代継
桜は人を喰らうとよく言うが。
花の嵐のただなかで、おずくはくるくると目の廻る想いをしていた。
突如現れた四郎と名なる
「おずく。山に戻ったか」
四郎の紅い唇に、偽りのような白い歯。牙でないのが不思議なくらいに。
「我に会いに、戻ってきたのだな」
「はい――」
幼い舌が望みもせずに、体の奥底から言葉を引っ張り出していた。
「四郎様に会いに――。咲かぬ桜を見に――」
「咲かずは咲くの前触れぞ」
四郎はくすくす笑った。前髪の下から覗く睫毛の、なんと長いことか。
「咲かぬが故に、忘られぬ特別な桜となる。我が名。我が姿。他の桜に紛るることなくお前たちの心に留まり続ける。――何より、咲く等はお前たちぞ」
「私が、咲く?」
「私は咲かず。お前たちが咲く。元よりお前の父も、祖父も、子の出来る身体ではなかった。我が花を差し与えることでお前が生まれたのだ」
「なぜ、なぜ」
「我が愛し子、おまちの末裔。絶えさせぬ。我の事も忘れさせぬ。おずく、ようく、ようくぞ、山に戻ってきた。また我らの盟約を続けようぞ。お前が咲き、我は咲かず。お前の内に、我が花を受け入れよ」
四郎がさっと腕を広げると、馨しい、人を狂わす甘美な香が渦巻いた。
おずくは乳を求める赤子のように、四郎に向かって手を伸ばした。花の鬼がにぃと微笑んで、大きな、長い腕の内に、おずくを抱きすくめようとした。
「人里を捨て、我と共に。尾待の山で永久に在り続けようぞ――」
恍惚に浮かれた四郎が勝ち誇ったその刹那。
「……出来ませぬ」
おずくは手を引いた。その姿は幼いまま、声だけが大人になっていた。
「出来ぬ、とな」
「私はもう、里の……児濃の女にござります。夫もおります。家もあります」
「そのようなもの、お前には要らぬ。捨ておけばよい」
「捨てられませぬ」
「何故だ」
「愛しているのです」
四郎の瞳がひやりと固くなった。冷たい、石のような瞳になった。
「……我の方が、お前たちを愛している。三千世界の何者よりも、我こそがお前を愛するにふさわしい。お前に次の子を宿らせ、末まで永く見守ることが出来るのは、我を置いて他におらぬ」
「私が愛しているのです。あの方を。夫を」
一言ごとに、おずくの身体はあるべき形へ戻っていく。四郎の目が冷たくなるのと反対に、おずくの瞳には刃の如き煌めきが宿る。
「おずく。お前は正気か」
「子ならば、あの方より授かります」
「我を捨つるか」
「四郎様のお名前と、その御姿ならば」
大人になったおずくは胸に手を当てて、鬼の四郎をしかと見据えた。
「この胸に、固く刻んでございます。例え山を離れようと、我が子、その次の子、いついつまでも、語り継がせることを誓いましょう」
「おずく……。我は」
「四郎様」
「我は楽しみだった。お前たちの血の末を、いつまでもここで見届けることが。それだけが我の想い、我の楔、我の霊……」
ふつふつと血の沸く音を立てて、四郎の体は花弁と化した。顔から衣、肉に至るまでほろほろと桜花に変じ、吹く風に乗りおずくの方へ舞い踊った。
おずくは固く唇を閉ざし、目もつむった。そして胸を張って桜花の嵐を受け止めた。
「おずく!」
強い男の声とともに、おずくの腕を引くものがあった。
たくましくもおずくを安心させる、優しい声の主。
「利平様……」
気が付くと、おずくは桜の根元で、夫の膝に抱かれていた。
心配そうに上から覗き込む夫の背後に、満開に花開く四郎桜の枝が見えた。
「一体どないしたんや」
「私……?」
「急に走りだしたかと思ったら、眩暈おこしたように倒れよって。どこか悪いんやないか」
「いえ」
おずくは、もう少しその人の胸に甘えていたい衝動を押しのけて、土の上にすっくと立ち直った。
咲かぬはずの四郎桜は、辺りの名もなき桜と違いもなく、ただの桜としてそこに咲いていた。おずくは幹に手を触れて、崩れるように、額もつけた。
「これが、これが四郎桜です。もう咲かず桜ではなくなってしまいましたが、これが四郎様の桜でした。あなた。あなた、どうか覚えていてくださいまし。この桜が、まごうことなき四郎桜だったのですよ」
ふるふると揺れる瞳に涙さえ滲ませて、その声音は狂女のようでもあったが、利平はただ黙って、妻の言う全てを受け入れた。己には見えなかったものを、おずくが見たというのなら、利平はそれを信じた。
「そうか。これが四郎か」
「ええ。四郎様の桜です」
「きれいやな」
「ええ。……きれいな女の方でした」
「おずくと一緒やな」
背後から愛しい人の肩を抱いて、利平もまた、目の前に立つ桜の姿を目に焼き付けた。そして、胸に抱いていた、野暮な考えを捨てた。
尾待山に四郎という名の女。いかなる事情のあるものか、児濃に残る歴史や伝承の類をよく辿れば、なにかわかるのではないかと思っていたが、いま眼前にある四郎桜の、どこか肩を落としたような姿を目の当たりにすると、その過去を無暗に暴くのはあまりに無粋な気がした。
まして、利平は奪った側なのだ。四郎の愛した血の末を、身ばかりでなく、心まで惹きつけて山から奪った勝利者なのだから。
間もなく二人は山を下り、今日という日を、命の限り覚えおくことを誓い合った。そして次の世代にも語り継ぐ事を。
一年後の春の頃。
座敷で義弟に「みやげ」を見せびらかされた利平は、苦笑しながら、その子を大事に抱き上げた。
「最初の子やのに『四郎』たぁ、また風変わりなことをしよる」
「せやろか? でもかわいいやろ」
「かわいいな。……名前やない。顔がな」
「そら、母の顔がええからな」
煙草を控えた利平は、手持ち無沙汰に玩具の太鼓をいじくりながら、春の空に燕が往くのを眺めていた。桜も過ぎて初夏に入ろうかという時節。利平の心も燕のように急いていた。
いつかこの子が言葉を覚え、己が名を不思議に思うてくれたなら。その時が早く来てくれることを、利平は気も早く、空に思い描いて顔を綻ばせるのであった。
四郎桜 狸汁ぺろり @tanukijiru
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