どうか願いが叶うならば。

冬原 白應

前編

 キルシェは、夫であるランスを未だ愛している。決してそれを告げることは出来ないと分かっていても。





 伯爵令嬢のキルシェは、侯爵家嫡男であるエリオットと次男のランス、エリオットの婚約者である侯爵令嬢のミリアムとは幼い頃からともにいた。その頃からキルシェはランスへと恋心を募らせており、しかしキルシェがランスへ向ける視線と同じものを、ランスは兄の婚約者であるミリアムへと向けていることにも気付いていた。


 それはこれまで続いており、そしてこれからも続くのだろう。


 寝室は別で、外交官の職に就いているランスは朝は早くに出て、人手不足の仕事をこなしているため帰りは遅い。結婚してからというもの、二人の時間を持ったことなど片手で数えきれるほど少ない。夜はきちんと家に帰っては来るが、帰宅時間が遅いため共に食事をとれることは稀であり、しかし例え同じテーブルに着いても会話はあまりない。


 そしてここ最近はせっかくの休日だというのに「兄の仕事の手伝いがある」「姪と甥に会いに行く」「兄へ相談がある」よくもまあ思いつくなと呆れるほどに彼は言い訳を並べ侯爵邸へと通いつめていた。しかしキルシェにはミリアムに会いに行っているようにしか見えなかった。いや、実際ランスは嬉々としてミリアムに会いに行っていたのだ。


「君に気持ちはない。これは政略結婚だ。邸では好きに過ごして良いが、あまり勝手はするなよ。無駄遣いも控えてもらう。俺にも使用人にも迷惑はかけるな」


 婚姻を結ぶ際の、キルシェへの最初の言葉である。一番最初に「好きになることはない」と釘を刺されていた。キルシェのランスへの気持ちに気付かれていた可能性もあるが、それでもあまりにも心抉る言葉であった。二年ほどあった婚約期間中でもなく、婚姻を結んだ当日に告げられたものだった。なんの感情も含まない目をして酷薄な言葉を吐いたランスに、キルシェは泣きたい気持ちを抑え、それでも共にいたいという気持ちから、無感情を装って承諾した——いや、承諾せざるを得なかった。ランスの家は侯爵家。次男といえども侯爵家からの申し込みに理由なく拒否は出来ない。キルシェの家はそれほど力の強い家格ではないのだ。


 それがきっかけとなり、キルシェはランスに対して少しばかり心を閉ざした。しかしそれでも好きな気持ちを消すことは出来ず、初めの三ヶ月は好きな人と共に人生を歩めるという希望だって僅かながら感じていた。前向きに過ごしていた。

 しかし夫であるランスがキルシェを顧みることはなく、結婚から一年経つ間に、小さな傷を繰り返し負っていく心を守る為、徐々にランスへの想いの灯火を小さくしていった。

 もちろん未だに白い結婚は続いている。結婚式初日から互いの寝室は別にあり、初夜などあるはずもなかった。


 幼い頃は家族のように大切に扱ってもらった記憶もある。和気藹々と楽しく過ごした日々の思い出もある。しかし結婚してからというもの、これまでのように妹扱いされることもなくなり、かといって一人の女性として、妻としての扱いでさえない。赤の他人。嘘くさい笑みで表面だけの、会話ともいえないただの業務連絡。これなら仕事仲間のほうが距離が近いだろう。夜会やパーティーにもランスと共に出席することは一切なかった。社交などの妻としての役割さえ必要とされていない。キルシェの存在などランスにとって価値のないものに成り果てているようだった。


 一年以上そんな冷たい対応をされ、そして別の女性に懸想する姿を見せつけられているキルシェは、最愛の人からの愛情だけがもらえず、徐々に苦しくなってきていた。


「もう、疲れた」


 仕方ないのだと、分かっていた事だと諦めはついている。


 寂しい人生を続けるくらいなら、仕事だけに打ち込んでいたい。何もかもを忘れたい。

 そう思いながら、毎夜ベッドに潜る。






*****






「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま戻りました」


 家令や侍女に迎えられ帰宅したキルシェが邸に問題はなかったかと問うと、彼らはゆっくりと頭を上げ、キルシェを見た瞬間に瞠目した。


「お、奥様……また傷を……」


 キルシェの頬に裂傷が刻まれていた。ここ最近のキルシェは体や顔に傷を作って帰ってくるようになっており、家人一同いつも心配から胃が潰れそうな思いをしていた。

 二ヶ月前、突然職務に復帰することを告げられた家人たちは狼狽えたが、ランスの酷い態度を考えれば、邸にいるより職務に戻ったほうが彼女のためなのではと納得していた。しかしキルシェの仕事を理解していても、それとこれとは話は別である。


「ああ、問題ありません。矢がかすっただけですよ。傷は表面だけですし、すぐに治ります。殿下をお守りすることが我ら近衛の務めですので、これぐらいではどうということはありません。殿下にもお怪我を負わせることなく事が運びましたので良かったです」


