紛れ、歩を早める。駅に入ればデモの喧騒はすぐに遠のいた。

 彼女の忠臣のコマンド部隊「マスケ」の一員「コウモリのフレディ」は耳が良くとも目はそんなに良くない。ご自慢の真っ黒な光学迷彩ポンチョも、ヒルデガルトには耳障りでよく目立つ。それにあれは私が作ったようなものだ、と彼女は呟いた。

 複数のIDを駆使し、各方面へと特急券を購入する。ICEの車内は忌まわしい記憶を呼び起こしたが、彼女はそれを首を振って忘れようとした。今はただの移動。目的は違う。

 各方面に切符を買い、その先のルートも目的があるように見せかけて動くようにしたバーチャルデコイの中から、本当のヒルデガルトを見分けるまで多少の時間稼ぎはできる。

 死から覚醒したヒルデガルトは、ダークウェブ上の彼女のアカウントに誰かがコンタクトを取ろうとしたことに気付いた。交流サイトのチャット上で、暗号の中に隠された待ち合わせ場所。たったそれだけの情報だったが、ヒルデガルトは興味を惹かれた。もちろんこれが罠である可能性は非常に高かった。

 連邦軍兵士をローンウルフ型テロリストに仕立て上げたように、何者かがネットの先に潜んでいる。否、カドケウス以外にありえない。彼女はそう確信していた。


 目的地は南ドイツ、フランクフルト・アム・マイン。無差別ミサイル攻撃を受けた市街地はほとんどスラムと化して治安は非常に悪い。瓦礫の上に張られたテントが入り組み、さながら迷宮のようだという。地下組織の情報交換にはうってつけだ。


 車内でうたた寝すること3時間。目的地に到着し、ヒルデガルトはICEを降りた。

 雪雲に閉ざされ、昼間でも景色はどんよりと灰色に曇っていた。駅構内や外に物乞いが座り込んでいる。大通りを挟んだ向こう側、スラムの向こう側に巨大なビルがいくつもそびえている。崩れかけたユーロを支える細い柱、欧州中央銀行。ドイツ銀行、コメルツ銀行。

 駅舎を出て少し歩くと、サラリーマンのような姿はほとんどなかった。

 バーンホーフス・フィアテル駅前地区。もとより治安が悪いと言われていたが、大戦で被害を受けた後いっそう治安の悪い地域になったという。

 灰と薬物の煙、すえた臭いが風に乗って漂っている。ヒルデガルトの小綺麗な姿は不釣合いで、人目を引いた。

 人々は貧しく、落ち窪んだ眼窩から通り過ぎる彼女をじっと見つめた。何世代も前からドイツにいた人々ではない。ただ、彼らの多くはドイツで生まれ育ったはずだ。戦争が社会的弱者へのセーフティネットを損ない、彼らは困窮のどん底から這い上がることすらできなくなったのだ。

 第3次世界大戦。2022年、はるか遠い東洋で始まった戦争は市井の人々の関心をそれほど引かなかった。東洋一の大都市が核ミサイルで跡形もなく焼かれるのを見て、核戦争が当たり前になったとぼんやりと認識していた。

 しかし、何の因果かその火の粉は北アフリカに飛び、そこで戦争が再び始まった。中東の緊張したパワーバランスがついに崩壊し、彼らはヨーロッパを攻撃した。ヨーロッパ市民の多くは安全地帯にいるとのんきに構えていたものの、彼らが隠し持っていた膨大な数の弾道ミサイルが降り注ぎ、防空網が飽和した。戦火を逃れて田舎に疎開していた多くの人々が無差別攻撃の犠牲になった。今も緑の自然の只中に痛々しい破壊の痕が各地に残っている。

 戦争中、ヒルデガルトはフェーゲラインにいた。自分が知っているのは群雄割拠の勢力が争い続ける内乱で、外の世界の戦争は知らない。しかし、この国の人間と上手くやっていくためには戦争の話題は注意深く扱わなければならない。彼らはいまだ戦争の苦痛を抱いていた。どの単語を用いれば彼らの傷に触れることになるのか、彼女は知らなければならなかった。


