後編
昼下がりの下り電車は閑散としている。日が沈む前に会社を後にするのは久々のことだった。この時期になると通勤電車の中は人々の放つ生々しい疲労感に加えて、重く熱い湿気に満たされる。慣れとは恐ろしいもので、例え親しんだ対象が絶対的な評価を下す局面において良しとされない性質を持っていたとしても、その不快感から身を遠ざけた途端に走行中の電車の中を歩くようなある種の不安定感を覚えたりするものだ。
私は乗客の疎らな車両の中程に立ち、左手の中指を吊革に引っ掛けて窓の外の景色を眺めていた。不愉快な空気ながほんの数時間後に訪れることなど微塵も予感させない程に無機質な車内の雰囲気になんとなく落ち着かない気分だった。
私の妻は息子が小学校に入学し、ある程度手が掛らなくなった頃からパートに出始めた。曰く家の中で家事だけをしていると世界から断絶されたような気分になるとのことだ。大学を卒業して以来、決して楽とは言えない業務に追われ十五年程を過ごしてきた私には敢えて苦労を買って出ようとする彼女の心情を否定せずとも肯定することもできなかった。しかしながらその一方で、何となく彼女の言葉の中に一定の説得力のようなものの存在を感じたということも紛れもない事実だった。そんな思考を巡らせながら電車に揺られていた。
*
駅から我が家までの景色は私にとっては異質なものだった。平日の昼間というのは少し不気味だ。普段であれば絶え間なく人々が行き交うざわついた商店街も、カーソルを合わせたセルの上で誤ってデリートキーを押してしまったように空虚な静けさに包まれている。どう表現するのが適切なのであろうか。言うなれば、肖像画から人を消し去り不自然に取り残された背景を眺めているような感じであろうか。妻が言っていたことをおぼろげながらも理解できたような気がした。
家の前に着き、カーテンの開いたリビングの窓を見上げた。家の中に誰も居ないことがわかっていたからだとは思うが、普段とは何ら変わりないその外観から空っぽの空き箱のような空虚さを感じた。私は駐車場の引き戸を開け、愛車の運転席に乗り込みエンジンを掛けた。
*
平日の昼間の国道は交通量が少なく、程無くして寺の近くまで辿り着いた。交差点で信号待ちをしていると無性に煙草が吸いたくなり、ズボンの左ポケットから煙草を取り出し口に咥えた。煙草の先端にジッポをあてがいフリントホイールを勢いよく回したものの、弱々しく閃光を放つ火花が立つだけで、一向に火が着く気配が無い。何度か火を着けようと試みたが、完全にオイルが切れてしまっていたようで小気味良く石を擦る音だけが車内に響き渡った。そうこうしている内に信号が青に変わる。後続車はなかったがなぜか急かされているような居心地の悪さを感じ、ジッポを助手席の上に放り投げアクセルを踏み込んだ。
のろのろと車を走らせながら助手席の前のグローブボックスの中を手で探ったが、使い捨てのライターは見つからない。なぜだかわからないがどうしても喫煙を諦めることができず、本来であれば左折するべき寺まで続く細い横道を通り過ぎ、カーナビが示すその先のコンビニへと向かった。
コンビニの前で煙草を吸う間、父に対して何を言えばいいのか考えていた。こうして律儀に墓に向かっているということは、勿論父からの一つ目の頼み事を達成してきてやったということを伝える為であったということは確かなのだが、母から聞かされた言葉をそのまま父に伝えることは幾分憚られた。憚られたというよりも、予想だにしなかった母の抱えた父に対する感情を認めたくなかった。しかしながら私は、彼女の感情を認めないということが、つまりは自身が重大な何かを手放してしまうことを意味するということにもおぼろげながら気付いていたのかも知れない。そうでなければわざわざあと二つも頼み事を抱えた父の元へと再度訪れるなどということは決してしなかったであろう。