「左様でございますか。しかしお気を付けください、奥様。我々には奥様は大切なお方でございます」


「ありがとうございます」


 家令の心配そうな視線を受け止めて微笑むと、彼は小さく頷いてこの話は終わりとばかりに最初の話題を続けた。


「本日も邸内は平穏でございました」


「そうですか。何事もなかったようで良かったです。では私は着替えて参りますので、その間に夕食の準備をお願いします」


「かしこまりました」


 ランスの帰宅はいつも通り遅いと分かりきっているので、キルシェ達の会話にはランスのことなど一切出てこない。家人達は、邸の主人に顧みられることもないと理解していても邸内の女主人としての務めを怠らず、本来の騎士としての仕事もしっかりとこなし、使用人も家族として大事に接してくれるキルシェという存在を認めており、そしてとても大切にしている。そんなキルシェを放って寂しい思いをさせている主人であるランスに不満を抱いている者は少なくない。しかし一介の使用人が主人に苦言を呈すことなどできるはずもなく、それでもキルシェの寂しさが小さく済むようにと彼女の様子を随時気に留め、甲斐甲斐しく世話を焼くのであった。






 夕食を済ませ、少し休んだのち体を清めると、邸での仕事を手早く終わらせベッドに潜って目を瞑る。


 ここ最近のキルシェの傷の原因——それは王女の暗殺未遂が多発していることにある。しかし王女が中心になって執り行う仕事もあるため、王宮に籠もりきりにさせるわけにもいかず、護衛を増やしつつ政務を行ってもらっている。今日の傷もその際の戦闘行為によるものだった。


「もっと殿下の護衛を堅めきれないだろうか」


 殿下に何かあってからでは遅い。団長に掛け合ってみようか。などと考えていると、今現在殿下は無事だろうかとだんだんと心配になり眠れなくなってしまった。しばらく何度か寝返りを繰り返すも、完全に目が冴えてしまったキルシェはベッドから降りるとそのまま寝室から出て一階にある中庭へとそっと移動した。


 満月が青く輝く夜空を見上げ、そのまま庭へと続く階段に腰を下ろす。


「ランスと結婚などせず一生を殿下に捧げる道を選べば良かった。ランスに振り向いてもらえるチャンスがあると思った当時の私を阿呆だと罵りたいぐらいだ」


 深い溜め息を吐き、「一層の事、そうしてしまおうか」と呟き手を組んでそれを額に押し当て瞼を閉じた。脳裏にはキルシェに優しく微笑み返してくれる、敬愛する王女の姿を浮かべて。


「王女殿下へとこの身を捧げ生涯の忠誠を誓って、殿下が他国へ嫁ぐのならば私は護衛兼侍女としてお傍にあることをお許しいただければ……」


 とても良い案に思えてしまった。例えそれが『逃げ』だとしても、ミリアムを想うランスを見続けることは、もう無理だと思った。そして今は殿下をお守りしなければという思いが強い。命が狙われているのならば尚更、この身に代えても敬愛する心優しい殿下をお守りしなければ。


「私を必要として下さるならば、あの方のもとへ——」


 顔を上げ再び月を眺めつつ願いを口にするキルシェの耳に、微かに足音が聞こえ、音がした方に視線を向け警戒の色を見せる。しかしそこにいたのは何かに驚いた様子で瞠目したランスであったため、警戒を解いて向き合った。

 顔を合わせるのは一ヶ月ぶりくらいではないだろうか。同じ邸に住んでいるのに他人同士よりも他人だった。


「こちらにいらっしゃるとは思わず、失礼いたしました。おやすみなさいませ」


 顔を見ただけで心臓が高鳴ると同時に締め付けられる思いだった。

 君に話すことは何もないと、以前顔を合わせた際にランスに言われていた。己の顔を見ることも嫌なのだろうと当時そう解釈していたキルシェは、今もまたその言葉が脳裏に過ぎったことで、すぐさま中庭から逃げるように室内へと足を向ける。


「待て。キルシェ、その傷はどうした」


 名前を呼ばれた。ただそれだけで嬉しく思ってしまう自分に呆れ果て、内心で苦笑する。この想いは諦めるのではなかったのか、と。

 それと同時に、初めて自分を見てくれたのではないかという淡い期待もいだいてしまった。心配してくれたのかもしれない、と。


「これは——」


「みっともない傷を作るな。もっと淑女らしくしたらどうだ。義姉上は淑女の中の淑女だからな。少しは見習ってみろ」


 眉間にしわを寄せ、キルシェの言葉を遮ったランスの声は低く、機嫌の悪いものだった。見たくないものを見せられた——そう言っているようで。キルシェへの心配など欠片もない。


 淑女らしく。義姉上のように。しとやかで華のある可憐なミリアムと比べられた。いつもの事だ。キルシェを顧みることなくずっと過ごしてきたランスに、自身を見てくれることもなく懸想する相手と比べられる。それにこの傷は、王女を無事に守れたというキルシェにとっては勲章のようなもの。それを「みっともない」と罵られた。


 きちんと人の話を聞き、優しい笑みを浮かべていた昔のランスはもういないのだと、キルシェは絶望した。他人よりも他人。夫婦とはなんだろう。ただの政略結婚の方がマシだったのではないか。





