後編 side.ランス
此度の夜会にて反逆者を一掃する。
国王陛下よりそう通達を受けて、この夜会で何が起こるのかと参加者たちは皆、緊張していた。しかしそれを悟らせないよう振る舞うのは貴族として当たり前のことであり、この中に反逆者が紛れているのだと理解していてもその好奇心と恐怖の感情を周囲に読み取らせないことも爵位を継ぐにあたり基本中の基本である。よって誰が反逆者で誰がきちんと通達を受けた協力者かは定かではない。逆に反逆者もそれを周囲から読み取ることは不可能に近く、いつ何が己の身に起こるかなど知る由もないだろう。
それはランスも例外ではなく、今夜は危険に満ちた夜会ということで身構えていた。王族の入場までは、だが。
陛下と王妃、そして王子と王女の名が会場に響き、扉が開くとその王族の後方から現れた人物にランスは息を呑む。王城でよく見かけるこの国の近衛騎士の衣装に身を包み、きりりとした目元と固く結ぶ口元で真剣な表情を作る、よく見知った女性。長かった髪はどこへやら。肩よりも上で切りそろえた輝く金の髪が歩く振動でかすかに揺れる。隙なく周囲を探り王族の行動に注視する姿はまさに近衛に相応しいといえ、その姿に感嘆の息を漏らすと同時に、見知らぬ人間のようで一気に彼女を遠く感じた。
陛下たちが目の前を過ぎるまで臣下の礼を続け、彼らが通り過ぎてしばらくして顔を上げると王族に付き従うキルシェの背を眺めていた。
一体どういうことだ、なぜ彼女が近衛の衣装を着て王族に付き従っているのだ。様々な疑問が湧き出てくるが、それを問い質したい本人はもう手の届かない場所に行ってしまったようで、ランスは唇を噛む。
すると背後からご婦人方のうっとりとした声が聞こえ、ランスは無意識に耳をすませた。
「キース様、
「キース様は王女殿下の専属護衛ということで王城でもよくお二人で並ぶ姿をお見掛けしましたが、絵画のようでとてもお美しく、いつまでも見つめていたいと思いましたわ」
「まさに物語に出てくる王子様とお姫様のようでしたわね。ああ、キース様が女性ということが勿体なく感じてしまいますわ」
『キース』という名前は王城に出仕する際、よく耳にした名前だった。王女殿下専属の近衛騎士ということも知っている。しかし、まさかそれがキルシェのことだったとは予想だにしなかったランスは、茫然と彼女の背中を見送った。
「俺は、何も知らなかったのか……」
彼女が何を好きで、何をしたら喜ぶのか、何を思っているか、何の仕事をしているのか。何も、知らなかった。ランスの記憶は幼いキルシェの趣味嗜好で止まっている。貴族の女性は普通、邸の采配をし、お茶会を開き人脈を作ったり周囲の情報を得たりすることが主なため、キルシェもそうなのだろうと勝手に思い込んでいたランスは、すべてにおいて後悔した。
最愛のミリアムは兄と結婚した。それは昔から決まっていたことで、ランス自身も気持ちを告げる気は皆無だった。そしてミリアムへの想いを大切にしたいがために、身近にいた妹のような存在のキルシェと結婚し、彼女の気持ちは蔑ろにした。妻となったキルシェが何も言わないのを良いことに好き勝手に生きてきた。いや、一番最初に何も言わないよう釘を刺してしまった。そして彼女を顧みることなく、ミリアムを想い続けたランス。
その結果が、此度の離縁届けが同封された手紙だった。家令にそれを渡された際、同じ邸に住んでいながらなぜ文通など、と呆れて溜息を吐いたランスだったが、家令の一言で慌てて中を改めるに至った。
「旦那様。奥様はもう、こちらにお戻りになることはないでしょう」
手紙を読み、キルシェのサインの入った離縁届けを目にして茫然とした。そして寂し気に眉を下げた家令の「旦那様、奥様はすべてご理解した上で、最後までずっと待っておりましたよ」と告げると、ランスをその場に残し仕事へと戻って行った。どうやら家令もこれまでのキルシェに対するランスのやり方が腹に据えかねていたのだろう。
本当に、彼女が帰ってくることは一度たりともなかった。邸内の雰囲気が目に見えて暗くなり、使用人のキルシェに対する好意が手に取るようにわかった日々。そして自分自身、邸内にあるキルシェの存在に安堵していた事実に気付かされた。この二週間、キルシェのことを考える時間が格段に増えていた。
ランスは夜会中にも関わらず気もそぞろに、王族の後ろに控える近衛騎士の制服を着こなしたキルシェへと度々視線を流していた。先ほど陛下方のもとへ挨拶に赴いた際、背景と化しているキルシェがこちらを見てくれないものかと、己の存在に気付いてくれないかとさりげなさを装って見つめていると、一瞬だけ彼女と視線が合い心臓が跳ねた。出て行きはしたものの、彼女もやはり己を気にかけているのだと嬉しさがこみ上げてきたが、それは刹那に崩れ去った。確かに目が合ったはずなのに、彼女の表情は一切動かずランスを一瞥しただけで他へとその視線は流れてしまった。
