中編
自宅の駐車場に車を停め左手の腕時計を見ると、時刻は既に二十一時になっていた。車の窓には数分前から降り始めた小雨の粒が砕けだガラスが散りばめられたかのように光っている。車から降り、カーテンの隙間から光が漏れるリビングの窓を見上げた。なんとなく不機嫌そうな妻の表情が頭に浮かんだ。
玄関の戸を開けると、暗い廊下に妻が立っていた。恐らく外から聞こえる車の音に気付いて階段を降りて来ていたのだろう。
「ただいま。」
私は”機嫌が良い”という形容句が恐らくこの瞬間世界で一番似合わないであろう妻の雰囲気を察し、そそくさと靴を脱ぎ捨て二階に上がろうとした。
「こんな時間までどこに行ってたの?」
妻の横を素通りしようとする私に、予想と寸分違わぬ質問が投げかけられた。私はわかっていた。土曜日の昼下がりに何も言わずに妻と息子を置いて家を抜け出し、早いとは言えぬ時間に家に帰ってくる男がどんな言葉を投げかけられるのかを。
「……ちょっと用事があってさ。ごめん。」
私は妻の横で立ち止まり、硬くなった頬を無理やりに崩すような不自然な笑みを浮かべながら彼女に言った。
「用事って……。あなたね、普段から帰りが遅くて秀一と話す時間だってそんなに取れてないでしょ? 休みの日ぐらいもう少し秀一と遊んであげったていいんじゃないの?」
彼女は私の方に体を向け腕を組み、苛立った声を押し殺すように小声で私に詰め寄った。彼女は最近、目尻に増えた皺を気にして風呂上がりによくわからない高そうなクリームを丹念に顔中に塗り込んでいるが、この時の彼女は目尻ではなく眉間に皺ができていた。
「ごめん。わかってるよ。」
彼女の言葉に対する反論の余地はない。そう感じ、私は浮かべた笑みを顔から取っ払った。
――わかってる。
人は凡そ二通りの局面でこの台詞を口にすることを三十六年の人生の中で学んできた。一つはその言葉の通り、何かを理解している時。そしてもう一つはそれとは反対に何も理解をしていない時だ。この時の私はなぜ妻が苛立っているのか、それをよく理解していた。
無言で階段を上る妻の後ろ姿を見送り、脱ぎ捨てた靴を玄関の端に揃えてリビングに向かった。息子の秀一は夕飯と入浴を既に済ませていたようで、パジャマを着てソファに体を埋めていた。彼は私が帰って来たことに気付いてはいたのであろうが、テレビに映るモンスター達が戦う様子に釘付けになったままだった。
ダイニングテーブルの椅子に座ろうとすると、キッチンで私の夕飯の支度をする妻が肩越しに視線を送って来た。睨みつけるその視線が私に何を促しているのかは明白だった。テーブルから引き出した椅子を押し戻すと、妻は小さく頷いて茶碗を片手に炊飯器の蓋を開けた。
私はリビングのソファの横まで歩いて行き、息子の横顔をちらっと見た。
「秀一、ただいま。へえ、このアニメ、まだやってたんだなあ。お父さんも子どもの頃にこのアニメを毎週観てたんだぞ。」
テレビの画面を見ながら彼に話しかけると、彼は小さい声で「お帰り」と一言だけ呟いた。困ったな、何を話せばいいのだろう。そんなことを考えながらテレビの画面をじっと見詰めたままソファの横に突っ立っていると、キッチンの電子レンジが音を上げた。
私はその音を聞き、逃げるようにキッチンへと向かいダイニングテーブルの椅子に座った。妻は温め直した唐揚げとみそ汁、炊き上がってから二、三時間経ったであろうご飯をテーブルの上に並べ、私の正面の椅子に座った。彼女はテーブルに肘を着きながら小さくため息を吐き、両手の中指で目尻を引っ張った。
「それでさ、今日はどこに行ってたの?」
墓参りに行っていたと馬鹿正直に言えば、恐らくなぜこの時期にわざわざ墓参りに行くのか、などという苛立ちを含んだ質問に追撃されるだろう。私は彼女の心の中に立つ波を最小限に抑えるべく、ゆっくりとみそ汁を飲みながら思考を巡らせた。
「――そろそろ、あれだ、秀一の誕生日だろ。」
私はみそ汁の入った茶碗を口から離し、右手で口元を隠しながら妻に向けて囁いた。
「最近の小三の男の子が欲しがりそうなものってどんなものなのかなって思って、何軒かおもちゃ屋さんを回って来たんだよ。」
妻は目尻から中指を離し、口をキュッと結んで私の目を見ながら首を小さく縦に振った。私は彼女の仕草を見て、少々の罪悪感を持った。
「――それだったらね、私から秀一に欲しいものをそれとなく聞いてみるから。」