 もう、いいや。





 ぽたりと、一筋の涙がキルシェの頬を伝って落ちた。


「キル——」


「私は、ミリアム姉様ではありません。貴方が私を顧みないことなど重々承知の上で婚姻を結びました。けれど私の在り方を否定することは貴方にだってさせない。そんなにミリアム姉様を愛しているのなら……私を邪魔だと思っているのなら、私を早々に追い出してしまえば良かったではないですか。そもそも、私と結婚などしなければ良かったではないですか。私はこれまでも一人だった。だからこれからも一人で生きていける」


 表情が抜け落ちたキルシェは、静かに涙を流しながら冷え冷えとした眼差しでランスを見据え、そう言い放つ。彼に対して完全に心を閉ざした瞬間だった。






*****






「王女殿下の身辺警護を強化する為、王女殿下専属の近衛騎士は騎士の宿舎で寝泊まりするように。そしてキルシェたち女性騎士は夜間の警護は殿下の寝室前で行うように。部屋の扉の外には通常通り男性騎士も配置するが、両者共に警戒は怠るな。昼はこれまで通り、班を組んで交代で警護に努める。いいか、油断は禁物だ」


「はっ」


 キルシェがランスを見限った翌日、陛下からの命令が下りた。リリアンヌ専属の近衛騎士が集められ、団長から説明を受けたキルシェたち近衛騎士隊は、この命令の意図として、ついに暗殺者や首謀者、共謀者の捕縛にラストスパートを掛けるのだと読み取った。王女を狙う輩を絞り込みはしたものの、うまく尻尾を隠しているため証拠が掴めないでいる。ならば焦らせてミスを犯させてしまえばいいのだと、陛下や宰相、騎士団総長、各団長で計画を立てていた。


 夜間警護はキルシェは夜のみの警護で毎日張り付き、あと三人の女性騎士が一日交代で二人体制で行うことになった。キルシェ以外の女性騎士は昼の警護にも回るため、休みも挟んでローテーションとなっている。キルシェは近衛騎士隊の中でも王女からの信頼度が高く、一番無防備になる夜間は常に傍にあるようにと陛下直々のお達しだった。

 そして騎士達は何かあればすぐ駆けつけられるように配置され、王宮に近い騎士宿舎で寝泊まりすることが決定したのだった。


 それを邸に帰宅した際、家令に「仕事でしばらく帰れない」と大まかに伝え、ランスと顔を合わせることなくいつも通りに過ごすと早々に就寝した。






「昨日もお伝えした通り、私はしばらく王宮の方で仕事がありますので、こちらに帰ってくることは出来ないでしょう。どうか邸のこと、宜しくお願いします」


「かしこまりました。どうかお気をつけてくださいませ、奥様。ご無理はなさいませんよう」


「ありがとうございます。それと、こちらをランスへ」


 眉尻を下げて不安げに見つめてくる家令に小さく頷くと、キルシェは昨夜書いた手紙を手渡した。しっかりと家紋入りの封蝋を押した白い封筒。家令はその手紙の内容を察しているのか、寂しげに微笑んだ。


「確かにお預かりいたします。旦那様がご帰宅の際にお渡しいたします」


「彼にきちんと読んでもらえると良いのですが……。では、行って参ります」


 騎士の礼をとり、顔を上げると今一度しっかりと家人達の顔を脳裏に刻み込む。もうここには帰ってくることはないだろうと心の隅で別れの挨拶を施し邸を後にした。


 王女暗殺計画を企てているらしい犯人達の追い込みは殊の外うまくいっている。王女の警護は完璧であり、暗殺に差し向けられた者達を悉く返り討ちにして捕縛し、依頼主の情報も欠かさず引き出している。首謀者達はずっと惨敗が続いていることで焦り始めていることだろう。きっと最近は焦燥感に駆られ、もう後がないことにも相手方は気付いているはずだ。

 それを踏まえた上で、そろそろ最後の仕上げに取り掛かることとなった。





 キルシェたち王女専属近衛騎士隊が騎士宿舎で寝泊まりするようになって二週間が経った。キルシェは王女だけの為に生きると決め、王女をお守りする為ならばとこれまで以上に訓練に打ち込み強くあろうと努力していた。「私は私だ。他の誰にもなれやしない」と、幻影を払拭するかのように鬼気迫る彼女の様子に、同僚のみならず王女までもが常に心配そうに視線を投げかけ、時には声をかけていた。


「なあキース、いくらお前でもこれ以上は体を壊すぞ。限度ってもんがあるだろう。殿下も心配されている。あまり殿下を不安にさせるな」


 見兼ねた仲の良い同僚がキルシェを愛称で呼び掛けると、剣を振るっていた腕を止めたキルシェは彼に顔を向ける。その目の下には寝不足から隈がうっすらと出来ていた。そう、彼女はランスとの最後の邂逅からあまり眠れていないのだ。だからこそ、こうやって体を動かせば疲労から眠くなるだろうという理由も付随して訓練に訓練を重ねていた。睡眠への成果はあまりないけれど。


