第8話 Ehrenhain
前回のあらすじ
ヒルデガルトは無許可で司令部を抜け出し、ネオナチのアジトを襲撃する。彼女が殺したサイボーグは研究員の娘だった。彼女のすぐ側でスパイ行為が行われていたことが明らかになる。
ヘルマンは地下研究室の片付けに戻っていた。きっかり2時間でヒルデガルトは現れた。
「何だ、真面目なやつだな」
ヘルマンは手を止めなかった。ヒルデガルトはディスプレイの上から身を乗り出して意地悪そうに笑った。
「さては、始末書の書き方が分からなかったんだな?」
「別に、そういうわけでは」
「正直に言え、ヘルマン。昨日ここに初めて来た男が、ここのフォーマットを知っているわけがないだろう?」
ヒルデガルトは拭かれたばかりのデスクに腰掛けた。ディスプレイの電源がつき、白い書類が表示される。彼女は背を向けたまま足を組んだ。
「私は難しい立ち場だから、謝罪できないんだ。代わりに別の人間が紙を書いて事を処分するというわけだ。面倒だろう?」
「…………」
ヘルマンは答えなかった。
「何も訊かなくていいのか? 私はお前の上官ではないが、2年お前より長くここで働いている。おまけに連邦軍のデータベースやシステムに入れる。知りたいことは何でも教えてやれるぞ」
「フェーゲライン人はみんなあなたみたいに馴れ馴れしいんですか?」
不快感を表したヘルマンにヒルデガルトは目を丸くして肩をすくめた。
「私は偉いからな」
ヘルマンは椅子に腰掛けた。
「しばらく放っといてください。始末書を書きますので」
わかったわかった、と言ってヒルデガルトは立ち上がった。ヘルマンは静寂の中に置かれた。カタカタとキーボードを鳴らす。
狼の将校は彼女をお嬢様と呼び、最上級の敬語を使っていた。HRプロジェクトの中心にヒルデガルトはいるが、使われる立ち場として振る舞っている。彼らフェーゲライン人の関係性が見えてこない。人間じゃないのは彼も彼女も同じはずだ。
「コニーに挨拶したか?」
断りなくヒルデガルトは静寂を破った。
「コニー? 誰ですか」
「狼の少佐、眼帯をしたやつだよ」
あの何やら不穏そうな将校を愛称で呼べるのだ。ヒルデガルトの立ち場はますます謎めいて思えた。
「先ほどお会いしたところです」
ヘルマンは手を止めない。
「彼とあなたはどういう関係なんです?」
「コニーは私の忠臣だよ」
「それであなたをお嬢様と」
「第4軍の兵士みんなにそう呼ばせてるけど」
「ずいぶんと偉いんですね」
偉いぞ、とヒルデガルトは答えた。中佐の階級章は第4軍のものらしい。
彼女はあどけない様子で椅子を回転させている。不意に、ぴたりと回転を止めてヘルマンを見つめた。
「そうだ、お前にやってもらいたい仕事があるんだ。明日、ポツダムで死亡した兵士らの国葬が行われる。私は出席できないから後任者であるお前が出てくれ」
「ええっ」
「立ってるだけの仕事だよ」
彼女は軽くそう言った。
翌日、ポツダムで死亡した連邦軍兵士らの国葬が行われた。軍旗を掛けられた棺は18人分あった。
参列者の前方に並んだ彼は、3年前のことを思い出した。この光景は見覚えがあった。3年前、アフリカ戦線にいた父は、棺になって帰ってきた。父の棺桶は貨物機から儀仗兵に担がれて祖国の土を踏んだ。隣に並んでいた兄の目に涙が光っていたのを思い出す。自分の隣には、父の親友である今の合同旅団長が並んでいた。あの時着ていたのは、今のように真新しい灰色の制服だった。彼は父の死をうまく受け止められず、悲しむことすらできなかった。どこか他人事のように感じていたのは今と似すぎている。ヘルマンの心は曇った。
当然だが、棺に乗せられた写真はどれも馴染みがなかった。研究チームのリーダー、自分の前任者、ニコール・ケレンスキー中尉。まっとうな将校である彼と、ただの軍大学生でしかない自分を皆は比較しているだろう。何でもそつなくこなしてきた彼にとって、無能のように扱われるのは歯噛みするほど悔しかった。
大戦後、18人もの軍人が一度に殺害される事件は世間でも珍しく、今回のテロは大きな注目を浴びていた。しかし、国葬へのメディア関係者の参列は少ない。それは合同旅団の機密性の高さに関係するのかもしれない。合同旅団の共同旅団長である黒服の若いフェーゲライン人将校も、旅団長と並んで参列していた。だが、ここにヒルデガルトの姿はなかった。
国防相の訓辞が終わり、棺はひとつずつ霊柩車に乗せられ、ゆっくりと国立墓地に出発した。後は遺族との時間だ。参列者が静かに解散する中、立ち尽くして霊柩車の列をまだ見守っている人影があるのをヘルマンは見つけた。ヒルデガルトだった。彼女は第4軍の黒い制服に身を包んでいた。ヘルマンは歩み寄った。なぜここに、という言葉をすんでのところで飲み込む。彼女の横顔があまりにも孤独に、悲しげに見えたのだ。ヒルデガルトはヘルマンの姿に気付いて顔を上げた。
「ああ……、ヘルマンか。外出許可が出たんだ」
尋ねる前に彼女は答えた。列の中にいた気配はなかった。どこかで紛れ込んだらしい。ヒルデガルトは静かに歩き始めた。ヘルマンは彼女に掛ける言葉がなかった。
