死んだ父からの頼み事
閃光
前編
――墓参りに行ったら、父親の幽霊が居た。
紫陽花の咲き始める季節だった。私は一族の墓の面倒を見てもらっている寺に向けて車を走らせていた。
父が死んだとの知らせを受けてから二、三年は経っていたと思う。ある晩、仕事から帰り妻の作った夕飯を一人で食べていると、テーブルの上の携帯電話が鳴った。数カ月に一度連絡があるかないかと言った程度の付き合いしかない姉からの電話だった。食事の手を止めソファで寛ぐ妻と息子にちらっと目をやり、携帯電話を片手にドアを開けて暗い廊下に出た。
「もしもし、久しぶり。遅い時間にごめんね。」
電話の向こうの姉の声は妙に落ち着いていながらも、風呂上がりの濡れた髪を乾かし終え、顔に保湿パックを貼り付けつつ会話をしているかのような生々しい生活感がどことなく伝わって来た。
「いや、大丈夫。久しぶりだな。突然どうした?」
夜間に掛かってくる電話などろくな要件ではない。私はそれまでの人生で体験してきた数々のトラブル達を思い返しながら面倒臭そうにそう問いかけた。
「実はね、さっきお父さんが死んだの。」
姉の声は依然落ち着いたままだった。私はなぜ姉が取り乱しもせずに新聞記事を音読するかのような無機質な声で父の死を告げることができるのか、その理由を知っていた。
「――そうか。それは、なんと言えばいいかわからないが……。その、残念だな。」
暫くの間、電話口からは何も聞こえてこなかった。私は冷静だった。私が姉の声に対して思っていたことを、姉もまた私の声から感じ取っていたのかもしれない。
「……お通夜、出てくれる?」
「申し訳無いけど、明日は仕事を休めないんだ。本来なら俺が喪主をやることになるのかな。面倒掛けて悪いけど、俺の代わりに頼んだよ。」
長男である私は本来であれば父親の死に関する一連の雑事を取り仕切るべきであることも、そしていずれその時がやってくることも理解していた。しかし予想よりも早く訪れた”その時”は、私の中の消化しきれぬある想いによって、私から拒絶以外の行動を悉く取り上げてしまった。
葬儀が済んだ暫くの後に姉と顔を合わせる機会があった。姉の話によれば長男が不在の葬儀に参列者達は疑問を抱き、喪主である姉は多方面からなぜ私が出席していないのかと嫌という程質問攻めにされたとのことだ。姉はその話をしている最中、私を責めるような素振りを一切見せなかった。私はそんな姉の態度に、葬儀に出なかったことを少々後悔した。その時、姉に言われた言葉が今でも鮮明に脳裏に蘇ることがある。
「お父さん、死ぬ直前まであんたに会いたいって言ってたんだってさ。」
――それももう二、三年前の話だ。
私の愛車は修辞的に長旅との意味で使われることのある叙事詩の題名から名前を取った車種だ。確かに私が父の死を悼みに一族の墓を訪れようとするまでに掛けた年月を考えれば、この車で寺に向かうことは些か御誂え向きなのかもしれない。そんなことを考えながら、幼い頃に父が運転する車で何度となく通った片側二車線の国道を行った。
幼い頃によく見た風景はどことなく異世界を思い起こさせるような違和感を私に与えた。それは恐らく長い間故郷に帰ることなく生活を送る間に街並みが変化したことに起因するのであろうが、それだけが違和感の帰納先ではないということを何となく感じていた。東京方面から北上する車内から左手の空を見ると、真っ赤な夕日が浮かんでいた。
間もなく寺に着いた。国道から脇道に入り数分の所にその寺はある。寺門の横の荒い砂利が敷かれた駐車場に車を停めた。砂利の上に足を下ろすと、足の裏にゴツゴツとした小石の感覚が伝わって来た。ああ、そういえば墓参りに来るってこんな感じだったな。石の感触と寺門の先に満たされたある種異様な静けさに幼い日の記憶がうっすらと蘇った。
「墓参りの後は毎回、必ずあの蕎麦屋で昼飯を食って帰ったっけな。」
ぼそりと独り言を漏らし、道路を挟んだ向かいにある古びた蕎麦屋を眺めた。黙ったまま美味そうに蕎麦を啜る父親。息の詰まるような笑顔で祖父母と談笑する母親。そんな光景を思い返していると、寺の方から鐘を打つ音が聞こえてきた。沈みかけた夕日に赤紫色に染められた空。その上に取って付けられたように響く鐘の音は、その場に似つかわしくない存在として浮き上がってしまったかのような孤独を感じさせた。どう形容すればいいのであろうか。点と点を結んだ線が直線にならないような、はたまた鏡に映った逆さ文字を読むような、そんなもどかしさのようなものを感じる音色だった。
寺門を潜り、講堂の横から細く伸びる路地のような道の先にひっそりと佇む墓地へと向かった。夕闇に覆われかけた墓地は物悲しい雰囲気に包まれていた。この墓石の下に眠る人々の果たして何人がこの世に未練を残さずに旅立って行ったのだろうか。私は姉の言葉を思い出しながら、遠い日の記憶を頼りに一族の墓を探した。
我が家の墓は昔見たままの姿でそこに突っ立っていた。最後にこの墓石を見たのが中学生の頃だったからだろうか、当時よりもその墓石は小さく見えた。
「――おい、秀司。」
墓石の裏から姿を現し、私の名を呼んだのは父親の幽霊だった。私は特に驚かなかった。ああ、幽霊って本当に存在したんだな。そんなことを考えながら、ひょっこりと姿を現した父親の幽霊をぼんやりと眺めていた。