「そうか……殿下が私の心配を……なんてことだ。殿下の御心を煩わせてしまうなど近衛失格。以後気を付けるよ。忠告ありがとう、マイク」


 眉を下げて後悔の念を滲ませるキルシェに、声をかけた同僚——マイクは苦笑した。


「忠告なんかじゃないぞ。殿下はもちろん、俺たちだってお前の体が心配なんだよ。ただでさえお前は一番暗殺者と対峙してるし、これからの計画でもその役割は外せないんだ。それにキースはみんなにとっても大切な仲間なんだから無理をしないでほしい。殿下や俺たちには、お前が必要だ」


 お前が必要。その言葉だけでキルシェの心はどれほど満たされているかなど言った本人は気付いていないだろう。誰からも言われたことのない一言を貰えたことで、逆にキルシェに更にやる気が満ちてしまったのは友人にとっても計算外だったはず。

 しかし少し気が晴れたキルシェは満面の笑みを浮かべて剣を鞘に仕舞った。


「ありがとう。必要とされるのはとても嬉しいな。体調には気をつけるよ」


 きらきらしいその笑みに、友人は顔を赤くして狼狽えた。


「い、いや。お前、最近元気なかったみたいだし、みんなも心配してたからな。本当にあまり無理はするなよ。それに計画もそろそろ大詰めだ。失敗は許されない。お互い頑張ろうな」


「ああ。それじゃあ、私は夜間の護衛に備えて休んでくるよ」


 友人に手を振り宿舎へと歩くキルシェの背を見つめ、彼は寂しげに微笑んだ。


「お前が結婚してなけりゃな。俺がお前と幸せを築きたかったよ」


 それがキルシェの耳に届くことはなく、風に溶けて消えていった。






 自室として当てられた部屋へと戻ったキルシェは汗を流し、一息つく為にコーヒーを入れゆっくりと椅子に腰掛けた。


「ランスはきっと私がいなくなったことにも気付いていない。手紙を読むこともないかもしれない。ランスにとって私は必要のない人間なのだから……」


 ぽつりと吐いたその言葉が自身の心に深く突き刺さった。どうあっても夫の目が自分に向くことはないのだと、これまでの態度でまざまざと思い知らされていたのだ。それを言葉にしただけで心臓が抉られるようだった。

 幼い頃は仲が良かった。妹のようにだけれど優しく接してくれた。ミリアムのことが好きでも良いと思っていた。家族に向けるようなものでも少しでも自分を大切に思ってくれているのなら、結婚してもうまくいくのだと思っていた。


 実際はそんな希望など微塵も存在しなかったけれど。


 ランスはどうしてあんなに変わってしまったのだろうか。知らないうちに彼に嫌われるようなことをやってしまったのか。様々な可能性が脳を駆け巡るが、キルシェが答えを見つけることはなかった。


「もしもあの手紙を読んでいるのならば、そろそろ陛下へとその書類が届いているはずだけれど」


 あの手紙にしたためた内容はただ一つ。離縁を勧めるものだった。あんなに自分の存在を無視し続けるほどに嫌悪していたのだから、もしかしたらこちらから言い出すことを望んでいたのかもしれないと思い、騎士宿舎への移動を機に一筆認めたのだ。

 キルシェ自身、疲弊した心はもう限界を迎えていた。


 きっとランスなら喜んで離縁に応じるだろう。


 そう考えたキルシェは、ズキリと痛んだ心を隠すように眉を下げて小さく微笑んだ。






*****






「明日、首謀者の捕縛を決行する」


 敵側にこちらの動きが勘付かれないよう、通常の会議を装っての近衛騎士団団長及び近衛騎士団各隊長による、王女暗殺計画の首謀者を捕える為の打ち合わせが行われた。


 明日、王家主催の夜会が開催される。王族の出席はもちろん、爵位を賜っている貴族がこぞって招待されている。もちろん首謀者もその中に入っている。


 これまで一片の隙なく殿下を守り通してきた近衛に煮え湯を飲まされ続けてきた首謀者は、直接王族に近づけるこの夜会が最後のチャンスだと思うだろう。実際に近衛騎士団は彼ら首謀者を確実に追い詰めているのだから。その焦りから明日動くことが予想される。そこで動く時間だが、こちらで誘導してしまえば作戦を練るのは簡単である。


「では、この通りに。問題発生した場合は各自の判断に任せる。キルシェ、頼んだぞ」


「はっ。必ずや王女殿下をお守りし、あるじに害を為す者を全力をもって排除致します」


 王女殿下付きの近衛騎士第三隊隊長であるキルシェは、与えられた役割を脳裏に刻みつけ、恭しく団長に敬礼した。


 この作戦でのキルシェの立ち回りは重要なものとなっている。全てがキルシェに掛かっているといっても過言ではない。王女の命までもがキルシェに委ねられているのだ。そんな危険な行為を主人である王族にさせるのかという意見も出たが、その提案自体を陛下及び王女や王子である王族が発言しているので聞かざるを得なかった。