ライターを買ってまで吸い始めた煙草であったが、口の中に広がる煙を妙に苦々しく感じ、半分程吸い終えた所で灰皿の中に吸殻を落とした。煙草を吸い終え手持無沙汰になりながらも車の中に戻ろうとは思えず、数分の間コンビニの前に突っ立ちながら茶色く薄汚れた綿のような色合いの厚い雲をぼんやりと眺めていた。
左手の腕時計を見ると、時刻は既に三時前になっていた。もうそろそろ秀一が学校から帰ってくる時間だな。そんなことを考えながら、誰も居ない家に帰り、ソファに身を埋め一人でテレビを観る彼の姿を想像した。想像の中の彼の姿は妙に生々しい現実味を帯びており、録画した映像を頭の中で再生しているような既視感を覚えた。
この時間になるとまだ夜は遠いものの、何となく夕暮れの訪れる気配を感じることがある。それを感じさせるのが西方にやや傾いた日差しなのか、或いは生まれてから何度となく経験してきた黄昏時を体が記憶しており、やがて確実に訪れる暗闇に無意識のうちに身構えているのかはわからない。その時の私はその気配をいつもよりも鮮明に感じており、また同時に憂いを帯びた焦燥のようなものを胸の中に感じていた。
私はそそくさと車に乗り込み、目と鼻の先の距離まで迫った寺へと向かった。
*
父は墓石の前にぽつりと立っていた。既に死んでいるから当たり前と言えばそうなのかも知れないが、何をするでもなく墓地に立ち尽くす彼の姿は周囲の情景にやけに馴染んでおり、言うなれば背景の一部としてその空間に溶け込んでいるような親和性があった。どうやら父は私が彼の姿を墓地の入り口から眺めていることに気付いていないらしく、背中を弓なりにし自身の亡骸の眠る墓石のあたりの空間をじっと見詰めていた。
墓地に着くまでの間に彼に掛ける言葉を捻り出すことができなかった私は、重い足取りで彼の横へと歩いて行き、ライターのフリントホイールをわざとらしく二、三回まわして煙草に火を着けた。火打石が擦れる音に気付き、さっと身を翻す父。顔を横に向けて煙を吐き出してはいたが、彼が私の姿を見て笑みを浮かべていることは容易に想像できた。
「やっぱり来てくれたんだな、秀司。お前がまたここに来てくれることは何となくわかっていたぞ。」
煙を吐き終え横目に彼の顔を見た。私の予想通り、彼の顔には笑みが浮かんでいた。私は彼に背を向け、右手の指先に挟んだ煙草を口元に運んだ。
「ここに来たっていうことは、母さんに会いに行ってくれたんだな。まあ、なんだ。敢えて詳しいことは聞かない。例え謝ったとしても母さんは俺のことなんてもうなんとも思っていないだろうからな。何となくだけど、母さんがどんな反応をしたのかはわかる。」
にこやかな笑顔とは対照的な萎んだ風船を彷彿とさせるような彼の声を背に、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。その言葉を彼に対して投げかければ、それまでの人生で頑なに守ってきた何かが、砂場で遊んだ後に手に付き乾いた泥がパラパラと崩れ落ちるように、不快な感触を手の中に残したままこの身から離れて行ってしまうような気がした。
「……まあ、あれだ。特に変わったことは言ってなかった。」
「そうだろうな。秀司、わざわざありがとうな。」
父の口から発せられた予想外の礼の言葉に、胃のあたりがキュッと締め付けられるような感覚が走った。フィルターから煙を吸い込みながら母の言葉を反芻した。
私は気付いていた。母が立ち向かい消化していったものを私は忌避し、そして触れぬことで記憶から消し去ろうとしていたということに。思い出さないことこそが受け入れることだと考えていた。しかしその実、私がしていたことは自身を長く重い鎖で過去の影に縛り付けるだけの行為だったのだ。
詰まる所私は、受容と見せかけた諦観で自身を欺き続け、悲劇の渦中に自らを落とし込もうとしていたのだ。まざまざと見せ付けられた自身の弱さに、父に会いに墓を訪れたことを後悔した。それと同時に、この場に足を運ぶことなく残りの人生を歩んでいたとしたら、徐々に腐敗していく精神と共にゆっくりと死に向かって歩を進めていくだけの結末を辿っていただろうことも想像に易かった。
