第5話 Student - Labor
執務室のドアは鍵がかかっていなかった。ヒルデガルト・リッターは自分の机の上に暇そうに腰掛けていた。
「なんだ、お前には私服より制服が似合うな」
彼女は鼻をフフンと鳴らした。先ほど自分を脅しさえした彼女をヘルマンは恨もうとしたが、もうその気力は残っていなかった。
「与えられた服を着るのもすぐに慣れるさ。私もフェーゲラインから出向してきて、外国の制服を着せられ、ご立派な肩章を付けてる。みんな私の服とおしゃべりしているんだ」
ヘルマンは彼女を改めて観察した。胸元には青い略綬が並んでいる。連邦軍の勲章でないことは分かる。
「フェーゲライン人、なんですね」
見たら分かるだろう、と彼女は意地悪な笑みを浮かべた。机から飛び降り、彼女は隣の部屋に向かった。隣の応接室の壁に触れると、壁に亀裂が走り、ドアが開いた。驚くヘルマンを尻目に彼女は壁の奥に吸い込まれた。エレベーターだった。
『入室権限のない人物です』
ヘルマンがエレベーターに乗り込むと、どこからともなく合成音声が響いた。
「入退室権限を付与する。生体データを登録しろ」
『了解』
エレベーターが静かに下降し始めた。わずかな浮遊感の後、ブザーが鳴り、ドアが開く。ヒルデガルトは薄暗がりの廊下に歩み出た。分厚い二重のハッチが開き、さらに歩を進める。薄暗く照明が調節された、開けた空間に出た。
「ここが地下研究室。合同旅団の主幹施設の一つだ」
「研究……? 何を?」
ヘルマンは周囲を見渡した。並んだ幅広のデスクには最新鋭のコンピューターが乗せられている。それぞれ誰かが使用していた形跡がある。奥に歩いていくヒルデガルトの向こうに床からそびえるガラスの筒が見える。
「私を、だ」
ヒルデガルトの姿が見えなくなった。ヘルマンはガラスの筒に歩み寄った。暗がりに目が慣れ始め、周囲の様子が次第に明らかになる。大きなコンソールに長いスリットが開いている。ヒルデガルトの執務室の机にもあった。誰もいない研究室にはコンピューターや用途のわからない機材が息づいていた。
「一応サイバーセキュリティ中隊の隊長って言っただろう」
脇から突然現れた彼女は薄い水着のようなものを着ていた。反射的に彼は目をそらした。白く細い左腕に光る鈍色の金属が目に残る。
不意にブザーが鳴り、警告灯が回った。眼の前の円筒形のガラスが回転し、開く。ヒルデガルトはそこに体を滑り込ませた。左腕のリング状の金属をいじり、円筒の内側に垂れたケーブルを接続する。
「ヘルマン・シュタール少尉、私は前任者たちのコンピュータのデータを処分するから、お前は物理的なゴミを全部片付けるんだ」
「物理的なゴミ?」
ガラス戸が閉まり、青い液体が満ち始める。みるみるうちにヒルデガルトの白い肌を覆っていく。彼女は慣れた様子で眉一つ動かさなかった。
「ここの研究チームは昨日全員死亡した。新しいメンバーが補填されるから、彼らが入ってこられるように準備するんだ」
顔まで液体が満ちて、彼女は息を吐いた。髪を泳がせながら、早くしろとジェスチャーする。ヘルマンは慌てて踵を返し、デスクの一つに向かった。
前触れなくコンピューターが立ち上がった。大きなコンソールの上にホログラムが浮かび上がった。今年開催された技術見本市で見たことがある。空中投影型の3Dディスプレイだった。部屋が薄暗くなっているのはこのためかと納得する。コンピューターは一様にHRのロゴを映し出している。HR、ヒルデガルト・リッターの頭文字と彼は気付いた。ヘルマンは机の上の私物らしきガラクタを手にとった。
研究チームは昨日全員死亡した。ヒルデガルトの言葉が脳裏にこだまする。昨日の事件だろうか。周囲を見回すと、広い研究室には座るべき人間を失った椅子がいくつもあった。
