第11話 ihre blaue Augen
前回のあらすじ
帰途のヘリの中でヒルデガルトは銃創の応急処置を受けた。食い込んだ銃弾が自分の体から取り出されるのを、彼女は痛みも知らないような冷たい表情で眺めていた。その様子を片目で見ながらハインリヒは感情を抑えていた。だが、ヘリが司令部に到着すると彼の忍耐力は限界を迎えた。
廊下でハインリヒはヒルデガルトの細い腕を掴んだ。
「お前、こうなることが分かってて俺たちを先に撤退させたんじゃないのか? 俺たちが邪魔だから一人で戦いたかったんだろう?」
ヒルデガルトは白い顔で振り返った。その無表情はハインリヒを一層苛立たせた。
「やめろ」
ハインリヒの肩をコンラートが掴んだ。隊員たちは3人を囲んで複雑な視線を注いでいる。
司令室から彼らを迎えに出たヘルマンは、彼らの緊張した空気に息を詰まらせた。今にも殴り合いでも始まりそうな雰囲気だ。その中心にいる、緊張の原因である少女は物怖じもせずハインリヒを冷たい目で見上げている。
「何か言ってみろよ。いつもみたいに『そうするだけの理由があった』ってんだろ?」
「よく分かってるじゃないか」
ハインリヒが目に見えて苛立った。
「やめろヒルデガルト。挑発するな」
コンラートが真ん中に入った。
「ハインリヒもヒルデも、撤退命令に背いたというだけのことだ。ハインリヒを引き止められなかった俺にも責任の一端はある」
「私もハインリヒも死なずに済んだし、乗客も無事だった。十分じゃないか」
騒ぎを聞きつけてノイベルト少佐が現れた。眉間のシワはいつもより深い。
「それは結果論だ。お前は判断を幸運に頼りすぎだ。それについては俺からもみっちり話すことがある」
フン、とヒルデガルトはそっぽを向いた。
「それとも、やはり幸運じゃなく、実際に状況を自分でコントロールできているとでも言うのか?」
「…………」
少佐は苛立つ隊員たちを見回した。
「そうイライラするな。このポンコツを叱るのは俺の仕事だ。お前達は大人しく装備品を整備して寝てろ」
埃だらけのヒルデガルトはKaterの誰よりも傷を負っている。戦闘服は乾いた自らの血で黒ずんでいた。彼女は司令室隅にある彼女のロッカールームに消えた。
シャワーを浴びてきたヒルデガルトはタオルでごしごしと髪を拭きながら報告した。左腕のアダプタにバッテリーを接続して給電している。
「少尉、報告書ができたら今日はもう休め」
ノイベルト少佐の言葉にヘルマンは顔を上げた。
「ここに来てから十分休んでいないだろう」
「ああ、了解しました」
それと、と少佐はヒルデガルトに向き直った。
「ヒルデガルト、お前に話がある。こっちに来るんだ」
腕を引っ張られ、彼女は少佐の執務室に連れて行かれた。ガラス越しに少佐が何やら言うのが見えた。ヒルデガルトは相変わらず話を聞いていないような顔をしている。
ヘルマンは胸の内がモヤモヤとするのを感じた。
幸運にも旅客機はすんでのところで上昇して大惨事は避けられた。だが、あのまま突っ込んできていたらヒルデガルトは確実に生きてはいなかった。空港の建造物と旅客機に押し潰され、航空燃料に延々と焼き続けられても彼女は生きていられるつもりだったのだろうか。ヘルマンは不快感を催し、想像力を働かせるのをやめた。
本当にそんな事ができるというのなら、彼女は生物ではない。何か裏があるのかもしれない、ヘルマンはそう勘ぐった。
翌朝。
ヒルデガルトの朝は遅い。10時ぐらいになってようやく彼女は目を覚まして執務室に現れる。だが、今日は10時になっても彼女が起きてくる気配はなかった。
ヘルマンはやれやれと重い腰を上げて隣室のドアを叩いた。
「リッターさん、まだ寝てるんですか? リッターさん」
ドアの向こうで猫がしきりに鳴いている。彼女が司令部に連れ込んでいる黒猫だ。しばらくドアを叩いて待っていると、ドアが開いて寝癖のついたヒルデガルトが顔をのぞかせた。
「うん……今おきた」
ヘルマンは呆れて言葉を失った。
「カクタスに餌あげて」
彼女はまだ半分寝ている顔のまま洗面所に向かった。黒猫カクタスが抗議の声を上げている。ヘルマンは静かに彼女の私室に入ってドアを閉めた。薄暗い部屋の床の上をカクタスが歩き回っている。カーテンを開け放つと、曇り空の穏やかな光が差し込んだ。
猫に請われるままに餌を出す。ヒルデガルトのせいで飢えていたカクタスは皿に顔を突っ込んで餌を食べ始めた。
ヒルデガルトの部屋は執務室と同じように重厚感と高級感のある伝統的な調度品が揃っているが、人間が住み込んでいる割には生活感が乏しかった。寝起きしたままにされたふかふかのベッドを整える。肌触りのいい寝具は決して安くない逸品と見受けられる。大きなベッドと机と椅子のセット、どの寮にもあるタイプのクローゼット。机の上には何もない。自分でベッドメイキングもしない彼女にしては何も散らかっていないが、ペット用品で猫がいることだけは確かにわかる。