暫しの沈黙。先程よりも厚みを増した雲が重く圧し掛かるように空を覆っていた。父の言葉が沈黙を破ることを期待し普段よりもゆっくりと煙草を吸ったものの、火種がフィルターに届くまで父は口を開かなかった。恐らく彼も私と同じような心境で墓石、或いは私の背中を見詰めながら突っ立っていたのであろう。私はポケットから煙草を二本取り出し一本を口に咥え、残りの一本の先端をライターの火で炙り香炉の中にそっと置いた。
その様子を見た父はゆっくりと墓石の横へと歩いて行き、芝台に腰を下ろした。ため息を吐くように吐き出された薄い煙が生暖かい風にさらわれて厚い雲の色に重なり消えていった。
「次は直ぐに済むと思うぞ。」
突然の父の台詞の意味がよくわからず、左手をズボンのポケットに突っ込み煙草を咥えたまま墓石を眺めていた。よくよく見ると我が家の墓石は薄っすらと土埃を被っており、墓の周りの地面には雑草が生えていた。
「――秀司、聞いてるか?」
父の台詞は言葉の通り私の意識を自身に向ける為というよりも、私の視線を墓から逸らす為に投げかけられたものであるような気がした。事実、彼は何か疚しいものでも隠すかのように焦った様子で芝台から立ち上がり、私と墓との間に体を割り込ませていた。
「うん、聞いてる。で、”次”って?」
「二つ目の頼み事のことだ。」
父は私に背を向けて肩を落とすようにゆっくりと煙草の煙を吐き出した。幼い頃に見た父の背中と比べると、どことなく小さく見える彼の後ろ姿に憐れみのような感情が沸き上がった。
「ああ、そうだったな。で、その二つ目の頼み事ってのはなんなんだ?」
私は自身が発した言葉に居心地の悪さを感じながらも、丸くなった父の背中を見詰めつつ彼の言葉を待っていた。
「秀司、お前、子どもが居るんだろ? 写真、見させてくれないか?」
父は躊躇うようにゆっくりと振り返り、伏し目がちにそう言った。私は彼の頼み事を自分から促しておきながら、即座に携帯電話をワイシャツの胸ポケットから取り出すことも、待ち受け画面に写る息子の写真を父に見せることもできなかった。墓地を囲い込むように植えられた金木犀の木が風に揺らされる様子を墓石越しに眺める私の心境に気付いたのか、父は俯けた顔を上げ、取って付けたような笑みを浮かべた。
息子が生まれた時には、父はまだ生きていた。一般的には子どもが生まれれば逸早く両家の両親にその姿をお披露目するのであろうが、私は息子の顔を父親に見せる、ましてやその腕に息子を抱かせる気など毛頭なかった。それは単に父のことを避けていたからという訳ではなく、彼と息子を接触させることに漠然とした恐怖を抱いていたからなのかも知れない。しかしその反面、息子の存在が断絶した父との関係性を繋ぐ鎹となるかもしれないという淡い期待が胸の中にぼんやりと浮かんでいたことも事実であった。
「――そうだよな、お前が考えていることはわかるぞ、秀司。だって」
「死ぬと便利な力が使えるようになるんだろ?」
私は左手の腕時計に視線を向けながら父の言葉を遮った。父は眉間に皺を寄せ唇を小さく開き、歯の隙間からスーっと音を漏らしながら息を吸い込んだ。
「写真だけど、生憎今日は持ち合わせていないんだ。また、そのうち持ってくる。」
私は“そのうち”という言葉が社交辞令的な意味合いを持っていること、そして単なる社交辞令とは違い、それは現実的に実現不可能である事象に対する希望を抱かせてしまうある種の悪意のようなものを意図せずして含んでしまっていることに罪悪感を持った。
「――ただ、俺によく似てるって時々言われるよ。」
父は視線を上げ、私の肩越しに遠い風景を眺めるように目を細めた。
「そうか。どうやら、俺の孫は大切にされて元気に育っているみたいだな。」
多くは語らなかった息子について父がぼそりと呟いた言葉から、例の“便利な力”というヤツで彼が息子の存在をなんとなく感じ取っていることがすぐにわかった。
「そうだと、いいんだけどな。」