妻はソファの方に目線を向けながら、テーブルの上に身を乗り出して囁いた。前のめりになった妻の髪からはシャンプーの匂いがした。ぼんやりと彼女のことを眺めていると、その様子に気付いた彼女は私の顔を見て怪訝そうに額に皺を寄せた。私は妻の視線から目を反らし、温め直して衣が柔らかくなった唐揚げに箸を伸ばした。妻は冷蔵庫から水の入ったピッチャーを取り出しテーブルに置くと、アニメを観る息子の横に腰を下ろした。息子は隣に座る妻の顔を見上げてうっすらと微笑みを浮かべていた。
もう少し早く帰ってくればよかった。そう思いながら夕飯をさっさと平らげた。
*
風呂から上がると息子は既に寝室に行ったようで、テレビの消えた静かなリビングで妻が一人ソファに座っていた。背もたれに寄りかかる彼女の背中を見て、乗客の居ない終電の車内から遠くの街明りを眺めているような気分になった。
「まだ起きてたんだね。」
私は妻の横に座って電源の切れたテレビに目をやった。黒い画面に反射した妻と目が合い、瞬時に目を背けた。
「これ、月曜日に学校に持って行かないといけないみたいだからさ。」
妻は目線を手元に落とすと、手に持った雑巾の端から伸びた糸をはさみで切り、針山に縫い針を刺した。縫い上げた雑巾を丁寧に四つ折りにし、ソファの前のテーブルに積み重ねると、彼女は肩を下げ小さくため息を吐いた。
「――自分の部屋だってさ。」
脈絡のない妻の言葉に「え?」と声を漏らした。
「だからさ、秀一の欲しいもの。自分の部屋なんだってさ。」
小学三年生の男の子にとって、精神的な秘密基地のような空間が必要であることは、かつて息子と同じように小学三年生の男の子だった私にはすんなりと理解ができた。それと同時に、その申し入れをあっさりと受け入れようとしている私を父に持つ彼を羨ましく思い、ソファの背もたれに深く身を埋めた。
右の髪をかき上げ耳に掛ける妻。確かに瞼を下ろした彼女の目尻には出会った頃と比べたら細々とした皺が増えてきている。妻がそのことを酷く気にしている反面、私は彼女の横顔に以前よりも深い親近感のようなものを抱いていた。
「いいんじゃないかな。部屋だって一つ余っているし。それにあの年齢になればなんと言うか――」
左に視線をやると妻は伏し目がちに膝のあたりを見詰めていた。
「――『親』から離れたくなることもあるのかもしれないしさ。」
私は自身の言葉に幾分かの推測と自身を欺く曖昧さが含まれていることに気付き脚を組んだ。
「そうなの、かな。自分の部屋を持つにはまだ少し早い気がするけど。」
妻と話す息子はいつだってはにかみながらも晴れた日の午後の日差しを思わせるような笑顔を浮かばせている。そんな息子を愛おしそうに見詰める妻は、月明かりを思わせるような淡い笑顔を滲ませている。その光景を目の当たりにする度に私は彼女が妻であると同時に母であることにハッと気付かされる。
母親というものは息子に対して特別な感情を抱く傾向があるということを聞いたことがある。恐らく妻もその例に漏れず、息子に対して謂わば執着のような感情を持っていたのかもしれない。私は彼女の中で浮き彫りになったその感情に対して、繋いだ手を不意に離され置き去りにされるような感覚を抱いた。
「まあ、それは実際に自分の部屋を持ってみなければわからないよ。もしかしたら秀一も、自分の部屋で一人で寝ることを寂しく感じるかもしれないしさ。とりあえず、秀一の希望通りにしてやろうよ。」
私の言葉を聞いた妻は小さくため息を吐き、「そうね。」と言うと、テーブルの上の雑巾と裁縫道具を持ってすっと立ち上がった。
「――あと前から思ってたんだけどさ、あなたも誕生日が近いんだし、そろそろあの腕時計、買い替えたらどう? 傷も目立つし、それにもう少し高いものをしていた方が見栄えもいいんじゃないの。」
自分の誕生日のことなど意識の末端にもなかった。妻と出会ってからもうじき十五年は経とうとしている。出会ってからの数年はそれこそお互いの誕生日にはプレゼントを贈り合ったり、ちょっと背伸びをして普段は口にすることが無いような小洒落た料理を食べに行ったりしていたが、息子が生まれてからというもの、そのような機会は全くと言っていい程になくなってしまっていた。
妻からの予想外の提案に少々驚きつつも、自身さえ気にしていなかった誕生日を妻が気に掛けてくれていたという事実に頬が綻んだ。