「お前、なんか言ったらどうなんだ。久々に会ったっていうのに。」
父親の幽霊は不機嫌そうに言うと、芝台から地面に飛び降り私の横に並んだ。
「元気そうだな。安心したよ。」
父は私の横顔を見てうっすらとした笑みをこぼした。幽霊と言えば普通なら足の無い姿を想像するものだが、彼の胴体からはしっかりと脚が二本生えていた。脚が生えていたというより、街中に現れたら生者と見分けがつかない程、異様と言ってもいい程に普通の姿をしている。
「あんたこそ、死んでいるのに元気そうだな。」
私はそう言うと言葉に詰まり、ポケットから取り出した煙草に火を着けた。
「まあ元気じゃないから死んだんだけどな。今は元気と言えば元気なのかな。特に体も痛まないし、息が苦しいわけでもないしな。それより秀司、お前、煙草を吸うようになったのか?」
父の声はどこか弾むような雰囲気を醸し出していた。恐らく私がズボンのポケットから取り出した煙草が、父が生前に吸っていたものと同じ銘柄だったからだろう。それにしても、父が私の煙草を吸う姿を見て嬉しそうにするなど意外であった。姉から聞いた話によれば彼は肺癌で死んだらしい。息子が自分の死因に直結する因子を体に取り込むさまを見て喜ぶ親がどこに居ようか。私は左に立つ父を横目に首を右に回して煙を吐き出した。
「久々に煙草が吸いたいな。秀司、煙草に火を着けてその香炉の中に置いてくれないか?」
私は父の言葉に黙って従い、ジッポの火で先を炙った煙草を香炉の中に置いた。すると父は大きく胸を膨らませ、美味そうに煙を吐き出した。
「よくわからないが香炉に置かれた煙草は手に持たなくても吸えるみたいだな。」
あっけらかんとした表情で話す父の言葉に、特に興味も示すことなく私は煙草を吸い続け、吸殻を携帯灰皿の中に放り込んだ。
「じゃあ、そろそろ行くぞ。早い所成仏しろよ。」
私は左に立つ父を避けて講堂の方へと歩き出した。
「ちょっと待て、秀司! 長年ここで待っていたんだ。俺の頼みをいくつか聞いてくれないか?」
父は立ち去る私を呼び止めた。彼の声色からは、はっきりとした焦りが感じられた。
父に頼み事をされることなど今までの人生であっただろうか? 私の父はお世辞にもできた人間と言える人物ではなかった。彼から頼み事をされたことなどない。彼からされたのはいつだって命令だけであった。高圧的な態度で私にとって理不尽ともとれる命令を幾度となく言い渡されてきた。幼い私にとって身長が180cmを超える男から不機嫌になされる命令は恐怖の対象でしかなく、それが正しいか正しくないかはさておき、繰り出される拳を想像し無思考にそれに従うしか自身を守る術がなかった。
しかし私が19歳になる頃には、彼に対する恐怖は疑念へと変わっていた。その疑念を感じてから私が実家を去るまでにさして時間は掛らなかった。それが私が父と袂を別つことになった切っ掛けであった。
「秀司、お前、俺が死んでから三日目の火葬まで一切関わらなかっただろ。その時の償いだと思ってどうか頼まれてくれないか?」
父がここまで必死に何かに縋りつく姿を見るのは初めてだった。葬儀のことを引き合いに出された私は、姉に苦労を掛けたことを思い出し、彼女への罪償いのつもりで父の頼み事というヤツをとりあえず聞くだけ聞いてみることにし、墓石の前まで戻った。
「ありがとう。待っていた甲斐があった。」
父はそう言うと芝台の上に腰かけた。
「それで、頼み事って何なんだよ。」
私は二本目の煙草に火を着けた。
「実はな……頼み事は三つあるんだ。」
父は体の前で手を組み話し始めた。
「その一つ目なんだが。――俺の代わりに母さんに謝って来て欲しいんだ。」
私は父のその言葉を聞き、胸に沸き上がる怒りを感じた。なぜ今更、母親に謝ろうなんて考えるんだ? 母は父と別れてからそれなりに幸せな生活を送っている。再婚した旦那はとても人柄が良く、生き別れた息子である私と初めて対面して以来、私のことを弟のように可愛がってくれている。その幸せな彼女の人生に今更水を注そうとする父の言葉に嫌悪さえ覚えた。
「死ぬと色々と便利な力が使えるようになるんだ。お前が考えていることも何となくわかる。勿論、俺から直接謝罪があったとは母さんに伝える必要はない。そうだな……。上手いこと俺が母さんに悪いことをしたと思って”いた”ということだけ伝えてくれないか?」
上手いことってなんだよ。正直な所、母には父のことなど思い出して欲しくなかった。なぜなら私自身が実家を去ってから父のことを思い出したいなどと思ったことが一度たりともなかったからだ。私は煙草を地面に投げ捨て火を踏み消し、再び講堂に向かって歩き出した。
「秀司!お前は今日、なぜこの場所に来てくれたんだ?」
私は彼の問いかけに答えずに墓地を後にした。
車に乗り込み国道を東京方面に走らせた。
――なぜ俺は墓に行こうと思ったのだろう。
自分でもその理由がわからなかった。辺りはすっかり暗くなり、遠くを走る先行車のブレーキランプがやけにくっきりと暗闇に浮かんで見えた。空は薄い雲に覆われていた。
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