私物がほとんどなく、それらを使うこともないから何も散らからないのだ。ヘルマンは黙ってクローゼットを開いた。服の並びは自分の寮と同じだ。ただ、灰色と黒の制服が何着も揃えてある。
ヘルマンは隅の方に隠されるようにして吊るされたスーツカバーに気付いた。汚れた連邦軍の制服だった。ところどころ擦り切れ、赤黒い汚れがべっとりと服の色を変えている。脇の方には銃弾にえぐられた穴が開いている。
「これは……」
徽章類が外され、今はもう使っていないようだ。だが、彼女はこの服を捨てずにカバーを掛けて残しているのだ。
ヘルマンは静かに服を元通りの位置に戻した。棚から今日着る分の制服を手に取る。大柄な自分と比べると子供の服のようだ。
「リッターさん! また寝たりしてませんよね? ここに置いておきますから早く出勤してください」
洗面所から気の抜けた返事が届く。ヘルマンは服を置いて部屋を後にした。カクタスが餌皿をきれいに舐めていた。
10分ほどして、不真面目な将校はようやく執務室に現れた。至極面倒そうな様子で革張りの椅子に腰掛ける。カクタスがついてきて机の上によじ登った。彼女が人間じゃないというのは事実かもしれない。不真面目と不服従が人間の皮と服を着ているのだ。
「何か私に報告することがあるんじゃないか?」
ヒルデガルトはヘルマンのデスクの上に目をやった。
「昨日の作戦のことで、現時点で判明した情報ですね」
朝一番に渡された資料をヘルマンは読み上げた。
昨日のテロを起こしたのはフランスのテロ組織だった。フランス王政復古を目指す極右組織、カムロ・デュ・ロワという。5体いたサイボーグの2体は外見の特徴上、ドイツで確認されたネオナチのサイボーグと見られた。残りの3体は異なっていたが、3体とも共通した服を着ていた。それらがカムロ・デュ・ロワに供与されたカドケウスのものであるかどうかはまだ分かっていない。
ヒルデガルトは黙って頷いた。
加えて、ハイジャック事件の情報だった。空港テロとハイジャックは予め計画されたものであり、旅客機に潜んだフランス人テロリストが乗員を脅迫し、コックピットに入った。テロリストは進路を空港に戻して突入を試みたが、旅客機の遠隔操縦システムがハッキングを受け、計画は阻止されたという。
「遠隔操縦システムをハッキングすることなんて可能なんですか?」
2020年半ばに旅客機の操縦系は各航空会社のセンターから制御されるようになった。深刻化するパイロット不足とヒューマンエラー対策を解決する、信頼性の高いシステムだった。遠隔操縦システムによる事故はこれまでに起こっていないという。
遠隔操縦システムには万が一の際に、コックピットの機長による操縦を優先するコマンドがあるという。テロリストはそれを利用してシステムの遠隔操作を拒否したが、ハッキングによってそのコマンドが取り消された可能性がある。
「ハッキングできないものなんてないだろう」
ヒルデガルトは肩をすくめた。
できるのだとしたら、どこかの対テロ部隊が秘密作戦によってハッキングを行ったのではないか、というのがヘルマンの予想だった。その場合、もう少し待てば事実だけでも公開されるはずだ。
「なぜKaterから外れて単独行動したんですか?」
「『そうするだけの理由があった』だけだろう」
彼女は他人事のように言った。
「では旅客機へのハッキングが成功すると知っていて、ハイジャックを利用して一人でサイボーグと戦える状況を作ったんですか?」
ヒルデガルトの青い目がヘルマンをじっと見つめた。
「私が状況をコントロールしたとお前も思っているのか?」
ヘルマンは首を振った。
「私には……分かりません。あなたがどこまでできるのか、ノイベルト少佐の方がよく知っているはずですから」
「彼も分かってるわけじゃないよ」
「じゃあ、真相はどうなんです? どうして明かさないんですか。黙っていれば信頼関係に傷がつくだけです」
ハインリヒを始めとするKater隊員たちは、ヒルデガルト自身も隊員も危険な状況にしたことに怒りを覚えていた。
ヒルデガルトはそっと目をそらした。
「さあな。私は計算しているんだ。明かしてもいいことなのか。現時点の答えは『
「どうして……」
「そう焦るな。ことを急げばすべて台無しになりかねない、それが人類の信頼関係というものだろう」
ヘルマンは焦れったくなって視線を落とした。人間風に言うと、まだ信頼していないとか、まだその時ではないとかいうのだろう。
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