「分かっていると思うが、王女殿下をお守りすることが最優先だ。首謀者を捕えることはこちらに任せてくれ」


「かしこまりました」


 こうして打ち合わせは重々しい空気の中終了し、各々が本来の仕事へと戻っていく。


 王家主催の夜会。それは招待されたら滅多なことがない限り参加しなければならない。爵位を賜っている貴族、それはランスも含まれている。兄であるエリオットは侯爵位を継承しているが、ランスは結婚後に外交官として大きな功績を残し、伯爵位を賜っている。故に、夜会に参加することは必至だろう。


「会いたく、ないな」


 キルシェは王女の傍に常に控えることになっている為、たくさんの貴族が参加する此度の夜会でたった一人の人間を見つけ出すことは難しい。しかし相手は長年想っていた人物である。彼がどこにいても簡単に見つけてしまう可能性の方が大きかった。


 夜会に向けて憂鬱な気分が増していくが、明日には任務へと気持ちを切り替えないといけないことは重々承知している。


「殿下をお守りすることだけを考えよう。ランスを見つけたってその視線はミリアム姉様に向けられているのだから……そうだ、あの目に私が映ることなど、ない」


 こんな寂しいことはない。口の中にそんな言葉を落とすと夜間警護に向けて一度仮眠を取ることにした。








「では、これより作戦決行とする。各自対象を監視し、対象が動き次第、速やかに捕縛せよ」


「はっ」


 夜会前に最後の確認として少し打ち合わせし、団長の指示の下、今回の作戦で役割を与えられている騎士がそれぞれの配置に付いた。キルシェも例に漏れず、団長に敬礼すると王女の待つ控え室へと舞い戻る。


 リリアンヌのエスコートは、未だ婚約者を持たない第二王子が務めることとなっている。王族の入場後、その数歩後から周囲に目を光らせ王族の一挙手一投足に集中する近衛騎士のキルシェともう一人が付き従っていく。


 国王陛下が開会を宣言し、上位貴族からそれぞれ王族への挨拶を行う。


 しばらく続く挨拶を眺めつつ、目星を付けている首謀者及び共犯者である貴族達を何気なさを装って監視していたキルシェは、次に挨拶にやってきた貴族と目が合って一瞬驚いた。王女の斜め後ろで控えていた彼女だが、確実に招待客と目が合ったのだ。ただの近衛で今現在は背景として存在している彼女を認識した人物、それは夫であるランスだった。いや、もうすでに夫と過去形かもしれないが。


 入場の際にランスが驚いた顔で見ていたことに察していたキルシェ。しかし大事な任務中にそちらを気にしてもいられない。意識から除外していたが、彼が陛下への挨拶の際にあまりにも視線が鬱陶しく一瞬だけ見てしまったことを後悔した。いつもは無感情にキルシェを見る彼の視線に何か感情を乗せているではないか。嫌悪や侮蔑とも違う、今まで向けられたことのない感情に内心首を傾げた。一瞥しただけでその視線に乗せられたものを推し量れる訳もなく、キルシェはそれに関して意識を隅に追いやると再び周囲の警戒を行った。


 不安に思っていた夜会でのランスとの再会に特に動揺していない自身に気付いたキルシェは安堵の息を人知れず溢す。ただ、入場した際に見たランスのあの驚き様はどういうことだろうかと首を捻った。


 妻であるキルシェの職務を知らなかったのではないか。


 その考えに行き着くのに然程時間は掛からなかった。これまで見向きもされなかったのだ。興味のない妻の仕事など無関心であっても不思議ではない。キルシェはそう結論づけるとともに虚しさが押し寄せてきた。本当に自分に興味がなかったのだと、事実を突きつけられたのだから。




 貴族たちからの挨拶も恙無つつがなく終わり、各々がダンスや社交を楽しみ始めたのを横目に、王族の方々も雑談を交わしている。


「リリーとキースは出会ってから如何いかほどだったか」


 陛下が突如、なんの脈絡もなく思いついたように呟いた。それを聞いたリリアンヌは嬉しそうに笑みを溢し言葉を返すと、視線をキルシェへと向け会話に入るよう促した。






「キース、テラスへ行きたいわ」


 それが合図だった。

 反対側で護衛を務めている近衛と目配せをし、計画を実行することを示す。互いに小さく頷き合うと、キルシェはリリアンヌの手を取り共に王族席から離れ、庭へと続くテラスへと移動を始めた。


 テラスへと出る直前、出入り口付近でキルシェの近くにいた女性がよろめいた。それをキルシェは難なく支えてみせ、相手の安否を確認する。そこに隙が出来てしまった。そしてこの隙を暗殺者は見逃すはずがなかった。


「かかったな」


 誰にも聞こえない程の声で一言呟くと、キルシェは帯刀していた剣を鞘から素早く抜くと、リリアンヌに斬りかかる男に応戦した。狭いテラスに雪崩れ込むように戦闘が始まり、首謀者もしくは共謀者である貴族の手引きで侵入しただろう数々の破落戸ごろつきが庭の陰から躍り出てリリアンヌを狙ってくるも、作戦の通りに役割を担った近衛たちによってそれは阻まれる。