「ありがとう。でもまだ使えるしいいよ。それにあの腕時計は初任給で買った思い出の品だからさ、何か他に適当なものでも見つけて買わせてもらうことにするよ。」
妻は口角を上げ目を細めると、「そっか、わかった。」と言い残し、寝室へと歩いて行った。
妻の居なくなったリビングは耳鳴りが聞こえる程に静まり返っていた。一人置き去りにされた無音の空間。私は妻の横顔を思い浮かべつつ、テーブルの上に置いた携帯電話を手に取った。携帯電話を手に少し悩んだ後、母親にメールを打とうとした。しかし、もう数年は連絡を取っていない母に対してどのような内容のメールを送ればいいのか見当がつかず、手にした携帯電話をテーブルの上に戻して背もたれに寄りかかった。
十分程悩んだ末に結局私が送ったのは『久しぶり。元気にしてる?』という当たり障りのない、連絡を寄越した真意を推測することさえできないような簡素な内容のメールだった。久々に息子から来た連絡がこのようなある種困惑を誘うような内容であれば、その返信を考えるのに難儀するに違いない。そんなことを思いながらテーブルの上に携帯電話を置くと、直後、画面の上にメールの着信通知が表示された。
『久しぶりだね、元気だよ。秀司は元気? それよりこんな時間にメールなんて、なにかあったの?』
なにかあったと言えばそうであることは間違いない。というよりも、会ってはならないものに会ってしまったからこうして母に連絡を入れたわけではあるのだが、父のことを母親に思い出させたくないという本心とは真逆の行動を取ろうとしている自身の心情を理解することができず、母親のメールを画面に表示させたまま再び携帯電話をテーブルの上に置いた。私は半ば言い訳を絞り出すような心情で母親への返答に頭を悩ませた。
『いや、特に何があったというわけではないんだけど、久々に顔が見たいなと思って。急だけど、明日少し時間貰えないかな?』
本来の目的とは異なる趣旨を伝えることに若干の違和感はあったものの、送信された自身のメールを読み返し、適当に手にした二つのパズルピースの凹凸がぴったりと嵌るような感覚が走った。
『お昼過ぎなら大丈夫だよ。こっちまで来る?』
私は母からの問いかけに『うん。じゃあ昼過ぎにそっちの駅まで行くよ。』と返事をし、テーブルの上に携帯電話をそっと置いた。
*
母の暮らす街は東京の隣県にある所謂ベッドタウンと呼ばれるような場所で、改札の目の前には日本最大級を謳う大型のショッピングモールが鎮座している。昼過ぎの駅前は家族連れやカップルでごった返しており、湿気を含む澱んだ空気が風に流されることなくしつこく留まり続け、不快な暑さに包まれていた。
母から指定された喫茶店までのろのろと歩きながら、私は父親の幽霊のことを考えていた。そもそもの話ではあるが、もし仮に母が我が家の墓へ父を悼みに訪れたとしたら、父親は私に対してそうしたように幽霊となった姿を彼女の前に晒し、そして彼女に直接謝罪をしたのであろうか。
――勿論、俺から直接謝罪があったとは母さんに伝える必要はない。
彼の口ぶりからすれば恐らくそれはないだろう。自身を一度は愛し、そして憎んで人生を別った女性と再び顔を合わせること程、男として恐怖を感じ、そして惨めな気持ちになることなどないということは妻子を得た私にとって想像に易かった。死んでもなお他人をいいように使い、罪償いと見せかけた自己中心的な後悔の吐露を、息子を通して為そうとする彼のやり口に苛立ちが募った。首に纏わりつく重い湿気がその苛立ちを助長した。
駅からほど近い場所にその喫茶店はあった。商業ビルに両隣から挟まれ肩を窄めるようにひっそりと佇む細いビルの正面には木製の扉が据え付けられており、扉には黒い色付きのガラス窓が張られいていた。ガラス窓から中を覗こうとしたが、店内は暗く、窓に反射した自分の目しか見ることができなかった。細長い取っ手をゆっくりと引き店内に入ると、細長く伸びたフロアの一番奥の席に母が座っていた。
「……待たせてごめん。久しぶり。」
母の正面の椅子を引きながらそう言うと、彼女は顔を上げ、私に優しく微笑みかけた。テーブルの上に目をやると、アイスコーヒーが入ったコップが二つ置かれていた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