無表情。それはランスが彼女と最後に会話をし、衝動的に紡いだ言葉で彼女を傷つけ、不意に表情が消え去り一筋の涙が零れた瞬間の、あの時の表情と同一のものだった。
もう己のことを全く気にかけてなどいないのだと状況を把握したランスは、胸が苦しくなり、喉の奥がズキリと痛んだ。
それでも再びこちらを見てくれるのではと、どうしようもない期待は消えてくれず、ちらちらと彼女へと視線を向けてしまう。しかしキルシェはその敵意のないさりげない視線に全く気付かない。いや、もしかしたら気付いているのかもしれないが、今宵の夜会では寸分の油断もままならないほど重要なもの。仕事に集中しているキルシェはこちらを気にする暇など皆無だろう。どの道、見切りをつけたキルシェから、ランスへ関心は向けられることはない。
無表情に周囲を警戒し、護衛対象の王族に話しかけられた時だけ微笑みと返事を返す。仲が良く信頼している人間以外には滅多に見られないその騎士の本心からの柔らかい笑みに釘付けになる者は随分と多かった。
そういえばと、ランスは婚約時に久方ぶりに再会した際のことをふと思い出す。昔はよく笑っていたのに、久しぶりに会った幼馴染は常に笑みを浮かべてはいるものの、それは作り物だと分かるもので。感情を表に出さなくなったという変わりようだった。それに驚きはしたものの、あまり気にすることもなく過ごしてしまったことを今更悔やむ。当時から既に溝はあったのだと知った。
しかし本日。夫であるはずの自身でさえ婚約以来ほとんど皆無と言って良いほど見たことのない彼女の本物の笑顔を目の当たりにし、ランスは眉根を寄せてその姿から視線を外す。彼女はいつから笑っていなかっただろうか、と記憶を辿るも、幼少期を除外すればやはり笑顔とも言えない貼り付けたような固い表情の笑みしか思い出せない。
王女のみならず陛下や王妃、果ては王子までが彼女に優し気な表情を向け、キルシェ自身も心を開いているような安心しきった柔らかい笑みを浮かべていることから、近衛に就いて長く、彼らの信頼を勝ち得ていることが窺い知れる。
「一体いつから近衛の仕事を……」
「結婚して一年……いや、婚約期間が二年もありながら、キルシェのこと何も知らないんだな、お前は」
共にいた実兄エリオットに呆れたように言われ、苦々しい表情を浮かべるランスを、エリオットの妻であるミリアムが更に追い討ちをかける。
「多分、貴方より私とエリオットの方がキルシェのこと詳しいと思うわ。離縁を叩きつけられて当たり前のことをしたのよ、ランスは。キルシェが可哀想でなりません。何度でも言わせてもらうけどね、一年以上も……いいえ、これまでの人生、キルシェはたった一人で心細かったでしょうね。二人の結婚後、貴方の行動に私たちは何度も忠告していたのに。この結果は貴方の自業自得ですからね。私たちはいつだってキルシェの味方よ」
「たった一人って……どういうことだ、
意味の分からないことを言い始めたミリアムに、ランスは眉を寄せて問いかける。キルシェは家族に愛されていたではないか。邸でしっかりと守られ、多少お転婆で怪我も絶えなかったが、すくすくと成長していたじゃないか。記憶を頼りにそう告げると、ミリアムは耳を疑ったらしく瞠目し、すぐさま取り繕うように瞼を伏せ小さく笑みを溢す。それはとても悲哀に満ちた笑みだった。
「家族、ね。ええ、いたわ。血の繋がった家族が。家族と呼んで良いものか悩むけれど。……本当に表面上しか見てこなかったのね、貴方。どれだけキルシェを傷つければ気が済むのかしら。彼女は幼い頃から笑顔の裏で助けを叫んでいたわ。私もエリオットも出来る限りあの子の傍にいたけれど、それだって限界がある。本当の意味で守ることが出来るのは、あの子をあの家から連れ出すことが可能な『結婚相手』だけだったのに……たった一つの救いを、貴方はキルシェに『絶望』という形で突きつけたの。お分かり? 貴方、あの子を殺したも同然よ」
「そんな大袈裟な……たかが政略結婚ごときで『殺した』だなど……」
「たかが、ですって? そう……そこまで言うなら、キルシェのことをしっかりと調べてみなさいな。こんな夫をもって、キルシェが不憫でなりませんね。まぁ、離縁してしまえば赤の他人になるけれど」
最愛であるはずのミリアムに叱責され苦虫を噛み潰したような顔をしたランスは「わかっている」と口を尖らせて返事をすると、その話題から逃げるように再びキルシェへと視線を向ける。
そう、ミリアムが一番だったはずなのだ。これまでも、これからも。しかしここ数日で、ランスの気持ちは確かに揺らいでいた。
そこへミリアムによる、キルシェの過去に触れる話題。いつも無邪気に笑って元気に過ごしていた子だったはずだ。そう記憶している。助けを求めていたなどと言われても、にわかには信じられない。