 キルシェはわざと隙を作ったのだった。これまで隙なく警護していたところに突然に穴が開く。次のいつ来るかも分からないチャンスを待つより今のこの隙に食い付く方が魅力的なはず。それほどまでに相手方を焦らせたのだから。それもこれも陛下や近衛騎士たちの掌の上なのだ。出入り口付近にいた貴族たちは夜会服を纏った近衛騎士隊の人間で固められ、キルシェが支えた女性ももちろん同僚である。会場内の敵以外の上位貴族達にはすでに了承と協力を得ており、この夜会自体が敵にとって罠であった。


 リリアンヌを守りながら、近づく敵の動きを軽やかに封じていくキルシェ。足を刺し、腹を貫き、肩を抉る。決して死なない程度に。その加減を完璧に熟す彼女は近衛騎士団の中でも一目置かれている存在で、尊敬し、慕っている者は多かった。


 キルシェたち騎士が粗方敵を片付けて余裕が出たところで、キルシェは王女を安全な場所へと避難させるべくその場から離れようとした。

 しかしキルシェに手を重ねた王女の背後から怪しい男が近づく瞬間を、王女の忠臣であるキルシェが見逃すはずがなかった。男のその手には、鋭く光る短剣が握られていたのだから。


「殿下!」


 咄嗟に引き寄せたリリアンヌを背後に守り、不審人物へと自身の剣を突き刺した。いや、刺し違えた。男の短剣もまた、キルシェの腹に深く突き刺さっていたのである。もちろん彼女はそこまで読んでいた。キルシェが避ければ、背後にいるあるじに危機が迫ってしまう。敬愛する彼女を守る近衛として、キルシェにとって咄嗟にでも行える当たり前の行動だった。


 男は貴族なのだろう、その身なりは上等で、生地にも金をかけている事が見て取れる。その生地を血で染めゆく様を一瞥し、キルシェは男の足に刺した己の剣を躊躇いもなく引き抜くと痛みに呻く男を足蹴にして地面に叩きつける。その拍子にキルシェの脇腹に突き立てられた短剣もグチュリ、と音を立てて引き抜かれた。


 痛みに一瞬眉を顰めるも、職務優先だとばかりに平静を装い周囲へ指示を出しながら、男の捕縛の隙を突いて現れ王女へと襲いかかろうとした新たな暗殺者たちの悉くを地に伏した。怪我を負いながらも圧倒的な強さを見せたキルシェに、同僚たちは更に畏怖と尊敬の念を増す。


「殿下、これにて計画は完遂でございます。ご協力感謝致します。しかし尊い御身を危険に晒すこととなり誠に申し訳ございません。ご無事で……何よりでございます……」


「いいえ、いいえ。貴女はしっかりと私を守ってくださった。どうかこれ以上ご無理をなさらずに」


「ご厚意痛み入ります」


 刺された痛みと出血の酷さで意識が朦朧とし始め少しばかり息が上がってきたキルシェは、最後の務めとばかりにリリアンヌを陛下たち王族が座する場所へとお連れした。そうして全てを見届けた王族が他の近衛を伴ってその場を辞して姿が見えなくなると、途端にキルシェの体は崩折れた。とうに限界は超えていたのだ。


「キルシェ!」


 遠くで聞こえたランスと思しき声に、幻聴が聞こえるほどに自分はまだ彼との仲に期待しているのかと自嘲し、そのまま意識を手放した。






 ゆったりと浮上した意識を自覚したキルシェは、おもむろに瞼を開く。


 ジクジクと痛む脇腹を押さえると、その感触がいつもと違っていることに気づいた。服とも違う手触りで、どれだけ手を自身の体に這わせても直に肌に触れないことを疑問に思い、首を動かしそこを見てみると、包帯が巻かれ治療された跡がある。

 事の次第を思い出そうと天井を見上げてみるが、思考がぼんやりとして考えがまとまらない。


「キース、起きたか」


 しばらくすると部屋の外から入ってきた友人が、目に見えて安堵した表情でキルシェの顔を覗き込んだ。彼はキルシェにとって、近衛騎士となって初めてできた友人であり、親友である。いつも互いを気にかけ、気にかけられ。そして長い付き合いに比例して信頼も大きい。今では視線だけで職務の会話が成せるほどだ。自他ともに認める仲で、仕事上でペアを組まなければならない場合は必ずと言って良いほどこの二人が組むことになる。


「マイク、計画は……」


 夜会の最後、脅威から守り抜いた王女を陛下方のもとまで送り届けようと手を差し伸べたところまでは覚えているのだが、とぼんやりとかすみ掛かった思考で考える。


「お前……こんな時でもそれかよ。相変わらず仕事人間だな。夜会があったのは四日前。計画は成功、無事に完遂した。王女殿下を狙った連中は悉く捕縛。尋問した後、裁判にかけて刑を執行する。もう、安心して良いんだ。よく守り抜いたな。陛下からもお褒めの言葉をいただいたぞ」


 それを聞いたキルシェはそっと微笑んだ。


「四日……。そうか、成功したんだ。良かった……」


「お前のおかげだよ、キース。お前が最後に体を張った戦闘で黒幕へと繋がる人物が出た。それに全員生かして捕らえられたのが一番大きい。違法な奴隷商に繋がる奴までいたんだからな。お手柄だ」


