おずくの養父となった材木屋の九兵衛という人は、幸いにも穏やかな人物であった。若くして長男の新一をもうけ、他に子はなく、その新一も早熟な性質で早々に一人前の仕事を覚えてしまい、十七、八のそこそこで立派に店を切り盛りするようになったばかりか、縁談話も二つ三つ。親としてはまっこと言うことなしの出来息子であったが、さりとて、息子に後を任せ自分たちは楽隠居――と決め込むには九兵衛夫婦ともどもまだ若く、いささか暇を持て余しているところへ舞い込んだのがおずくの養子話である。

 もう一人ぐらい子どもを育ててみてもいい。それも、女の子ならまた楽しかろう。

 そんなことで迎え入れられたおずくの事だから、もらい児だからとて間違っても下に置かれるようなことはなかった。おずくは、この鷹揚な九兵衛と、その妻でやはり子ども好きのお久の手の下で、不自由なくのびのびと育てられた。

 山育ちのおずくは、家が裕福だとて退屈な姫様ひいさま暮らしは性に合わず、下男や女中を押しのけて家事雑事を請け負うこともままあった。その一方で、養父の勧めで花や書を習えば、物珍しさも相まって、根が水を吸うように真っ直ぐに飲み込んで上達した。

 おずくは女として磨かれると同時に、生来のたくましさも損なわれていなかった。

「材木屋ァ、どないな山猿を拾てきたんや」

 初めのうち、近所の悪ガキ共がそう囃しながら、九兵衛の家を覗きに来ていた。

 ところがおずくが美しく長ずるにつれ、ガキ共は口をつぐみ、一人でこそりと家を覗きに参り、ある種の熱いため息をついて帰るようになったという。

 その器量がものをいって嫁入りとなったのは、おずく十七の歳だった。

「おずくは桜の匂いがする」

 そう囁いたのは夫の利平だった。

 利平はおずくの義兄新一とは幼馴染で、扇を商う黒木屋の若旦那である。新一の方が商い第一のお堅い性格なのに対し、利平はいささか風流の嗜みがあり、互いに良い刺激となりながらそれぞれの家を支える盟友であった。当然おずくとも長い付き合いであり、今までは物堅い新一の目が光ってあまり深い間柄でもなかったが、互いに憎からず思っていることは親の目にも明らかで、どこからも意義のない万々歳の嫁入りだった。無論、十以上も年の離れた夫婦であるが、利平が今日まで独り身でいたのも、早くからおずくに目をつけていたためと巷の評判である。

「桜、ですか」

「うん。いい香りや」

「……どこかで花に触れたのでしょうか?」

「そうやない」

 利平は小さく笑って、おずくの髪を撫でた。そうさせるとおずくは今更ながら、ついさっき知ったばかりの男のたくましさを思い出して、ぽっと頬を染めるのであった。

「指についとるんやなくて、おずくそのものから香るんや」

「よう、わかりませんけど……」

 おずくははにかみながら、しかし悪い気はしなかった。風流な男とはそんな風に女を褒めるものなのかしら、と変にくすぐったい思いをした。

「お世辞やないで。ほんまに、おずくは桜や」

「もう、そういわれても私、どうしたらいいんでしょ」

 くすぐったくて、おずくは笑った。

 笑った拍子に、唇からぽろりと言葉が零れた。

「四郎桜……」

「ん、なんて?」

「あら、私なにか申しましたか」

「言ったで。しろう桜て、聞こえた」

「四郎桜……。まあ、私、そんな事を言いましたか。ずいぶんと懐かしい名前です」

「なんや、面白そうやな」

 利平はおずくの体を放し、夜具の上に片膝立てて起き直ると、枕元の煙草盆から煙管を吸いつけた。

「四郎て、誰や」

「誰だかわかりません。ただ、そんな名前だけが残っているのです」

 おずくは懐かしい話をした。それは随分と古い記憶で、もう長い事思い返すことさえなかったものなのに、話しているうちにありありと記憶は蘇り、幼い手で触れた幹の感触さえ思い出すようであった。

「尾待山の四郎桜。咲かぬ桜か。ふうん、なんか因縁いわくがありそうやな」

 利平はにわかに目を輝かせ、灰を皿に落とすと、再びおずくを抱いた。

「行ってみるか」

「いづこへ」

「尾待山に。四郎桜を見にや。ちょうど花の季節やしな」

「まあ、利平様が尾待山に?」

「ええやろ。店の方は番頭に任して、夫婦連れで行ってみよか。……お義父はんへのお参りもしたいしな」

 そう言われるとおずくも否とは言えなかった。

 十年ぶりに、懐かしい山へ。おずくは夫を連れて帰ることとなった。

 花の盛る春のことだった。

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