 窓が割られた建物の中にできた道を通る。天幕をくぐり抜ける。目的地の座標は遠くないはずなのに、そこへ向かう道はひどく隠蔽されていた。ヒルデガルトは現金を持ってこなかったことを大いに悔やんだ。治安の悪いスラムでは足のつく電子決済は不可能だった。誰もがよごれたカネを手に物品を手に入れる。

 空腹が次第に増していく。死から目覚めてから何も口にしていない。

 道に迷ってさまよっている間に、太陽が傾き始め、建物の影が不気味な闇に閉ざされる。天幕に覆われた空は狭く、すぐそこにあるはずの巨大なドイツ銀行ビルや連邦銀行ビルも見えない。

 路地の向こう側に人の気配を感じて、ヒルデガルトは物陰に身を潜めた。薬物を吸った若者たちがけたたましく笑いながら通り過ぎていく。ここから先は獣の時間だ。所得や暖かな自宅を持たない人々にとって、冷たく長い夜を温めるのは薬物やアルコールだ。


 ヒルデガルトは寒さに体を縮こませた。流石に灰色の上着を着て出歩けない。上着は置いてきたのだ。

 この寒さでは、体温を維持するために多くのエネルギーを要する。それなのに、現金を忘れたために何も食べていない。できるのは自らの躯体を栄養源として燃焼することだけだ。しかし、それにも限界はある。自己消化によって筋組織などを分解すれば、万が一暴力沙汰に巻き込まれた際に抵抗できなくなる。

 彼女は瓦礫の陰から揺らめく明かりの方向を覗き込んだ。ドラム缶の焚き火をスラムの男たちが囲んでいる。何か食べているようだ。

「…………」

男は3人。薬物漬けの彼らを倒して食料を奪うことも今なら容易い。だがヒルデガルトは首を引っ込めた。暴力に支配されたフェーゲラインならまだしも、この国で許されることではない。

 最悪の場合、自分の片腕にでもかじりつけばいい。彼女はそう呟いた。

 彼女は道端のゴミ箱の隙間に身を隠し、省電力モードに切り替えて夜を乗り切ろうとした。

 そこへ、誰かが立ち止まった。手が伸ばされ、ヒルデガルトは凍りついた。

「お嬢さん、お腹が空いてるんですか?」

黒いコートに身を包んだ女性の声が頭上から響く。顔を上げるも、暗闇に呑まれてほとんど見えない。訛りのあるドイツ語だ。しかし、スラムの人間にしては身なりが整っている。

「かわいそうに、食べ物をおごってあげますよ」

物陰から引きずりあげられて、ヒルデガルトは反射的に相手を突き飛ばした。すると、相手は自分の口元に手を当てて声を上げないように言った。

「大丈夫ですよ、ヒルデガルト・リッターさん」

「何だお前は……」

かすかな光に女の顔が浮かび上がる。黒髪の東洋人だった。警戒心を剥き出しにするヒルデガルトに女は微笑みかけた。

「怯える必要はありません。私はあなたの協力者です」

半信半疑で引っ張られるままに彼女に従う。

 扉をくぐると、温かな光が網膜を焼いた。そこは小さな食堂だった。女は椅子にヒルデガルトを座らせて奥に消えた。食欲を刺激する濃厚なソースの香りがキッチンから漂い、ヒルデガルトの胃がキリキリと痛んだ。