私は咥えた煙草を右手でつまみ、ため息交じりの煙を空に向かって吐き出した。
「……よし! それじゃあ、最後の頼み事といくか。」
私の顔に視線を戻し明るく言い放った父の笑顔は、硬くなった頬を無理やりに崩すような不自然な印象を漂わせていた。何も言わずに頷きつつ吸殻を携帯灰皿に放り込み父の目を見返したが、あまりにも真っ直ぐに投げかけられた視線に後ろめたさを感じ、顔を横にそむけた。
「最後のはもっと簡単だぞ。お姉ちゃんに電話を掛けてみてくれ。」
父はそう言い放つと香炉の中の煙草に手を伸ばしそれを摘まもうとしたが、指先が透けてしまい煙草に触れられないようだった。身を屈めたまま苦笑いを浮かべる父を見て、香炉の中の吸殻を摘まみ上げ、携帯灰皿の中に投げ込んだ。そういえば、もう死んでるんだよな。そんなことを考えながら、父が最後の頼み事に込められた真意について語り出すのを待った。
「多分、『引き出し』と言えばお姉ちゃんも気付くと思う。」
彼の言葉は私が期待していた頼み事に対する簡潔な説明から掛け離れていたが、いかにも理解しかねるといった怪訝そうな私の表情を予見していたかのような悪戯な笑みが父の顔から滲み出ていた。
「あと、もうわざわざこの場所に来てくれなくて大丈夫だからな。」
頼み事が三つであるということから、いつかはこの複雑な想いにまみれた奇妙な墓参りにも終わりが訪れることを理解しており、正直な心境としてその終わりがなるべく早く訪れることを心のどこかで望んでいた。しかしながら、その終わりが予想よりも近くまで迫って来ているという事実に拍車を掛ける父の言葉に、季節外れの肌寒さを錯覚した。父の顔には依然笑みが浮かんでいたが、先程の悪戯心を含んだそれとは違い、どこか満足気で柔らかな笑顔だった。
こんなに柔らかい表情を見せられる人間だったんだな、この人は。そう思いながら顔を上げると頬に一滴の雨粒が落ちてきた。その雨はあっという間に強さを増し、傘を差さずに外を歩こうとは思えない程度の雨脚に変わった。髪の毛が雨を含みひんやりとした重さを感じたが、父の体は雨をも透かしていたようで、髪からも服からも水は滴っていなかった。
「秀司。風邪引くからそろそろ行け。」
父の言葉を無視して、ライターを手の平で覆いながら煙草に火を着けた。
思えば父の柔和な表情を見たことはなかったが、そもそも私は彼の顔をこうもまじまじと眺めたことなど今の今までなかったのかも知れない。そして同時に、その事実は彼に自身の顔を見させなかったということも意味しているのだと気付いた。咥えた煙草に降り注ぐ雨粒が弱々しく光る火種から輝きを奪おうとしている。私は火が消されてしまわぬように半ば祈るような気持で煙草を吸い続けた。
「――じゃあ、そろそろ行く。」
父は無言で頷いた。
私は濡れた髪を掻き上げ、墓を背に講堂の方に向かってのろのろと歩き出した。
「秀司! 今日、金曜日だろ。仕事を休んでまでここに来てくれて、ありがとうな。」
雨音に混じった父の叫び声を背中に聞き、姉に取り仕切らせた葬儀のことが頭を過った。私は後悔した。それは姉に面倒を掛けたことに対する後悔ではない。父が死ぬ前から既に始まっていた後悔だった。
振り返ろうと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。肩の震えを隠しながら、墓を背に足を進めることしかできなかった。
*
電話の向こうからはざわざわとした落ち着きのない喧騒が感じられた。恐らく姉はパートの帰りにスーパーで買い物でもしている最中だったのだろう。電話に出た彼女の最初の一言の声色から、普段であれば仕事の真っ最中であろう私から電話が掛かって来たことへの疑問は感じられず、人々でごった返した店内の雰囲気への苛立ちのみが伝わってきた。
「『引き出し』って聞いて何か思い当たることってない?」
唐突な質問に頭を悩ませていたのか、それとも真意を掴めないその内容に苛立ちを覚えたのかは定かではないが、数秒の間電話口から姉の声が聞こえることはなかった。ブレーキペダルを踏みながら信号を待つ間に、その沈黙の様相が徐々に変化していく雰囲気を何となく感じた。