「彼らは軍人だし、大戦を生き抜いた。軍人として死に直面する覚悟はとうの昔にしていただろうが、平和になってから死ぬとは。世間はそう言っているようだが、彼らは一応、覚悟していたんだ。戦争はまだ、終わっていない。別の形の戦争に備えなければならない、と」
戦争はまだ終わっていない、それは辛く重い言葉だった。
「カドケウスの宣戦布告動画を覚えているか?」
「……ええ」
戦争終結宣言の直前、ほとんどの放送局がハッキングを受け、ドイツ全土にテロリストの宣戦布告動画が流された。
カドケウス。真の科学を擁護する集団だと彼らは自称した。戦争中に多くの科学者が動員されたが、戦争が終結に向かうと、様々な非人道的な科学実験が繰り返されていたことが告発され、多くの科学者が野に追われた。彼らを求め、焚き付けたのは国家と国民だった、と彼らは言う。彼らは科学を恣意的に選別し、進歩を拒む社会に復讐を遂げると言った。戦争はまだ終わらない。新しい戦争が始まる。
ヒルデガルトは肩をすくめた。
「あれを真に受けたと世間に知られたら、我々は大いに笑われるだろうな。だが、カドケウスは実際に存在していて、十分な資金源と人脈を持っていることがわかった。実際に彼らは新しい脅威だった。彼らについての調査は民間には秘されている。パニックを避けるためだ」
軍も多くの非人道科学を実践し、そこからカドケウスに流れる科学者もいたという。
「サイバネティクス兵器、クローン技術、それらは官民一体となって研究されていた。流出していかなる進化を遂げるかわからないそれらの脅威に対して、潔白な組織を作り上げ、対抗する必要があった」
ドイツは清潔な水を求めると同時に、清廉潔白な技術をフェーゲラインに求めた。それがHRプロジェクトだという。
「今やカドケウスは完成させた技術を、サイボーグ兵器を各地のテロリストに供給している。18名は彼らの最初の犠牲者だ。私は彼らを一人も守れなかった……」
彼女の声は相変わらず熱のない冷たいものだったが、ひどく悲しげに聞こえた。ヘルマンはいたたまれなくなって口を開いた。
「私の命は救ってくれたじゃないですか」
「お前は自分で自分の命を守ったんだよ」
「ですが……」
言葉を続けようとするヘルマンを彼女が見上げた。
「ああもう、わかったよ、馬鹿」
握りこぶしが腹にねじ込まれる。痛みはなかった。ヒルデガルトは歩くスピードを速めた。少しは慰めになったのだろうか。彼女の歩く先に黒い車列が見えた。黒服の男が降り、ドアを開ける。開いたドアの奥に、フェーゲライン人の合同旅団長の姿が見えた。ヒルデガルトはヘルマンに振り返って手を振った。ヘルマンは黙って敬礼で彼女たちを見送った。
昨日は参列できないと言っていた彼女だったが、本当は自分と2年間時を過ごした18人を見送りたかったのだろう。しかし、灰色の制服を着て参列することは叶わなかった。フェーゲライン軍の高官として、非公式に参加することが精一杯だったのかもしれない。
旅団に戻ってきたヘルマンは、Kater司令室から出てきた色あせた迷彩服の男の顔を見て驚愕した。
「に、兄さん……?」
「おお、ヘルマンじゃないか!」
兵士――兄、ハインリヒ・シュタールは顔を輝かせた。
「何でこんなところにいるんです?」
兄弟はお互いの姿をまじまじと見つめた。隣り合うKater司令室とヒルデガルトの執務室。ハインリヒは吹き出した。
「お前、いつの間にそんなに偉くなったんだよ。てっきりまだ軍大学にいるもんだと」
「ええ、まあ……」
ヘルマンは言葉を濁した。
「もしかしてこれくらいの背丈の黒い猫をあやす仕事じゃねえのか?」
ハインリヒは手のひらを下に向けて胸元を指した。彼の意図するところが分かってヘルマンは苦笑いした。
「そうですね。早速引っかかれたりかじられたりしているんですが」
「だろうな!」
彼は笑い、それから少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「お前をICEで見て、あの後電話しようと思ってたんだが、いろいろ立て込んじまってな。平気か?」
「ICEで……?」
そうだ。ICEにヒルデガルトを回収しに行ったのはKaterだった。あのときはKSKだと思ったが、Katerだったのだ。ヘルマンは納得した。
「いいんですよ。私は平気です。兄さんこそKSKにいたんじゃないんですか?」
ハインリヒは度肝を抜かれたような顔をした。
「何で知ってんだよ」
「それはもう、あなたが会うたびに見え透いた嘘をついていることくらい分かりますよ。軍の身内の人間にすら所属を明かさないなんて、よほど後ろめたい仕事についているんでしょう」
ハインリヒは照れくさそうに頭を掻いた。
「あー……、まあそれもいろいろあってな……」
ヘルマンは彼の階級章を見た。KSKなら昇進は他の部隊より早いはずだ。ハインリヒのことだから何かあったのだろうと彼は察した。
「まあ、元気そうで何よりですよ。一緒に仕事をするようになるなんてとんだ偶然ですが」
「弟に怒鳴られるのも今までと変わりねえな」
ハインリヒはそうからかった。怒鳴られるのは自分だが、とヘルマンは思った。
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