しかし言われてみれば、やたらと生傷が絶えなかった。当時はドジな子なのだと思っていたが、そもそも前提が間違っていたのだろうか。家族に愛されていると思っていたが、彼女から両親について語られることも、両親から彼女に優しく声をかけている様子も見たことがない。邸から出されなかったのは家族から心配のあまり外出が許されないのだとずっと思っていた。
もしもそれがすべて、虚構なのだとしたら……。
これまでの自身の行動を顧みて、とんでもない仕打ちをキルシェに
「キルシェは、すべて知っているわ。貴方の感情もね。それでも貴方の傍に、と願ったの。彼女に誠意を見せることね。答えは貴方の中にすでにあるはずよ。しっかりと向き合いなさいな」
「私には今も昔もエリオットだけなの」とにっこりと乙女のような無邪気な笑みを浮かべたミリアムは、夫であるエリオットの腕に手を絡めてランスの元を去って行った。
ミリアムにたった今言われた言葉を脳内で反芻し、ようやっと理解したランスの心は嵐が吹き荒れているようだった。
つまり、ミリアムは、ランスの気持ちに気付いてたということだ。それも昔から。そう気付いたものの、振られたショックは然程なかった。それよりも、ランスのミリアムへの気持ちがキルシェに知られていた、さらにはその上で結婚を承諾したという事実に打ちのめされた気分だった。
キルシェはすべて分かった上で、ランスの手を取った。健気に伯爵夫人であろうと頑張っていた。しかし、それをランスは自身の言葉で突き放し、突き刺した。よりにもよって一番初めに「好きになることはない、これは政略結婚だ」と道を絶った。手を離したのは自分からだった。
そこで家令の言葉を思い出す。
『奥様は、ずっとお待ちしておりました』と彼は言った。それを信じるならば、冷たく突き放したにも関わらず、道が交わることを彼女は願い待っていてくれたのだ。それなのに自分はなんという過ちを犯してしまったのだろうと今ここで頭を抱えたい衝動に駆られたランスは、近くの給仕からグラスを受け取ると頭を抱える代わりにワインを一気に煽る。
離縁の書類はまだ提出していない。これは家令も知らないことだが、なんだかんだで毎夜寝る前に顔を見ていた彼女の姿が邸にないと落ち着かない。王族の傍に控える彼女を見ていると遠い存在のようで悲しくなる。同じように陛下たちの傍で控えている同僚であろう男と視線で会話する様子を見ると腹が立つ。
ああ、これは……この気持ちは……。俺はこれまで、どれだけキルシェに甘え、彼女を傷つけていたのだろうか。
ようやっと自身の気持ちを理解したランスは、王女を連れ立ってテラスへと移動を始めたキルシェを目で追った。
ふと、初めて彼女の涙を見た夜を思い出した。
『私を必要として下さるならば、あの方の
あの夜、彼女は月を見ながら寂し気にそう呟いた。必要とされれば誰の下へでも行くのかと、俺から離れ、俺の知らない人間の手を取るのかと、どす黒い感情が渦巻き、その衝動で思ってもいないことを口走ってしまった。挙句の果てに彼女を泣かせ……そこでふとランスは気付いた。
そう、彼女は言ったのだ、『私はミリアム姉様ではない。ミリアム姉様を愛し
私が邪魔なら結婚しなければ良かったのに。これまで一人だった。これからも一人で生きていける』と。
キルシェは、ランスにずっとミリアムと比べられていると思っていたのだ。彼にそんなつもりがなかったとしても、彼の不用意な発言がすべてそこに繋がってしまった。そして、キルシェはあの夜にランスを見限ったのだと、彼は察した。
ずっと孤独と戦っていたのに、気付くことも出来ず手を差し伸べるどころか振り払ってしまっていた自分を酷く嫌悪した。
「今からでも、間に合うだろうか……」
そう口にしたと同時に、キルシェが傍のご婦人を支えて一言二言の言葉を交わしたことを皮切りに、事態が動き出した。
テラスへと雪崩れ込むように剣戟を繰り返しながらキルシェたち近衛が移動した。キルシェは王女を守りながら攻撃を回避し、鮮やかに敵を制圧していく。何も危なげなく計画通りに事が進んでいる証か、数分で事態は鎮静した。暗殺者であろう者たちは殺される事なく捕縛され連行されて行く。会場から数名の貴族が消えていることから、きっと彼らも協力者だったのだろう。この騒動と共に捕らえられたようだ。
キルシェも無事に王女を守りきった安堵からか、微笑みを浮かべて王女に手を差し伸べる。しかし事態はまだ終わっていなかった。王女の背後に現れた貴族の男が手にしていたもの、それは鋭く光る短剣であり、明らかにその剣先は王女を狙っていた。咄嗟に王女の腕を引き前方へ躍り出たキルシェは、短剣を握る男との対峙の末、刺し違えた。
目の前で、妻が、刺されたのだ。
「——ッ!」