「ちょっと後で掛け直すから待ってて。」
直後、車内に響く喧騒は終話を告げる電子音に変わっていた。私はライターを買ったコンビニの駐車場に車を停め、何をするでもなくフロントガラスに打ち付ける透明の雨を眺めていた。
十分程の後であっただろうか、姉から折り返しの電話が掛かって来た。私は助手席から着信を告げる振動を感じるや否や、携帯電話に手を伸ばした。
「あ、もしもし。さっきはごめんね。それより、なに、あんた。仕事はどうしたの?」
いつも通りの姉の様子に安心感を覚えた。
「ちょっと用があってさ、今日は午後休を取ったんだよ。そんなことより――」
「引き出し、でしょ? 最初は何を言ってるのかわからなかったけど、直ぐにわかったよ。もうそろそろあんたの誕生日だもんね。」
引き出しと誕生日。いくら頭を捻ってもその二つの単語同士が共有するものが何一つ思い浮かばず、黙りこくってしまった。
「もうそろそろ家に着くから、あと一時間ぐらいしたらうちまで来てくれる?」
腕時計を見ると、時刻は十六時になろうとしていた。家で一人待つ息子に対する後ろめたさのようなものを感じながらも、父が意図したものが何なのかを確かめずにはいられなかった。私は姉に「わかった」と伝え電話を切ると、車のエンジンを掛けた。
*
姉の住むマンションの前に車を停めた。雨脚は弱まっていたが、降り続く霧雨がフロントガラスに積もってはワイパーにさらわれていった。程無くしてマンションの入り口から姉が現れた。彼女は傘を差さず小走りに車の横までやってくると、助手席に乗り込んだ。
「久しぶり。ほら、これ。」
姉から差し出されたのは古びた腕時計だった。私は黙ってそれを受け取り、訝しげな表情を浮かべながら室内灯を点けた。黒い文字盤とは対照的な白く細い時針は既に動きを止めており、プラスチック製のケースの上には細かな擦り傷がいくつか付いていた。
「これのことじゃないの? お母さんから久々に秀司に会ったって聞いたんだけど、その時にこの時計のこと、聞いたんでしょ?」
眉を顰めた私の顔を見て、姉は幾分苛立った声色でそう問いかけた。
恐らく姉は何らかの経緯があってこの腕時計を父から引き取り、そして私に手渡すこの時を待っていたのであろう。率直に言えばその経緯も、なぜ姉の話に母が登場したのかという理由さえも想像できなかったが、それらはその時の私にとってはさしたる問題ではなく、その腕時計が数年の時を経て私の手元に渡ってきたという事実のみにこそ何某かの意味があるのだと直感していた。
「それじゃあ、夕飯の準備しなくちゃいけないから。気を付けて帰りなね。近々、みんなでご飯でも行こう。」
姉はそう言い残し、小走りにマンションの中へと戻って行った。
車内には静かに降り注ぐ雨の音とハザードランプの点滅を示すリレー音が響き渡っていた。私は父からの最後の頼み事を終着点まで見届けたことを理解すると同時に、彼がなぜ死んでから数年の間、この世に留まり続けていたのかを何となく理解していた。
就職と同時に購入した腕時計。それはある種の決意表明のような意味合いを含んでいた。これから先、どんなにつらいことがあっても決して逃げ出してはいけない。その現実に立ち向かうに当たって自身を奮い立たせる為のある意味ではお守りのような物であったのかも知れない。
父はどんな想いを胸にこの腕時計を息子である私に託そうとしたのであろうか。その腕時計を私が手にした今、彼はどんな感情に身を浸しているのであろうか。私はそれらを理解しかけていた。そしてそれを理解しかけているということが、父が本当の意味でこの世を去ろうとしているということをも意味しているのだと気付き、ハザードスイッチを押し、アクセルを踏み込んだ。