「この研究室はあなたを研究しているんですか?」
そうだ、とずいぶん近くから声が響いてヘルマンは飛び上がった。そばのコンピューターのスピーカーから声が聞こえる。ヒルデガルトの声は話し始めた。
2年前に交わされた二国間の協定には、フェーゲラインから技術と水資源の提供が盛り込まれていた。彼女が言うには、技術とは彼女そのもののことらしい。
「私はフェーゲラインの中でも特別な存在だ。私を研究すれば、人類にも役立つ技術が得られる。再生医療技術とか」
「その水槽とか」
フフンと彼女は鼻を鳴らした。水中では鼻は鳴らせないはずだが。
「もう一つ、この司令部にはスーパーコンピュータが設置されている。『サイバーセキュリティ中隊』って名前なんだけど」
ここのコンピューターもサイバーセキュリティ中隊の所属だ、と彼女はのたまった。
「私は中隊長だから、自分の部下を自在に操れるんだ」
はあ、とヘルマンは腑抜けた声を上げた。コンピューターの画面上でHRのロゴがくるくると回転している。
「連邦軍は私に人間の部下はつけたくなかったということだ」
彼女のデスクに埃が積もっていた理由が少しわかった気がした。
「私は扱いが難しい存在なのさ」
人を脅すような人間なのだ、当然だろうとヘルマンは独りごちた。ふと疑問が浮かび上がる。
「なぜ昨日あんなところにいたんですか?」
ああ……と低い声が響いた。
「昨日はカルフの訓練施設からの帰途だった。私はアウトバーンで輸送され、一部の研究者はお前と同じICEに乗っていた。それがほぼ同時に何者かの襲撃を受け、私はお前の前任者に解き放たれ、アウトバーンの研究者を救出すべくそちらに向かった。少女の姿をしたサイボーグと交戦し、後はお前が見た通りだ」
銃弾を受け、床にバタンと倒れた彼女の姿が脳裏に焼き付いている。頭を撃ち抜かれ、飛び散る脳漿。倒れ方はまさしく死者のそれだった。ヘルマンは足元に転がってきた彼女のハンドガンを手に取り、無我夢中で撃った。少女たちはどちらも動かなくなり、彼は目を背けた。気付けば全身武装した特殊部隊が現れ、彼は生存者として救出された。
「あの時、死んだんです、よね……」
「…………」
ヘルマンは水槽を振り返った。液体に浮かんだまま腕組みして目を閉じている。しばしの沈黙の後、彼女は答えた。
「私にとって、死は終わりではない。躯体の死は一時的なものだ」
「…………」
抽象的な物言いにヘルマンは押し黙った。ヒルデガルトは続けた。
「脳が停止しようと、心臓が停止しようと、私にとってそれは死ではないし終わりではない。時間と栄養があれば損傷は再生し、元通り意識が回復する」
自分から得られる技術は、再生医療技術にも役立つ、と本人が言っていたのを思い出す。
「あの後、特殊部隊がICEに乗り込み、お前を含む生存者を救出した。そして私の身体は回収され、適切な処置を受けて寝かされていた。私はベッドの上で五体満足の状態で朝を迎えた」
「…………」
死なないなんてそんな事がありえるのか。ヘルマンはなかば絶望と不信の目で彼女を見つめた。彼女はその眼差しを受け止めた。
「今は信じられなくても構わん。いずれ嫌でも信じざるを得ないし当然のことになる」
「それって、今後もあんな状況になるってことですか」
はあ、と彼女はため息をついた。水の中ではため息をつけるはずもないのだが。
「私がここですべきもう一つの仕事。それは人間の盾となって戦うことだ。昨日のサイバネティクス兵器のようなものとな」
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