咄嗟に彼女の元へ走り寄ろうとしたが、当の彼女は痛みなど感じていないような素振りで、目の前の男の足に刺した己の剣を景気良く引き抜くと、今度はその男の仲間であろう人間が数名、男の捕縛の隙を突いて王女へと駆け寄ってきたのを確認すると難なく全てを排除した。
刺されたなどと思えないほどの華麗な剣捌きで、今度こそ完全にその場を鎮圧すると、同僚たちに短剣の男を渡し、男と共に出てきた共謀者たちも連れて行くように指示を出す。
そして、顔色ひとつ変えることなく殿下を見送り全てが終わった瞬間、ぐらりとその体が揺れた。
「キルシェ!」
叫んだ瞬間、周囲の音が消え、自分とキルシェだけの世界になったようだった。ゆっくりと妻の体が
その場に留まったことで徐々に足元に水溜りを作っていく鮮血。そこに膝をついた妻。そのまま地面へと吸い寄せられるように倒れる瞬間、ランスはキルシェを抱きとめることに間に合った。
「キルシェ、キルシェ! 目を開けてくれ、俺を置いて行くな! 頼むキルシェ……伝えたいことがたくさんあるんだ」
しかし固く閉じた目が開けられることはなく、出血が酷い彼女の顔はどんどん青白く血の気が失せていく。このまま目覚めないのでは、と考えた刹那、ランスの思考は停止し止めどなく溢れる涙もそのままにキルシェの血に塗れたその手で彼女を必死に掻き抱く。
「好きなんだ、愛してるんだ。やっと気付いたのに、俺の前からいなくならないでくれ……」
「ベルザー伯爵、キースの手当てを致しますので、彼女をこちらに預けてはいただけませんか」
悲壮な姿を見せるランスは背後から静かに声を掛けられ、その落ち着いた声音に少しばかり冷静さを取り戻し、キルシェを抱きしめたままひとつ問う。
「キルシェは助かるか」
「助けてみせます。彼女は強いですから、これぐらいで
確信しているような口ぶりに少しの安堵を見せ、ランスは妻を預けようと声の主に振り返り、その姿を確認すると瞠目した。
そこには先ほどキルシェと共に王族の傍で護衛をしていた男が立っていて、その男がキルシェと視線で会話をしていた様子や、男がキルシェを愛おしい目で見つめていたことをランスははっきりと覚えている。
「俺が運ぶ。貴殿は案内してくれ」
嫉妬心からだということは己が一番分かっている。キルシェを愛しているのだとつい今し方気付いたランスは、たとえ同僚だとしてもキルシェに懸想していると
その様子に苦笑したキルシェの同僚らしき近衛の男は、ランスがキルシェを抱き抱えたのを確認すると一礼して歩き出した。
「まずは別室へと運びます。そこでひとまずの治療を施します。その後、騎士団宿舎へと移動させて、あとは安静にさせて様子を見ます」
キルシェに負担が掛からない程度の速さで歩きながら、男は今後の予定をランスに告げた。それに了承の意を示したランスは、気になっていたことを口にした。
「キルシェは宿舎まで俺が運ぼう。ところで、貴殿はキルシェとは仲が良いのか?」
随分とキルシェを知っている風だったが。そう忌々しげに言葉を付け足して眉を顰めるランスをチラリと盗み見て、男は小さく笑った。
「ええ、キースとは同期でして。長年コンビを組ませていただいております。あ、まだ名乗っておりませんでしたね。失礼致しました。私はヴァネット子爵家三男、マイク・ヴァネットと申します。以後お見知りおきを」
歩きながらで礼を失する挨拶となったが、今優先すべきはキルシェであるため、互いに礼儀など今の状況ではどうでも良かった。
「いや、こちらこそ挨拶が遅れてすまない。私はランス・ベルザーだ。長年妻を仕事で支えてくれて感謝する、マイク殿。これからも妻を宜しく頼むよ」
「はい」
ここで伯爵としての顔を見せられたことで、牽制されたのを察したマイクは前を向いたまま頷いた。人妻である彼女に、しかも伯爵夫人となった人物に手を出すほど阿呆ではないのだけどな、と内心苦笑しながら。
「こちらで治療致します」
しばらく進んだところで、とある客室の扉の前で立ち止まったマイクのそばにランスも控える。
医者が治療を施している最中もキルシェの手を握り傍から離れようとせず、眉間に皺を寄せて心配そうに彼女の苦しげな顔を見つめるランス。マイクは会場の事後処理があるからと医者と護衛にその場を任せ、後ろ髪を引かれる様子を見せつつも早々に立ち去っていた。
「キルシェ、頼む……どうか戻ってきてくれ。俺を置いていくな……」
周囲にいる者の存在など忘れたかのように、必死に妻に声をかけるランスの姿に、その場にいた医者や護衛は優しげな瞳でその様子を見守っていた。
どうにか治療も終わり、ギリギリ一命を取り留めたことに安堵の息を漏らし、ランスは医者に頭を下げる。彼のその姿勢に医者は驚きで瞠目するも、微笑みを浮かべ「奥様はこんなに愛されていて幸せですね。どうかお大事に」と一礼してキルシェの状態を王家や騎士団総長、各団長に報告するため一旦部屋を後にした。
「愛されていて幸せ、か……」