「いや、私は殿下をお守りしただけだ。頑張ったのは全員だよ。全員が力を合わせたからこその結果だろう。守れて、良かった……」


 安堵の溜息を吐いたところで、マイクはキルシェの頭を撫で、そのまま瞼へと手を下ろす。


「ほら、まだ回復しきっていないんだ。今のうちに寝ておけ」


「ありがとう」






*****






 次に目覚めたのは日が落ちた後だった。窓から覗く空は闇に包まれ、きらきらと無数の星が輝いている。


「夜か。喉が渇いた……」


 脇腹の痛みに自身のおかれた状況を思い出したキルシェは、あまり腹に力を入れないよう両腕をベッドにつきその力で体を支えてゆっくりと慎重に起き上がる。ベッドの縁に腰掛け、その傍らにある棚に置かれている水差しとグラスを手に取った。


 あの騒動の後、誰かが手当てをしてくれ、意識のない自分を騎士団宿舎の部屋へと運んでくれたのだろうと、回復しきったその時にその相手を探してしっかりとお礼を告げることを決め、まずは喉を潤すためにグラスに水を注ぐ。


「あの時、私を呼んだのは誰だった……?」


 倒れる瞬間、誰かが自分の名を呼んだ気がしたけれど。

 両手で包み持ったグラスを腿に乗せ、現場を思い起こしながら首を傾げる。


「ランスの声に聞えたのは気のせい……だよね。ランスが私を呼ぶわけがない」


 自嘲気味に口の端を歪め、まだ期待したい心が残っていることに嫌気がさした彼女は、グラスに注いだ残りの水を一気に飲み干し、再びゆっくりとベッドの中に潜り込む。

 この怪我ではしばらくは仕事にも出られないのだろうな、とキルシェはぼんやりと考え、することが無ければランスのことが思考を埋め尽くしそうだと眉間にシワを寄せる。こんな時にこそ仕事に集中したいのにと、書類仕事だけでもやらせてもらえるよう願いながら意識を手放した。





「キース! まだ起きるなと言っただろ! 大人しく寝ることも出来ないのかお前! この仕事人間め! これじゃあ傷が治るどころかまた開くぞ」


 キルシェが目を覚ましてから数日経ち、ベッドで安静にしていることに嫌気がさした彼女はこっそりと部屋を抜け出して近衛騎士団第三隊の隊長専用の執務室へと足を運び、止める部下を宥め書類仕事をしていたところ、鬼の形相をその顔に携えてやってきたマイクにどやされていた。どうやら部下がキルシェの一番のストッパーであり理解者であるマイクを呼びに行ったようだ。


「もう大丈夫だよ。傷が開くことはない。運動は控えているんだからせめて書類仕事ぐらいはさせてほしいんだけど」


 じろりと彼を睨め付けると、彼は呆れたように深い溜め息を吐いた。キルシェの目の前まで来たマイクは机を人差し指でトントントンとわざとらしく叩いてじとりとした目を彼女に向ける。


「安静、って意味分かってるか? たとえ事務処理でも仕事をすることは安静にしているとは言えないからな? そこらへん理解してる? そもそもあれだけの傷を負ったってのに目覚めてから一週間もしないうちに歩き回ってることが人間じゃねぇよ」


「失礼な。私はれっきとした人間だ。ただ他人より少しばかり頑丈なだけで」


「少しねぇ……まぁいいけど。それより、そんだけ元気に仕事ができているなら、近々王女殿下にお会いしてこいよ。殿下もお前に会いたがっていたぞ。団長もあとはキースの体調次第だと言っていたしな」


 敬愛する殿下の名前がマイクの口から紡がれると、キルシェは持っていたペンを放ってすぐさま席を立った。


「それを早く言えよマイク。殿下のご尊顔を拝する許可をずっと待ってたんだから」


「おまッ……! そのために元気な振りしてるとかじゃないだろうな⁉ 無理したら殿下が余計心配するんだぞ!」


「無理はしてない。本当に元気だよ。傷も大体塞がった」


「その『大体』がお前基準だとどれぐらいか不安しかないけどな」


「ま、とりあえず元気だから殿下に報告してくるよ」


 ひらりと手を振って微笑んだキルシェは執務室を後にした。「今行けって言ってねぇから! 半端に手ェ付けて残った仕事どうすんだよ俺はやらねぇぞ⁉」と悲壮感に満ちた声が後を追うが、キルシェは気にすることなく前だけを見据えて颯爽と主のもとへと足を進めた。