数年振りに顔を合わせた母は、当たり前ではあるが以前よりも老けていた。薄暗い店内で微笑む彼女の目尻には、くっきりと刻まれた皺が浮かんでいた。もうそろそろ六十だもんな。そんなことを考えながらぼんやりと彼女の目尻を眺めていると、その微笑みが依然私の目に向けられていることに気が付き瞬時に目を背けた。
「それで、今日はどうしたの? 何か話したいことが有って来たんでしょ?」
正面に座る母に対して恥ずかしさのような感情を覚えると同時に、父からの頼み事を達成すべく母の元までやって来た自分の心情を理解できず、アイスコーヒーを一口飲んでポケットから取り出した煙草に火を着けた。吐き出した煙が茶色いレンガの壁の上に影を落とした。
煙草を根元まで吸い終える間、私は一言も話さなかった。いや、正確に言えば話せなかった。父に対して感じていた苛立ちや憎悪。真夏の太陽に照らされた黒いTシャツが熱を持ち、じりじりと肌を刺激するような感情が胸の中に蘇った。その感情を吐露してしまえば苦い思い出を再び母に味合わせることになることはわかっていた。わかってはいたが、胸の中に沸き上がった茶色い濁流のような感情を吐き出さずにはいられなかった。
「母さんはさ、俺の父親が死んだことは知っているよね。」
「うん、お姉ちゃんから聞いたよ。」
母はそう言うと、次の言葉を促すように黙って私の顔を見詰めた。私は言葉に詰まり、早々に二本目の煙草に火を着けた。
「――この前、姉ちゃんと会う機会があってさ。その時に聞かされたんだ。父親が死ぬ数週間前に『部屋のこと、ごめんな。』って俺に伝えてくれって言ってたってさ。」
母は私の言葉に頷きながらも、話の筋を読めずに困惑の表情を浮かべていた。それと同時に私もどのようにしてこの話を纏め上げようかと脳みそを全力で回転させていた。
「お母さんが出ていく少し前、俺が小三になったばかりの頃、お母さんに自分の部屋が欲しいって言ってたこと、覚えてない?」
煙草の先からゆらゆらと上がる煙から母に視線を移すと、彼女は眉間に皺を寄せながら目を閉じていた。
「もう随分前のことだから覚えていなくても不思議じゃないよ。」
私は片側の頬を上げて鼻で笑い、話を続けた。
「それでさ、父親にも自分の部屋が欲しいって言っていたんだよ。ある日、父親と二人で夕飯の買い物に出かけた時のことなんだけど、買い物中に父親に部屋が欲しいって言ったんだ。数日間か数週間かは覚えてはいないけど、何度も繰り返し同じことを言われ続けてあの人もイラついていたんだろうね。スーパーの中で思いっきり殴られたんだ。実際に思いっきり殴ったのかはわからないけどさ、体が吹っ飛んだのはよく覚えてる。でもそんな時にも案外冷静でさ、周りを行き交う人達が気の毒そうに俺のことを見ながら通り過ぎて行く姿を見て、なんだか無性に恥ずかしい気持ちになったのを覚えているんだ。」
母は黙っていた。私は煙草の火を灰皿に押し付けて揉み消した。
「……恥ずかしいって感じたのは事実だけど、やっぱり怖かった。多分、あの人はその時のことを謝っていたんだろうね。」
母はテーブルの上に置いた私の煙草の箱に手を伸ばし、器用な手付きで煙草を一本取り出し、先端に火を着けた。
「久々に吸っちゃった。」
口から細い煙を吐き出し、微笑みながら母はそう言った。
「そういうことだったんだね。秀司がなんで突然連絡をくれたのか、わかったよ。あなたが十九歳の時に突然実家を飛び出していったってお姉ちゃんから聞いて、ああ、やっぱりなって思ったのを覚えてる。秀司は私と似ているからね。」
煙草のフィルターを咥える母の目は、明るい声色とは対照的に青白い光を放つ月のように、汗をかいたコップの上を漂っていた。
「その後も大学に通いながら、生活費も学費も全部一人で何とか賄っていたってこともお姉ちゃんから聞いていたよ。」
母は灰皿の上に煙草を置き、アイスコーヒーを口に含んだ。
「……お母さん。俺は、お母さんが居なくなってから、なんというか……お母さんに裏切られたんだって思うことが今までの人生の中で何度もあったんだ。でもさ、今になって思うんだけどね、あんな人と生活をするなんて普通の人には耐えられないよね。お母さんが逃げ出したくなったのもわかるよ。多分あの人はなんだって自分の手元に置いて、そして自分の思い通りに動かさないと気が済まない人だったんだね。お母さんが居なくなってしまった理由ははっきりとは聞いたことが無かったけど、お母さんもあの人からそういう扱いを受けていたんだと思う。」