医者が出て行った扉を眺めながら、言われた言葉を反芻し苦虫を噛み潰した顔をする。
その「愛」をこれまで与えることをしてこなかったのだ。それはキルシェを不幸にしていることと同義であり、後悔ばかりが押し寄せてくる。
「早く目を覚ましてくれ、キルシェ」
ベッド脇に腰掛けると再びキルシェの手を握り、神に祈るように額にそれを押し当て願った。どうかもう一度その瞳を俺に向けてくれ、と。
「ベルザー伯爵、わざわざ宿舎までありがとうございます。後はこちらの侍女がキースの世話を致しますので、伯爵はお休みください。彼女が目覚めたましたらご連絡差し上げます」
騎士団の宿舎はおいそれと他人が入れないような決まりがある。入るには許可証が必要で、それを発行するには前もっての手続きがあるのだ。故にランスは宿舎の入り口までしか本来は来れなかった。が、今回は緊急の特例として部屋までの入室が認められた。もちろん騎士団の人間の付き添いもあってだが。
「……分かった。キルシェを頼む」
決まりならば仕方ない。泣く泣く宿舎を後にしたランスは、キルシェの無事の目覚めをただひたすらに祈っていた。
しかしキルシェのことを祈る以外にもやることは山ほどある。仕事はもちろんだが、夜会のときにミリアム達に言われたキルシェの過去。生家での扱い。それを調べねばならない。仕事が終わるとその足でキルシェの生い立ちを徹底的に調査した。
三日もあれば、情報は十分に集まった。そしてキルシェの生家での扱いに絶句した。
キルシェの生家は代々優秀な騎士を輩出する武門に優れた一族だ。現に騎士団を束ねる総長の位を持つのはキルシェの父親であり、前総長はキルシェの祖父、キルシェとは団が違うが、団長の位を得ている彼女の兄。キルシェ自身も近衛の隊長格という武の申し子が多い家系。
しかしその実態は家庭内であっても上下関係が厳しく、家族愛など皆無であり、常に仕事のような空気。四六時中、何事に置いても訓練として課せられる。少しの失敗も許されず、もし失敗すれば体への暴力が待っている。幼い頃に怪我が絶えなかったのはキルシェがお転婆だからなどではなかった。そして家から出されなかったのは常に訓練と仕置きを繰り返されていたからだ。
そしてその訓練内容に毒物の使用も含まれている事実を知ってしまった。貴族階級の人間、特に上級貴族は基本的に毒物にある程度慣らされることが多い。しかしキルシェの家は「毒に慣れる」などと生易しいものではなかった。毒の種類を覚え、体感し、量を覚え、症状を覚え、匂いを覚え、口にする前に気付けるように幾度となく訓練される。そのために毒によって死亡する一族も多々いるほどだ。キルシェの家系は早死にが多いという裏側にはこれがあったからだった。
彼女には正しく「結婚が救い」だったのだろう。しかしミリアムの言う通り、ランスとの結婚は救いにはならなかったのだ。ただただ孤独なだけだった。
それから四日。キルシェが目覚めたと一報が入るも、キルシェの体調の関係もありしばらくは面会謝絶だと言われ、もどかしいながらも粛々と日々を過ごしていた。
そしてそれから一週間も経たずして、王城にて休憩中であろう騎士や侍女の会話が耳に入った。
「キース様が王女殿下へお会いしにいらっしゃいましたわ! 体調が良くなったようで本当に良かった……」
安堵からか小さく吐いた息が多少震えている侍女に、話を聞いていた騎士が声を出して笑う。
「はははっ! さすがキース。起きれるようになったら一番に会うのはやはり王女殿下か。キースが愛を囁くのは王女殿下ただお一人だからな」
「近衛騎士に復帰した当初は思い詰めた様子でどうなることかと思ったが、王女殿下のお気遣いもあって立ち直ったようで良かったよ」
「その矢先にこんな事件だもんなぁ。旦那と不仲説もあったが、あの夜会の様子からどうやら違ったみたいだし……何に思い悩んでいたのやら。ま、今回も無事で何よりだ」
その会話はランスの後悔に塗れた心を抉った。しかしそれよりも気になる言葉があったことが気になり、思わず彼らに声をかける。
「すまない、盗み聞きをするつもりはなかったのだが、聞こえてしまった。今の会話、詳しく聞かせてくれないか」
急に声をかけられた侍女と騎士達は怪訝な顔で振り向くが、ランスの姿を確認した途端青ざめ礼をする。
「はしたない会話をしてしまい申し訳ございません。失礼をお詫び致します!」
相手が貴族だと分かったからか、もしくはキルシェの夫だと気付いたからかは不明だが、真っ青になりながら謝罪する様子にランスは戸惑った。
「いや、今は休憩中なのだろう。頭を上げてくれ。それにキルシェを心配しての会話だろう。謝罪の必要はない。私が勝手に会話を聞いてしまったことを詫びねばならないほどだ。失礼した。それよりも、今話していた内容だが、キルシェが『今回も無事だった』と。これまでも何かあったのか?」