長い旅だった。私にとっても、父にとっても。路面の水溜りから飛沫を撒き散らしながら車を走らせる間、母の言っていた言葉を思い出した。男には真っ直ぐな可愛さがある。その言葉には”母親にとっては”という決定的な定義が欠落していることが、この時になってはっきりとわかった。いや、正確に言えば私達にとってそれは定義よりも定理に近いものであったのかも知れない。みぞおちのあたりを内側からくすぐられるようなざわめきを感じた。この時は不思議と煙草を吸いたいとは思わなかった。
*
辺りは暗くなり、重々しく地面に根を張る寺門は弱々しい街灯の薄明かりにぼんやりと照らされていた。ワイシャツの胸ポケットに父から託された腕時計を突っ込み、小走りに墓地へと向かった。
父は墓石の前で立ち尽くしていた。彼の体の下からは昼間まで存在していたはずの脚が消えており、所謂想像通りの幽霊の姿をしていた。墓地の入り口から見る彼の姿は、暗闇の中に居るにもかかわらずやけにはっきりと視認できた。短距離ではあったが、久々に走った私は息を切らしながらも父がまだこの世に存在していることに安堵を覚えた。
「――親父。」
私の声を聞いた父は、予想外の出来事に驚いたのか肩を跳ね上げて私の方へと目を向けた。
「――秀司? なんで戻って来たんだ?」
父の表情から滲み出す感情は、私が彼の元へと歩み寄るに連れて驚きから憂いへと変わっていった。
私は胸ポケットから腕時計を取り出し、父の前に差し出した。
「そうか、無事受け取ってくれたか。秀司、腕時計って社会で戦う男にとってはお守りみたいなものだと思わないか?」
彼の表情からは曇りのない喜びの感情が読み取れた。私は父の問いに答えることができなかった。言葉を発すれば下瞼に溜まった涙が零れ落ちてしまうことが容易に想像できた。
「おいおい、三十六にもなって何を泣きそうになってるんだよ。」
私はわざとらしく満面の笑みを浮かべる父が、私と同じように涙を堪えているということがはっきりとわかっていた。
「――いや、もっと正確に言えば、もうそろそろ三十七歳か。」
父の言葉に胸が締め付けられた。私は零れ落ちる涙を隠す為に右手で両目を覆い隠し、顔を上に向けた。
「……誕生日、覚えてたのか?」
締め付けられた喉から声を絞り出すように父に問いかけた。両目を覆っていたので父がどんな表情で私のことを見詰めていたのかはわからない。ただ、父がやれやれといった具合に鼻で笑ったことだけはわかった。
「秀司……。お前が生まれた時、母さんに言ったんだ。この子からどんなに嫌われたって、俺はこの子の父親をやめられそうにない、ってさ。秀司、お前には口にできないような歯の浮くような台詞だろ? わかってるぞ、お前は普段から口数も少なくて、歯の浮くような台詞だけじゃなく、普通のことだってあんまり話さなかったからな。」
「でも、やっぱり――」
不意に途切れた父の言葉。呼吸を整え、覆い被せた手を目の上から外した。父の姿はもうそこにはなかった。
私は父が何を言おうとしていたのか、なんとなくわかっていた。それと同時に、父があることについて理解をし損ねていたことにも気付いていた。私はズボンのポケットから煙草とライターを取り出して香炉の中に置いた。霧雨は既に止んでいた。
*
紫陽花の咲き始める季節だった。私は昨年と同じように寺に向けて車を走らせていた。
妙な話ではあるが、ちょうど一年前に十五年以上の歳月を経て眺めた街並みには違和感しか抱くことがなかったのだが、ほんの一年ぶりに再び目にした雨雲に覆われたその景色からは、セピア色に褪せた写真を眺めるような遠い日の哀愁のようなものを感じた。
考えてみれば墓参りとは妙なものだ。もうこの世に居ない人間に想いを馳せながら、毎回決まって同じ場所へと足を運ぶ。確かに悼む対象の亡骸は墓石の下に眠ってはいるのだが、それに向けて手を合わせ、生前の姿を思い浮かべる人々の行動にはどこか合理性の欠落を感じる。例え墓地に足を運ばなくとも、ふと吹き付けるそよ風を肌に感じるように淡い感傷に浸ることが時々でもあれば、この世を去って行った人々の魂も救われたような気分になるのではないだろうか。寧ろこの世で生を営む我々が彼らを悼みに墓地に訪れることが彼らの魂を一点に縛り付ける、謂わば鎖のような働きを持ってしまっているように感じてならない。