 ここが目的地だった。座標値がそのことを告げる。

 不意に、不快な電磁波を感じてヒルデガルトは警戒の表情でキッチンを睨みつけた。ボロボロのウェイトレスのなりをした少女が出てきてヒルデガルトをじっと見つめる。

「サイボーグ……」

「…………」

ウェイトレスのサイボーグは冷たい眼差しを彼女に注いだ。

「いらっしゃいませ」

罠だったか、とヒルデガルトは顔をしかめた。東洋人が戻ってくる気配はない。クラクラする頭で作戦を練り始める。

「ご注文はいかが致しますか」

「ふざけるのもいい加減にしろ、誰がお前にこんな事をさせている」

サイボーグは答えない。代わりに、使い古しのメニューの紙切れを取り出した。ウデ肉、腿肉、内臓、食肉の部位が書かれている。

「何だこれ?」

「お気に召さなければ当店のおすすめをご用意致します」

そう言ってサイボーグの少女はキッチンに目配せした。ヒルデガルトはサイボーグの体を調べた。武装はしていないが、素手でも戦えるパワーを備えている。油断はできない。

「お客様には私の主から伝言がございます」

無表情、無機質な顔を睨む。サイボーグは話を続けた。

『久しぶりね、ヒルデ』

ゾッとしてヒルデガルトはサイボーグの顔を見つめた。その声帯から放たれる声ではない。嘲笑うような声色の裏側に背筋を凍らせるような冷たさを孕んでいる。それにこの声は――。

『あなたがこの店に来てくれて嬉しいわ。ここは地元の人間が愛する、特別な食堂なの。彼らには手も出ない肉料理が低価格で味わえるのよ。それも私達のおかげなの。あなたは私達のことを敵だと思っているけど、どうかしら? 私達が用意する廉価な肉が貧しい人々の腹を満たしている。私達のビジネスがなければ彼らは生きられないわ』

サイボーグの口からは録音メッセージがとめどなく流れる。

『あなたの国が売る高い水を彼らは飲むことができないけれど、私達は廉価に提供できる。汚れた社会にもそれなりの生き方があるのよ。さて、そろそろ出来上がる頃かしら。カドケウスの技術の真髄をあなたにも味わってほしいの』

ヒルデガルトはこれが録音でないことに気付いた。何者かが遠隔操作でサイボーグを喋らせているのだ。

「貴様、何者なんだ! お前はカドケウスの何なんだ!?」

『私が何者かなんて、あなたが一番知っているんじゃない?』

無機質なサイボーグの顔が嘲笑に歪んだように見えた。

「彼女は私のお母様であり、神です」

神だと。ヒルデガルトは頭の奥がズキズキと痛むのを感じた。

 サイボーグはキッチンから熱々のプレートを持ってきた。よく煮込まれたビーフシチュー、否、肉のシチューだ。ヒルデガルトの胃がキリキリと痛み、視界がクラクラと揺れた。

「これは……何の肉だ?」

「私の肉です」

「…………」

人間の肉だ。

 ヒルデガルトはめまいを覚えた。しかしおいしそうな香りに反射的に唾液が分泌される。否、ただのハッタリに過ぎない可能性もある。だが、本当に事実だったら食べる訳にはいかない。たとえ食べなければ身体機能が停止する可能性がある状態でも――。


「待て!」

その時、ドアが激しく蹴飛ばされ、黒い人影が飛び込んできた。ヒルデガルトは肩を掴まれた。気づけば右手にスプーンを握っていた。

「コ、コニー?」

焦りと憤りを顔に浮かべたコンスタンツがヒルデガルトの肩を揺さぶった。

「いけませんお嬢様! 食べてはいけません!」

サイボーグが距離を取って机の下から銃を取り出した。コンスタンツはヒルデガルトと敵との間に立ちはだかる。

「何を迷っているんですか! 人間の肉などあなたが食べていいものではありません!」

「でも……」

ヒルデガルトは朦朧とした頭で従者の怒り顔を見つめた。もう限界だ。お腹空いた、オナカスイタ、オナカスイ、タ……。

 銃声が弾けた。



 ガタン、と大きく揺れてヒルデガルトは目を覚ました。毛布で身体がぐるぐる巻きにされている。左腕の端子から給電されていた。

「あ……」

毛布越しに温かな体温を感じて顔を上げると、複雑そうに眉根を寄せたコンスタンツが顔を覗き込んでいた。コンスタンツは無言だ。

「食べて、ないよね……」

「食べていません」

コンスタンツのコートは埃だらけだった。隣にはマスケ隊員が狭そうに身を寄せていた。獣を象ったマスク越しに呆れた視線が注がれる。

「ごめん……」

「…………」

狼の従者は答える代わりに固くヒルデガルトを抱きしめた。

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