夫だというのにキルシェのこれまでの行動を全く知らないことに恥じ入りながらも優しく問いかけると、彼らは互いに顔を見合わせ小さく頷いた。
「キース……キルシェは今回のように体を張って王女殿下をお守りすることが多々ありました。剣や武の才能はもちろんあったのでそれほど頻繁ではありませんでしたが、敵の数が多く周囲に仲間もおらず……といった状況に陥った場合、命をかけて王女殿下をお守りするのです。それが近衛騎士の役目でもありますから」
目の前の騎士から淡々と紡がれる言葉はそれが当たり前なのだと如実に示していて。そんな危険な環境にキルシェは常に置かれていたのかと、それなのに俺は更にキルシェを追い詰めていたのかと、ランスは心を締め付けられるようだった。
「今回のような、と先ほど口にしていたが、キルシェはその度に大怪我を負っていたのか……? 邸ではそんな素振り一度も……」
「ああ、隠されていたのではないでしょうか? キルシェは見えない場所への怪我は王女殿下にご心配をおかけしたくないとかで隠してしまう癖がありますので。けれど大怪我と言うほどのものは滅多にないですし、今回のような傷も初めてですので今までのものはそれほど
どうやら彼らはランスがキルシェの夫であるベルザー伯爵だと気付いていたようだ。それはもちろん夜会であれほどキルシェに縋っていたのだから、その場にいたであろう騎士に姿を覚えられていても仕方のないことではあるが。
「これまでのキルシェの傷というと……?」
「ごく最近のもので言えば、これはお気付きかと存じますが、矢で射られたものですね。王女殿下が遠距離から狙われまして、それを庇ったキルシェの顔に矢が掠ったのです。幸い、掠っただけでは毒も少量しか回らず、無事に解毒も出来ましたので大事には至らなかったのですが」
顔の傷、最近の出来事。その事柄から、自身が夜に中庭で愚かにもキルシェを罵った日のことだと思い至ったランスは顔から血の気が引いた気がした。
「あれは殿下をお守りして……? 待て、今、毒だと言ったな?」
絶望の表情を顔に貼り付けて騎士を見るランスは端から見ても痛々しい有様だった。
「ええ、掠った矢に毒が仕込まれておりました。……キルシェはそういったことは閣下に伝えていなかったのですね。ああ、ヤバイ。これはキースにバレたら俺が殺される……」
最後は独り言のように呟いた騎士だったが、幸いにもランスの耳には入っていなかった。
「俺は……なんてことを……」
あの日、顔の傷に苦言を呈した。本音などでは決してなかったが、王女殿下を守ったという、騎士の誇りを貶してしまったのだ。よりにもよってミリアムを引き合いに出して。
毒まで仕込まれていたと聞き、無事で良かったという安心やあの夜もまだ毒による症状が残っていたのではないかという不安、それなのに酷薄なことをしでかしてしまったことへの罪悪感など、複雑な感情が入り乱れていた。
それに、何故言ってくれなかったのか。王女殿下を守ったのだと、毒にやられたのだと言ってくれれば俺だって……。そう思ったのも一瞬で、言う機会を尽く潰してキルシェを押さえ付けていたのは己なのだと自嘲した。信用に値しない人間に言うはずがない。ましてや妻の職務も知らない夫になど。
「ああ、キルシェはお伝えしていないと思いますので、もうこの際全部お話ししますが、彼女が毒にやられるのはあれが初めてじゃありませんので恐らくそれなりに慣れておりますよ」
衝撃の事実が騎士の口から放たれた。
「……は?」
「えっと……騎士として共に入れない場所へは侍女に扮して王女殿下にお供するんです、キルシェは。なので飲食の毒味役も兼ねたりしていて、その際に毒に当てられたり。それでも少し口に含んだだけとか香りだけで毒物だと見抜くなんて、実家での訓練で毒にも慣らされてでもしないとあんなに毒に詳しいとも思いませんが……とにかく、キルシェは王女殿下のためならば体を張ることを厭わないのです。生き急いでいるようにも見えてしまってどうにも放っておけないんです。どうかキルシェの行動にお気をつけ下さい、閣下」
「ああ、そうするよ。突然すまなかった。話してくれて感謝する」
騎士より忠告を受け、それに頷いて話を切り上げると颯爽とその場を後にする。しかし脳内ではキルシェの過去と今の話がぐるぐると回っていて整理が追いつかないでいた。
彼らもキルシェが毒に慣らされているということに勘付いていたようだし、あの家が過度な毒物訓練を行なっていることはそれなりに知られているのかもしれない。だがキルシェが近衛騎士としての職務で毒物を煽っていたなど信じられなかった。この時初めてランスは命を顧みないキルシェに焦燥感を抱いた。生き急いでいる、まさにその通りだと。
王城の広い廊下を黙々と歩いていたランスは、恋焦がれた色彩が視界の端に映った気がして足を止めてそこに視線を向けると、求めていた人物が腰掛けて食事をしている姿が目に入った。