私は自分が発した言葉の中に、今日こうして母と会うことを決意した理由が内包されていることに気付き、暫しの間、言葉を失った。母は私の様子に気付いたようで、灰皿の上に置いた煙草を手に取り、唇に咥えたフィルターからゆっくりと煙を吸った。
「――あの人は俺に向けて謝った。でも、本当に謝らなければならないのは一番傷付けられたであろうお母さんに対してだと思う。だから……代わりにはなってしまうけど、俺から謝るよ。」
父から同じ扱いを受けていた母と私。父の代わりに母に謝罪をしたはずだったが、その言葉は強風の吹き荒れる中で煙草に火を着けるような、そんなもどかしさを含んでいるような気がした。
「そうだね。確かに私もあの人から色々と傷つくことをされてきたよ。あなた達子どものことは心から愛していたし、それは今でも変わらない。どんなにつらいことがあったとしても、絶対に守ってあげよう。あなた達が生まれた時、そう誓った。でもね、その誓いを以ってしてもあの時は逃げ出すしかなかった。限界だった。だから、随分遅くなってしまったけど私からも謝らせて。あなた達のことを守ってあげられなくて、寂しい思いばかりさせてしまってごめんね。」
コップの中に浮かぶ氷は小さく溶け、コーヒーの上を透明の水の層が覆っていた。
「でも、一つだけあの人に感謝していることがあるの。あの人は確かに強情で、自分勝手で、暴力的な人だったけど、必死で働いてあなた達を学校に行かせて、立派な大人に育て上げてくれた。」
予期せぬ母の言葉になぜか安堵を覚え、水とコーヒーが混ざり合わないようにそっとストローを吸った。
「――ねえ、秀司。秀司がこうやって立派に働いて、優しいお嫁さんを貰って、可愛い子どもに恵まれて、私はとっても嬉しいし、あなたのことを自慢の息子だと思っているよ。こうやってあなたが強く生きてくれているのだって、あの人が不器用ながらも全力を尽くしてくれたからなんだって、それだけはわかってあげてね。」
母の言葉に違和感を覚えた。というのも私は妻と息子を母に会わせることは愚か、写真さえ送ったことが無かったからだ。湿ったコースターの上にコップを置き母の目を見た。真っ直ぐに私を見つめる瞳を見て、なぜ母が私の妻と息子のことを見たことがあるかのような口ぶりで話をしているのかが何となくわかった。
喫茶店から出ると雨がぱらついていた。廂の下で扉を押さえつつ生ぬるい雨を眺めていると、店内から出てきた母が隣に並び横目に私の顔を見上げた。
「ねえ、秀司。お姉ちゃんには黙っててね。」
母はミントグリーンに白を足したような淡い緑色のショルダーバッグに財布をしまい、傘を開きながら言った。
「母親にとってね、息子って娘とは違った可愛さがあってね。正直な所、あなた達が子どもの頃から、ああ、男の子の方が可愛いな、って思うことが時々あったんだ。ほら、女の子って小さい時から”女性”だからさ。なんというか、自分と同列に感じることがあって気が抜けないことがあるんだよね。」
母は腕を真っ直ぐに伸ばし、私の頭の上に開いた傘をかざした。
「でもね、男の子はやんちゃで手は掛るし、転んで怪我をしてしまわないかなんていつでも心配をしてしまうんだけど、なんかこう……真っ直ぐな可愛さがあってね、一緒に居ると素直に楽しいなって思えるんだ。なんて言えばいいのかな――」
何も言わずに母の手から傘を取り頭上にかざすと、母はにっこりと笑いながら駅に向かって歩き始めた。
「――小さい恋人、って感じかな。」
母の隣を歩くのなんていつ振りだろうか。年を取り少し背の縮んだ母が、なんとなく大きく見えた気がした。
「秀司、今日は真っ直ぐ家に帰るの?」
「うん。昨日今日と出掛けっぱなしだったし、今夜は早めに帰って息子とラーメンでも食べに行こうかな。」
私はソファに座る息子の横顔を思い出しながら答えた。真っ直ぐ前を見ながら歩いていたが、母が私の顔を見て優しく微笑んでいることが何となくわかった。
駅に着き傘を閉じてから降っていた雨が既に止み、雲の隙間から太陽が顔を出していたことに気付いた。
「じゃあ、気を付けて帰りなね。」
体の前で小さく手を振る母に少々の恥ずかしさを感じたが、私ははにかみながらもうっすらと笑顔を浮かべて改札を通り抜けていたのかもしれない。
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