私はわかっていた。父がもうこの世にはいないということが。わかっているのに墓地に向かう自身の抱えた矛盾に身を包まれ、シートベルトを外す手があたかも別人のものであるかのような感覚に襲われた。
そんなことを考えながら助手席に置いた小さな植木鉢を片手に、荒い砂利の上に足を下ろした。靴の裏から伝わるゴツゴツとした感触。寺門の先に広がる、透明な膜で世界から断絶され、静けさに包まれた空気。
「お父さん、早く行こうよ。」
後部座席から砂利の上に足を下ろした息子に促された私は、道路の向かいにひっそりと佇む蕎麦屋に目を向け、講堂の横の狭い道へと歩き出した。
三十七にもなって情けない話ではあるのだが、確固たる意志を持って故人を悼みに墓に訪れることなどそれまでの人生の中で初めてのことだったので、所謂仏花というものがどのようなものなのかがわからなかった。
仏花を買おうと立ち寄った花屋は、こじんまりとしていながらも女性的な感性で彩られた落ち着いた内装を持ち、店内に足を踏み入れたその瞬間から場違い的な雰囲気に当てられた。少々古臭い感性ではあるのかもしれないが、私の中には”女性しか訪れることのない場所“と定義された空間がいくつかあり、花屋もその中に含まれている。言うなれば自身が存在すべきではない空間に肩身の狭さを感じながらぎこちなく目をきょろつかせつつ花を選んでいると、結婚前の妻へのプレゼントを買いに一人でアクセサリーショップに訪れた時の感覚が蘇った。
結局私が買ったのは仏花ではなく、店先に雑然と並べられた薄紫色の花の植木鉢だった。安っぽいポリポットの中に控えめに咲く花を見て、小学四年生の息子でさえも違和感を持ったらしく、寺まで車を走らせる間楽しそうにゲラゲラと笑っていた。
墓の前で少々悩んだ後に、植木鉢を香炉の横に置いた。一歩下がって墓を眺めてみた。墓石にポリポット。なんとも不格好だ。その場違いな見た目に滑稽さを覚えにやつきながら煙草を咥えた。
煙草に火を着けようとズボンのポケットを手で探って初めてライターを家に忘れてきてしまったことに気付いた。小さくため息を吐き、口に咥えた煙草を箱に戻そうとすると、香炉の中に置き去りにされたままのライターが目に入った。
息子はひらひらと飛び回るモンシロチョウを楽し気に追い回している。辺りを見渡し、周囲に誰も居ないことを確認し、香炉の中のライターを手に取った。なんで元々自分で買ったものなのに盗んでいるみたいな気持ちになる必要があるんだ。心の中でそんなぼやきを漏らしながら咥えた煙草に火を着けた。
ぼんやりと墓石を眺めていると、退屈な墓参りに早くも疲れてしまった息子が私の横へとやって来た。私は息子にキーケースを渡し、先に車に戻るように言った。
周囲を雑草に覆われた汚れた墓石を眺めながら、火種がフィルターに届く直前までゆっくりと紫煙を燻らせ、吸殻を携帯灰皿の中に放り込んだ。香炉の横で茎を揺らす紫色の花を見て、吹き付ける風が降雨の前の湿気を含んでいることを感じた。
息子を長い間車の中で待たせるわけにもいかず、墓に背を向け立ち去ろうとした瞬間、重い湿気を含んだ空気を割くように爽やかな風が吹いた。私は歩を止め振り返り、封を開けた煙草の箱とライターを香炉の中に置いて墓地を後にした。
寺門の前で立ち止まり、講堂の横の細い道に肩越しに視線を送った。正面を向き息子の待つ車へと歩き出した瞬間、幼い頃に父の洋服から感じた甘い煙の香りが背中に吹き付ける風に乗って漂ってきた気がした。西の空を見上げると、人間の持つ根源的な儚い望郷の念を沸き立たせるような薄紫色の空が広がっていた。
頬を撫でる夕暮れの涼し気な風。
もうすぐ、夏が始まる。
死んだ父からの頼み事 閃光 @senkou_coffee
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます