余所者
「祝言をあげてひと月もせんうちに夫婦連れで遊山たぁ、ちと浮かれ過ぎやないか」
「新さんもそう思うかえ」
「思う。が、まあお前のことや。お前らしくてエエやないか。実父の墓参りやろ。うるさく言うつもりはないで」
「さすが新――いや、お義兄さんやなぁ」
「その呼び方はやめえ」
めでたい春の陽気に、町の人々もなんとなく心浮き立つ昼のこと。互いに忙しいはずの仕事の合間を縫って、利平は新一の家を訪れていた。新一は仏頂面で何やら書き物に没頭していたが、利平が顔を出すと快く奥へ通してやった。生真面目な新一は休みの取り方も段取りがよく、さっさと書き物を片づけると、はや奥の座敷で利平と二人、ぷかりぷかりと紫煙を交わしている。
「だって、おずくを貰うたていう事は、新さんは俺のお義兄さんやないか」
「お前の言い方が気に食わんのや。もちっとさらりと言えんもんか」
新一は苦り切った顔で笑いながら、懐から取り出した手紙を利平のへらへら顔につきつけた。
「山番の一家宛てに、お前たちをよろしゅうと一筆書いておいたで」
「おお、おおきになあ」
「まァ、おずくは働き者さかい、今のうちにうんと骨休めさせといてやれや」
「ほんまになぁ。義兄さんは頭ぁ堅いけど優しいで」
「やめぇって」
と、こうして一番小うるさそうな義兄が許してくれたことで、おずくは晴れて堂々と、夫を連れて一時の里帰りとなった。
――ただ、乗り気というわけでもなかった。
おずくにとっての尾待山は、すでに過去のものである。父の千蔵は一人娘を手放した後、山のために老骨を使い果たしていた。
『こちらで一切の面倒を見るから、娘と同じ近い場所に暮らしたらどうだ』
という九兵衛からの結構な申し出も断り、山に生まれ、山に死ぬという信念を貫いて、孤独に伏した。墓も山の中にあった。
山の仕事は新一の手配した別の一家が引き継いだが、おずくは、かつて家族が暮らしていた地に見知らぬ他人のいるのが何となく愉快でなく、父を慕う気持ちはあれども、山に対する望郷の念はないに近かった。
夫の子どもらしい好奇心と、父の墓を参るという名目につられて山を訪れたのはいいが、そこはすでに他人の生活する土地である。おずくはすでに二度、自らのあり方を大きく変節させている。一度目は山を降りて九兵衛の養女となった時。二度目は利平の妻――すなわち、黒木屋の嫁となった時。境遇が大きく変わり、それに合わせて己も変わるのだという覚悟を決めながら、おずくは生きてきた。二度の覚悟を経たおずくにとって、尾待山は懐かしい故郷ではあるものの、すでに過ぎ去りし昔のもの、思い出の中にだけあるものであった。
「おずくは筏でこん川を下りよったんか。ええなぁ。俺もやってみたかったわ」
「あきません。川上まで引っ張り上げるのがえらいですよ」
この際、利平の陽気だけがいっそ救いだった。咲かず桜の四郎桜という、ただそれだけの話に興味を持ちはしゃいでいる利平の心が、おずくには十分にわからない。わからないが、この男の陽気は、隣にいる人をも微笑ませる不思議な魅力を持っていて、おずくはそれが好きだった。
すでに父への墓参りは済ませた。山番の一家へも挨拶をした。見知らぬ人への応対をしたのはもっぱら利平だけで、おずくは形通りの挨拶だけで済ませていた。そのおずくの心をわかってか、利平は山番からの案内の申し出を断り、夫婦水入らずで、川上の桜場まで登っていくことにした。決して楽な道ではなかったが、山育ちのおずくは無論のこと、利平も若き日のやんちゃ坊主ぶりを発揮して、妻を飽きさせることなくおしゃべり通しで登って行った。そうしているうちに、あまり乗り気でなかったおずくの心も、次第に明るいものになっていくのであった。
――四郎桜。あの懐かしい桜を、もう一度見てみよう。人が変わり、山が変わっても、昔から咲かぬというあの桜だけは変わらぬだろう。その姿をもう一度目に焼き付けて、故郷の良い思い出にしよう。
やがてふわりと桜が薫った。春の盛り。花の盛りの一面繚花。桜場についたのだ。
「四郎桜て、どれや」
「あら、あら?」
おずくは目を丸くして、目の前の桜たちを眺めた。その昔、児濃の殿様が植えさせたという桜たちは、どの木も見事に咲き誇っていた。どの桜も。どの桜も。あの季節というものに
「おかしいです。確かここに……」
「どれも咲いとるなぁ。咲かん桜て、咲くようになったんやろか」
夫の何気ない一言が、鞭のようにぴしりとおずくの背を打った。自分にとっては懐かしく、夫にとっては珍しく、ここまで二人の足を引っ張り上げてきた四郎桜が、そこにないなどと信じられなかった。
まして、咲くなどと。
「咲く……? 四郎桜が、咲くものですか。父の代から、祖父の代から咲かんという四郎桜が、まさかそんな……うちのおらん間に、なんで咲くと……?」
おずくの血がざわめいた。山に他人が住むことよりも、それは大きな喪失であった。在るべきものがそこになく、ないはずのものがそこに在る。おずくは日頃の嗜みを忘れ、夫を差し置いて駆け出した。
「おずく、どないした!」
「これです。ここに四郎桜がおったはずなのです。この木は……? ああ、この桜はまさか、これが四郎桜だったはずなのに」
かつて幼い日にそうしたように。おずくは目した桜の幹に触れた。記憶にあるのとはまるで拵えの違う、薄紅の傘を広げた桜花の幹に。すると。
ざあっ、と風が吹いた。
「おずく!」
背後の夫の声が、風にこすれる花弁の音にかき消された。それほどに凄まじい風の渦だった。
おずくの目の前で、ひらり、ほろり。
桜の花が、おずくの触れているただ一本からだけ、散っていく。はらはらと風に舞うというよりも、化粧を剥がされるかのように。
「なんでや……」
咲き誇っていた桜が、無惨な姿へと変わっていく。
それはあの懐かしい、四郎桜の姿であった。
「なんで、うちがおる時だけ、咲かんのや……っ」
訳の分からない悔しさが、おずくの胸に去来した。騙されたような、馬鹿にされたような、幼い屈辱が涙にあふれ、花弁とともに風に舞った。
「おずく」
すぐ背後に人の声がした。おずくは袖で涙を隠しながら、夫の方を振り向いた。
声の主は夫ではなかった。時代を異なった、古の若殿様の格好をした人物が、桜の渦の中に立っていた。眉根の美しく、凛々しい顔の若様が。
「四郎、様……?」
「おずく。なんでここに戻ってきた」
不思議な若様――おずくはその人を四郎と決めた――の前髪は風の中でもそよとも動かず、長いまつげのきれいな瞳は真っ直ぐにおずくを射抜いていた。この世の者とは思えぬ妖しい美しさ。しかし、その声は明らかに、男のものではなかった。
「四郎様。あなたは……あなたは、女子だったのですか」
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