きょうも誰かの誕生日
高梨來
第1話
すっかり通いなれたつもりでいた恋人の部屋を彩る見慣れない色彩を前に、僕は思わず、不器用なまばたきを繰り返す。
どことなく鶏のとさかを思い起こさせるかのような鮮やかな赤いフリルがたなびく花びらをもつ花たちが真っ直ぐに伸びた茎の上で縦に連なるようにしてめいめいに咲き誇るその姿は、眩しいほどに力強い。
まるで、地上に引き上げられても尚、鮮やかな尾びれを翻すようにして悠々と泳ぐ姿を見せてくれる熱帯魚のようだ。
「どうしたの、これ」もらったの? と続くはずだった問いかけを塞ぐように、柔らかな言葉は落とされる。
「誕生日の花っていうのがあるんだって、教えてもらって」
たどるようにそっと、しなやかな指先を悠然と咲く花々へと伸ばしながら恋人は答える。
「帰りに花屋に寄って選んだんだ。きょうの誕生日の花を。いくつかあるみたいだから、いちばん好みのものを選んだらそれだったんだ」
ぱちり、とゆっくりのまばたきを落としたのち、彼は尋ねる。
「ねえ、どんな花なのか教えてくれる?」
「……そんなこと言われたって」
照れ臭さを隠せずにぎこちなく答えれば、滑らかな指先は、捕らえるようにやわらかな手つきでこちらへと差しのばされる。
「僕には見えないから、君の言葉で教えてほしくって」
光を宿さない瞳のその奥で、かすかに滲んだあまやかな色が幾重にも交差する。
「ええと、」
こっくりと深い焦げ茶のダイニングテーブルの上、ごくごくシンプルなガラス製の細く滑らかな花瓶からすらりとその姿を現した花々を前に、深く息をのむようにして僕は答える。
「あざやかな赤い花の中心に向かって白く染まって、真ん中は黄色。下側の花びらは白地に赤いインクを落としたようなグラデーション。薄い花びらは繊細なカーブを描いていて、踊り子のスカートの裾のようにも、熱帯魚の尾ひれのようにも見える。そんな花たちがびっしり折り重なるみたいに連なってまっすぐに伸びた濃い緑の茎と葉の上で踊っていて――まるで、妖精たちが集会でも開いているかのようににぎやかに見えるよ。ごめんね、こんな説明でわかる?」
しどろもどろになりながらどうにか答え終えれば、確かめるような手つきで花びらの形を確かめていた指先はぴたりと止まり、しどけない笑みが花びらのようにはらりと音もなく落とされる。
「……君に聞いてよかった、ほんとうに」
にっこりとまぶたを細めるようにしながら、優しい言葉は続く。
「花屋で聞いた時とはやっぱり違うから。僕の中にこの花の新しい命が吹き込まれたみたいだよ」
「……そうなんだ」
照れ臭さを隠せず、思わずぼうっと頬が熱くなる――見られていないことが、まだしもの救いだ。
「プロになんて叶うわけないのに」
「君の言葉や感性は君だけのものだよ。それはとてもすてきなことなのに」
答えながら、滑らかな手のひらはすっかり手慣れたようすでかすかにのぼせた頬や耳に触れる。
「そんなに照れないでいいのに」
「逆効果だよ」
身を委ねるようにまぶたを細めながら、どこもかしこも彫像のように滑らかなつめたい指先にうっとりと身を委ねるようにすれば、ささやき声のようなやわらかな響きは、たちまちにひたひたとこの身を満たす。
「金魚草、別名はスナップドラゴン。細やかなフリルを広げた花びらのようすからそう名付けられたんだって。色はいくつもあるみたいだけれど、由来になった金魚にいちばん近い色を教えてもらったら赤だっていうからそれにしたんだ」
濃い緑の茎とまっすぐにすらりと伸びた葉はなるほど、水草のあいだをゆらりゆらりと泳ぐぽってりとまあるい金魚によく似ている。
「金魚っていうのはこんなふうなの?」
子どものように無邪気に投げかけられる言葉を前に、にっこりと不器用に笑いかけながら僕は答える。
「言われてみるとほんとうだなって思うくらいには」
「すてきだね」
あたたかなささやき声に、ふわりと浮かび上がる心はたちまちに縫いとめられる。
「ねえ」
肌の上をつたうように触れる指先に自らのそれをそっと重ね合わせるようにしながら、僕は尋ねる。
「どうして誕生日の花を?」
きょうこの日は彼の誕生日でもなければ、僕やほかの親しい誰かの誕生日でもないはずなのに。
「なんて言えばいいんだろうな、難しいんだけれど」
さわり、と耳にかかった髪をそっと掬うようにしながら、彼は答える。
「毎日がいつだって誰かの誕生日なのは確かでしょう? きょうこの瞬間にだってまた新しい命がどこかで生まれているのかも知れなくて。だったらその誰かを思って花を買うだなんてことをしてもいいのかなって。君のものでも僕のものでもない、どこかにいる誰かのための花をね」