しかしその向かいに座る人物の姿を認めると眉を顰め、思わずその空間に足を進める。
「キース、お前が隣国へ行くというなら俺も一緒に行こう。王女殿下の騎士としては行けないから、お前は侍女として行くのだろう? それなら俺は職を辞してあちらの王城で働けるよう文官にでもなれば良い。あちらの騎士見習いとして一から入団し直すのも良いな。俺はいつでもお前の相棒で味方だ」
近づくに連れて聞こえてくる会話に苛立ちを覚えるランスの足は自然と速くなっていった。
隣国だと? 共に行くだと? ふざけているのかこの男は。まだ俺たちは離縁していない。キルシェは隣国へなど行かない。何故そんな話になっているんだ。
沸々と湧き上がる焦燥と不安に、マイクがキルシェに伸ばした手を遮るように彼女の腕を掴み立ち上がらせた。
「その必要はない」
自分で思っていたより冷え冷えとした声だった。
「ランス……」
驚愕に見開かれた目をランスへと向けたキルシェを一瞥すると、彼女の腕を掴んだまま歩き出した。
「えっ、ちょっ、どこへ⁉ あ、マイク! 悪いけど私の食器も一緒に片付けてくれないかな!」
「あ、ああ。分かった。あ、おいキース! 傷が開かないように無茶だけはすんなよ!」
己の存在を忘れられたかのように軽い調子で言葉を交わすキルシェとマイクにさらに苛立ちが募る。
「ねぇランス……あ、いえ、申し訳ございません。ベルザー伯爵、一体どちらへ向かわれているのでしょうか? 私に何かご用ですか?」
はっきりと互いの関係は崩壊しているのだと理解せざるを得ない言葉に絶句し、ランスは足を止め振り返る。キルシェの顔には戸惑いはあるものの、そこにランスが欲していた情による熱はなかった。
「少し、話をしたくて……」
小さく紡いだランスの言葉に眉を顰めたキルシェは冷めた目で彼を見やる。
「今更話すことなどありません。散々私を拒んできたのは貴方であり、私の気持ちはお手紙で示した通りです。ああ、もしや離縁の手続きが終わったと言う報告でしょうか? わざわざありがとうございます。証明書を発行していただくことにします。それでは失礼致します」
一礼して踵を返したキルシェの腕を慌てて掴み直す。
「まだ何か? ベルザー伯——」
「違う!」
「え?」
言葉を遮るように突然声を荒げたランスに驚いたキルシェは思わず彼に向き直った。
「どうかもう一度、ランスと……俺の名前を呼んでくれないか」
縋るような視線を向けるランスにたじろぎ、今までの彼と全く違う様子にどういうことだと戸惑いを見せながら助けを求めるように周囲を見回すも、いつの間にか人気のないテラスまで引っ張られてきていたことに気づき更に狼狽えた。
「俺の話を聞いてくれないか……頼む、キルシェ。俺は君になんて酷いことを……」
思い詰めたような表情に抵抗も出来ず、仕方なしに静かに頷くとランスを伴って隅にあるテーブルへと腰を下ろした。
「それで話とはなんでしょうか」
言葉を崩すことなく、距離のある接し方を徹底するキルシェにランスは傷ついた顔をするも、これは自業自得なのだと言い聞かせ口を開いた。
「その前に、体はもう大丈夫なのか。あと少しで危なかったと……」
「ああ、大丈夫です。ご心配には及びません。もう傷も大体塞がり仕事も再開しましたので」
仕事についてはキルシェが勝手に再開させたのではあるが。
「そうか、良かった。あの日、どんどん血が溢れて生気がなくなっていくキルシェに恐怖を覚えたんだ。キルシェを失ってしまうのではないかと……俺の手の中で君の命が失われていくのが耐えられなかった……本当に無事で良かったよ」
「どういうこと……ですか。貴方は私を疎ましく思っていたのでしょう? ミリアム姉様を愛している貴方は正反対の私を嫌っていた」
そう告げると、ランスは苦しげに表情を歪め、「後悔してるんだ」とポツリと呟く。
「結論から言うと、俺はキルシェを愛している」
その言葉に唖然とするが脳がその言葉をしっかりと理解すると我に返ったキルシェは苦虫を噛み潰したような顔で忌々しげに吐き捨てる。
「信じられるわけがないでしょう。一体何が目的ですか。近衛騎士というだけの私には何も出来ることはありませんが。ああ、体裁でしょうか」
「違う! そうじゃない。何も目的など……強いて言うならばキルシェに戻ってきて欲しいと、それだけなんだ。好きなんだ、愛してるんだ……」
必死に言い募る彼の声は切実で、真剣味を帯びた瞳は本気なのだと物語っていた。
「これまでキルシェにしてきた仕打ちを思えば謝って許されることじゃないのは分かってる。酷いことしかしなかった俺から解放するのが最善だということも理解している。けど先日の夜会で俺の知らないキルシェを目の当たりにして、キルシェが遠いところにいるようで辛かった。同僚の男と視線で会話しているのが妬ましい。君が俺の知らないところで危険な目に遭って怪我を負っているなど許されない。君をずっと俺の傍に置いておきたい。そう思ったら止まらないんだ、この気持ちが。あの日に気付いたんだ、キルシェを愛しているのだと」
