四郎桜

狸汁ぺろり

養女

「おずくは桜の匂いがする」

 初めて枕を交わした夫は、抱きしめたおずくの耳元でそう囁いた。

「桜、ですか」

 おずくはまだ大人になりきらない純粋な瞳で、夫の優しい顔を見直した。

「うん。いい香りや」

「……どこかで花に触れたのでしょうか?」

「そうやない」

 夫は小さく笑って、おずくの髪を撫でた。

「おずくそのものから、桜が匂うんや」


 四郎桜は咲かず桜。尾待山に春が来て、川沿いの桜がいっせいに花をつけても、四郎桜だけは咲かぬまま。

「四郎桜、今年は咲くじゃろか」

 おずくは桜の幹に手を触れて、幼い唇からほっと息をついた。

「四郎桜ァ咲きゃあせん」

 筏に丸太を積み込んでいた父は、おずくの方を振り返りもせずに答えた。

「わしの小さい頃かい、うんにゃ、じいさんよりも前の代かい、四郎桜が咲くところを見た人はおらん。なんぼ眺めてん同じ事じゃ。それよりおずく、ここをきびるとを手伝うちくり」

 父に呼ばれてもおずくはしばらく桜を見上げていたが、やがてぱたぱたと着物の裾を翻して、筏に飛び乗った。

 父とおずく。二人暮らしの山暮らし。

 尾待山の材木を切り出して、川で麓まで運ぶのが、父とおずくの仕事であった。

「四郎桜て、なんでそんげな名前がついたと?」

 父の漕ぐ筏の上で、おずくは丸太の山にしがみつきながら尋ねた。

「知らん。ここらの桜はずうっと昔、まだ乱世の頃に児濃の殿様が植えさせたもんじゃかい、そん時に何かの記念で名前をつけたとかもしれん。お子さんか、お侍の名前か――おい、ひょっとすると、山に住んどる妖怪の名前かもしらんど?」

「嫌やぁ、妖怪なんていらん!」

 おずくは顔を真っ赤にして、怒る真似をした。

 風が吹いて、桜の花弁がちらほら、おずくの頭上を飛び越えてどこかへ流れて行く。おずくはその行く先を目で追っていたが、やがて花弁が空に見えなくなると、うっとりと目ぶたを閉じた。

 見えぬものを見るように。知らぬ人を想うように。

「――きっと人の名前よ。きれいな、凛々しい若様の名前に決まっちょる」

「そうか。……そうやとええな」

「うん。そんげやといい」

「足バタバタさすんな。落てるど」

 父は力を込めて舟を漕ぎながら、はしゃぐ娘を背中に感じていた。その浮き立つ心を受けて、前々から心に思っていた、ある事を決断した。

 おずくを、山から降ろそう。


 山に生まれ、山に根付いて死んでいく。おずくの父千蔵にとってはそれが当たり前で、女房もそのつもりで他所から嫁いできた。夫婦の間には長く子どもがなかったが、千蔵の小鬢こびんに白いものが混じるようになった頃、ようやく長女のおずくを授かった。

 諦めかけていた子どもが出来たことに夫婦は望みを燃やし、いつかこの子に婿を取らせて、祖先から受け継いだ山の仕事を託そうと決めていた。あるいは、次に男の子が生まれればそれに越したことはない。そのように夫婦は未来を描き、幸せだった。ところが、その幸せは間もなく破られた。女房の病死によるものだった。

 あとには歳をとった父と、生まれて間もない娘だけが残された。

 男手一つでおずくを育てているうちに、父の考えは変わった。

 母の顔も覚えておらず、父の他にろくに世間を知らぬ娘を、このうえ山に縛り続けることは不憫である。もみじのような柔らかい手に、力のいる山仕事をさせるのも忍びなく、人里で当たり前の、娘らしい暮らしをさせてやりたい。そう願うようになっていた。

 おずくが成長し――たとえ名前ばかりの夢物語といえど――凛々しい若様に憧れる感情が芽生えているのを知って、とうとう千蔵は覚悟を決めた。

「児濃の裕福な家で、養女をもろても良いというところがある。おずく、行ってみらんか」

 葉桜も終わろうかという頃。晩飯の席で千蔵は酒も飲まずに切り出した。おずくは頬っぺたに粟の粒をくっつけたまま、囲炉裏の煙越しに父の顔を見た。父は目を伏せて、さして寒くもないのに、火箸で無暗に囲炉裏の炭をいじくっていた。

 おずくの養子話は、人付き合いの下手な父が、めったに行かぬ児濃の町で方々のツテを回り、畳に額こすりつけてようやく掴んだものだった。娘を町に出すといって、芸者に売るのは御免だという父の気遣いであった。

 おずくにはそんな事情はわかっていなかったが、父が大変な苦労をし、とても大事な話をしている事だけはわかっていた。おずくはそれまで、山を出たいとも、町で暮らしてみたいとも思ったことはなかったが、父がそれを望んでいる。おずくにはそれだけで十分だった。

 娘は娘なりに、父が悲壮な決意を抱いていることを感じていた。実際、孤独になるのは父の方である。父と離れる娘も辛いが、娘を手放す父はより悲しい。その覚悟を父が決めたというならば、応えてやりたいのがおずくの性分であった。

 翌日、おずくは一日がかりで山を歩き、懐かしい景色に別れを告げた。

 こうしておずくは児濃の材木屋、九兵衛の養女となった。七つのことだった。

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