「……君には敵わないや」
ぽつりと雫のように落とした言葉を前に、形の良い唇を滑らかにカーブさせた満足げな笑みが返される。
「ねえ、乾杯でもしようよ」
「どこかの誰かさんのために? 炭酸水でも構わなければ」
「いいよ、もちろん。すこしキッチンを借りても構わない?」
「ああ、もちろん」
ハッピーバースデー、この世界のどこかにいるはずの誰かに。そして、いまこの瞬間にも生まれ来る君に。
心の中でだけささやきながら、その場を立ち上がる。
橙の淡い暗がりの中、視界の隅にはひらひらとあざやかな金魚が過ぎる。
「あれ、」
いつものようにポストに投函された手紙を整理していた折、ふと一枚の葉書に目が止まる。
「なにかおかしなものでも届いていた?」
こちらのようすを伺うまなざしを前に、指先でそっと持ち上げるように葉書を手に取りながら、僕は答える。
「いや、だれかほかの人宛の葉書が間違って届いているみたいで」
遠い異国の消印が捺された絵葉書に記された宛名は癖のある筆致の上にすこし滲んでいて、読み間違えられてしまったのも致し方あるまい。番地を確認すれば、すぐそばだ。
――見てもいいのだろうか、果たして。罪悪感めいた気持ちに襲われながら、それでも封書ではないのだから、と言い訳を連ねるようにして恐る恐ると宛名の裏面を確認する。
「……あぁ、」
思わずあげた声に、こちらを伺うまなざしの奥に宿る揺らいだ色はますます深まる。
「どうしたの、もしかして不幸の手紙だったりして?」
冗談めかした口ぶりで告げられる言葉を遮るように、明るく笑いながら僕は答える。
「その逆だよ」
ハッピーバースデー
君の人生に幸多からんことを心より祈ります
7月10日
金色のインクでカリグラフィー風に印刷されたメッセージの下には手書きの短い祝いの言葉(これは読み上げないでおこう、プライバシーに関わることだし)、葡萄色のインクで描かれた日付を告げると、ぱちぱち、としばたかれたまなざしの奥で鈍い光が宿る。
「きょうじゃない」
「……そうなんだよね」
送り主と届け先の当人との関係性までは伺い知ることが出来ないけれど、おそらくはそれ相応の特別な関係性であることだけは確かだ。
悲しんでいるに違いないはずだ、きっと。大切な手紙が、届くべき日にこんなふうに縁もゆかりもない別の誰かに届いているのだから。
「困ったね、調べればすぐにわかるかな? きょうは……もう遅いよね。明日で構わないかな?」
「仕方ないよ、こんな夜更けに来られたらきっと向こうだって迷惑するでしょう? 遅れてしまったのは申し訳ないけれど」
どこかですれ違っていたのかもしれない『誰か』の誕生日を気まぐれに祝うことにしたこの日に、その『誰か』に宛てた手紙が舞い込むだなんて――こんな偶然、果たしてそうあるものだろうか。
「困っちゃったね」
「……まああるよね、たまには」
答えながら、すこしぬるくなった炭酸水のグラスにそっと唇を押し付けるようにする。
「ねえ、君」
薄くくぐもった瞳を揺らしながら、彼はささやく。
「この手紙を届けるのに付き合ってもらうことは出来る?」
「勿論だけれど」
静かに答えれば、やわらかに花開くような言葉は続く。
「じゃあ、その前にいっしょに花屋に寄ってもらうことは?」
「……いいけれど」
ためらいながら答えれば、得意げな口ぶりでの言葉がそこに覆いかぶさる。
「誕生日の花を渡したいんだ、その人に。そのくらいさせてもらってもいいかなって思って。届くはずのメッセージを先に読んでしまったんだからね。せめてもの埋め合わせにお祝いくらいさせてもらいたいじゃない」
「申し分ない提案だと思うよ」
あまりにも君らしくってなんてすてきだろう、としか言えないほどの。
「失礼がないようにしないとね」
「君なら大丈夫だよ」
「ほんとうに?」
くすくすと笑い合いながら、華やかなフリルを揺らす、色鮮やかな赤い花をぼうっと眺める。
ハッピーバースデートゥーユー。遅れてしまうけれどあなたの想いはきっと届けます、だから安心して 。
すこし斜めに歪んだ手紙の文字を見つめながら、かすかなため息をそうっと零す。
「ねえ、もう一度乾杯しない?」
揺らいだまなざしをじいっと見つめながら、僕は尋ねる。
「もちろんだよ」
答え終わるのと同時に、滑らかな指先は雫をまとったグラスにそっと絡められる。
ハッピーバースデー、明日には会えるのかもしれないまだ見ぬあなたへ
グラスとグラスのぶつかりあう鈍い音が、ありふれた夜のしじまを彩る。
きょうも誰かの誕生日 高梨來 @raixxx_3am
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