「そんなの……今更……」
突然の告白に戸惑いを見せるも、キルシェはもうランスに対して思うところはない。すでに吹っ切れてしまったのだから。それにこれまでランスにされた仕打ちは確実にキルシェの心の傷になって未だに残っている。そう簡単に信じられないし許そうとも戻りたいとも思わないのだ。
「今更なことは分かっている。だからチャンスをくれないか」
「チャンス?」
「そうだ、一度だけ俺にチャンスを欲しい。実はまだ離縁の届けは出していない。一年、一年だけ待って欲しい。その間に俺の気持ちが本物だと認めてもらえるように頑張るから。その上でやはり無理だと思うなら、悲しいが俺も離縁を受け入れる」
テーブルの上で拳を握りしめ懇願するランスの発言にキルシェは驚愕した。まさかまだ離縁の届けを出していないとは思わなかったのだ。あれほど疎まれていたのだから嬉々として離縁が果たされているものだと思っていた。
じっとランスの目を見つめ、それが本気なのだと納得するも、やはり簡単に「はいそうですか」と頷くなど出来ない。
何より一年など待てるわけがない。リリアンヌが婚約式へと旅立てば、そのまま隣国での生活に切り替わるのだ。もう彼女がこの国に帰ってくることはほぼないに等しい。隣国までの護衛を終えるとキルシェはそのまま侍女としてリリアンヌの傍に侍るのだと決意していたのだ。猶予は半年。了承したくはないが、しかしここまで言われると、一度は情を向けた相手なのだ、無碍にも出来ない。
「半年です。殿下の隣国への出立は半年後。私も共にこの国を発ちますので、半年しか時間はありません。それだけは譲れません」
しっかりと視線を合わせて妥協案を出すと、ランスは彼女の言葉に呆然とした。
「隣国……まさか、さっきのマイク殿の言葉は本当に……? キルシェは隣国へ行くのか?」
「ええ。敬愛する王女殿下御自ら賜った使命です。ありがたく同行させていただくことに相成りました」
「そんな……もう決定事項なのか……?」
「はい。確定しております」
「……もう、間に合わないのか」
何やら絶望した様子で俯き呟いているランスの姿を不思議に思い、キルシェは首を傾げ問いただす。
「何をそんなにショックを受けているのですか。殿下の護衛騎士としての随行ですので、万が一貴方の気持ちを受け入れることが出来れば随行任務が完了すれば国へ戻ってきますよ。もちろん無理な場合はそのまま殿下の侍女として隣国へ残るつもりですけれど」
その言葉に希望の光を見出したランスは顔を上げ目を輝かせた。
「本当か! 俺を受け入れてくれればこの国に戻ってくるんだな! 良かった……ならば希望はまだある」
安堵したように微笑んだランスは
「俺は絶対に君を振り向かせてみせるから、半年の猶予をどうか俺に」
そうして差し出された手をしばらくキルシェは眺めていたが、やがて小さく溜め息を吐くと指先をその手に軽く乗せた。
「わかりました。半年、貴方の誠意を見極めます。もう私は自分を傷つける者の傍になどいたくありませんので」
そして小さく笑みの形に口角が上がったのを見て、ランスは驚きに目を見開いた直後、満面の笑みを浮かべたのだった。
しかし彼らは気付かない。
侍女になる件もまだ決定事項でない上に、騎士団長にも陛下にも希望は出していないためまだこの案件はキルシェの独断でしかないことに。そもそも侍女の選出もあるため仮にキルシェが侍女になるとすれば、ランスに残された時間は実質三ヶ月ほどしかないのだ。そして何より、キルシェほどの実力者を国が手放す可能性は低いと言えるだろう。キルシェが隣国へ行くとなればマイクも付いていく。そうなれば二人の精鋭を隣国に譲る形になり、国にとって大きな損失となること間違いない。どうにかしてキルシェを引き止めるに違いないことは目に見えている。
しかしその事実に気付かない両者は一方は幸せそうに、もう一方は困ったように笑っていたのだった。
半年後、隣国へと旅立つ王女殿下と随行する騎士達の見送りのため、国王陛下や王妃陛下を始めたくさんの人間が式典に参加した。
そして出立の前、随行の騎士隊長を務める麗人に、柔らかい笑みを浮かべる貴族男性が挨拶をしていた。「気をつけて行っておいで」と男性の口が動くと、彼は騎士隊長を強く強く抱きしめた。そして彼女も応えるようにその背に手を回し、「行って参ります」とそれは幸せそうな笑みを浮かべる。
彼らは現在、この国でも有名なおしどり夫婦だと言われている。
どうか願いが叶うならば。 冬原 白應 @yoru_siro
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