「キース様! お体のほうはもう宜しいのですか?」


 王女の自室へと向かう途中、王女付きの仲の良い侍女と偶然すれ違ったキルシェははやる気持ちを抑えて彼女と穏やかに言葉を交わす。


「ええ。もう傷もほとんど塞がりましたし、随分と良くなりましたので、本日は王女殿下に報告も兼ねてお会い出来ればと」


 キルシェのことを「キース」と愛称で呼ぶのは何も仲間だけではない。城で働く者のほとんどが彼女のことをそう呼んでいる。実は本名が「キース」だと思われているのではないかと納得できるほどに最初から「キース」と呼ばれていた。それもこれもキルシェの人徳の成せる技だろう。本人は気付いていないが、とても愛されている証拠である。その証に、王族にさえも親しみを込めて「キース」と呼ばれているのだ。本名よりもそう呼ばれすぎて、もう「キース」が本名でも良いのではないかと思い始めているキルシェだった。


「それはようございました! 王女殿下も私ども城の使用人も、皆キース様の容態を案じておりました。お元気になられたようで安心いたしました。王女殿下は現在、中庭の散策をされているかと存じます。キース様がお顔をお見せになればとてもお喜び致しますわ」


「ありがとうございます。では、私は早速殿下を追いかけてみますね」


 そうして互いに小さく手を振りあって歩き出す。





 中庭へ着き、まずはぐるりと周囲を見回す。特に変わった様子もなく穏やかな空気が漂っていることを確認し、近くのガゼボへと向かうと、予想通り王女が一人優雅にお茶をしている姿を見つけ、キルシェは微笑んだ。


 王女の傍らに控えていた侍女が近づくキルシェに気づき、そっと彼女へと耳打ちすると、彼女は嬉しそうにパッと顔を輝かせ華やかな笑顔を浮かべて立ち上がりキルシェへと駆け寄り抱き着いた。


「キース!」


 王女リリアンヌは中庭のこのガゼボで静かにゆったりお茶することが好きであり、空いた時間にはここにいることが多い。このガゼボからは、中庭の色とりどりに咲き乱れる植物や日の光に当たりキラキラと光り輝く噴水がよく見える。この見通しの良い場所では命が狙われると格好の的になるのは目に見えていたため、リリアンヌが狙われ始めてからはこの場所へは近づかせなかった。それもあって、解決した今、存分にここでのお茶を楽しんでいるのだろう。


「殿下、駆けるのははしたないですよ」


 心にもないことではあるが、一応王女の騎士であるキルシェは上辺だけの説教をするも、リリアンヌにはその内心は筒抜けで彼女はくすくすと笑うだけだった。


「そうね。キースの元気な姿を見て嬉しくてつい」


「ご心配をおかけして申し訳ございません。この通り、もう十分に回復致しました」


 抱きつくリリアンヌの肩を少し押して体を離すと、キルシェは主人の足下に片膝をついて跪きにこりと甘い笑みを浮かべる。その笑みを見たリリアンヌは目に涙を溜めて安堵の息を溢した。


「本当に、本当に良かったわ。貴女が刺された時は頭が真っ白になったもの。こうしてまた元気な姿が見れて安心したのよ」


「はい。王女殿下に想っていただけるなど、ありがたき幸せでございます。リリアンヌ王女殿下へ再びの忠誠をここに誓います。我が主人あるじに変わらずの忠誠を」


 跪いた体勢のまま左胸に右の掌を当て、左手でリリアンヌの手を恭しくとると自身の額にその指先を軽く押し当て少しばかり頭を下げる、騎士の誓いが行われたその光景に周囲にいた侍女や騎士がほう、と感嘆の息を吐いた。

 その二人の行為はさながら絵画のように煌びやかで厳かで雄大な雰囲気を纏っていた。まるで物語の姫君と騎士のよう。理想の主従の姿として、この様子が城はもちろんのこと城下にまで語られることになるとは、この時の当事者二人は知る由も無い。





「さあキース、貴女もわたくしとお茶をしましょう。快復祝いよ。こちらにお座りになって」


 一応書類仕事を放ってこちらに来てしまったからまだ仕事中と言えるけれど、と考えるもそれは一瞬だけのことで、すぐさま一礼してリリアンヌが示した席へと腰を下ろす。それを満足そうに見届けたリリアンヌは侍女にキルシェの分の紅茶を手配する。


「ねぇキース、わたくしも今朝陛下に告げられたことなのだけれど……それについて聞いてほしいことがあるの」


 キルシェの元に紅茶が置かれ、侍女に礼を言って一口飲んだところでリリアンヌがそっと口を開いた。


「はい、お伺い致します、リリー様」


 ソーサーにカップを置きテーブルへとそっと戻すと、リリアンヌをいつものように愛称で呼び柔らかな雰囲気を出すキルシェに、不安げに話しを切り出したリリアンヌも安堵したように微笑み落ち着きを取り戻す。


「ありがとう。あのね、隣国の王太子殿下との、婚約が決まったの」


 呟くように発されたその言葉に、キルシェの思考が一瞬停止した。しかしそれも束の間であり、それがリリアンヌに気付かれることなく、今度は柔らかい笑みをその顔に湛えた。


「おめでとうございます、リリー様。隣国の王太子殿下といえば聡明で慈悲深く、民に慕われており素晴らしいお人柄だと私も聞き及んでおります。とても良いご縁ではないでしょうか」


「ええ。王太子殿下とは何度かお会いしたこともあるけれど、本当に素敵な方なの。この縁談に感謝しなくてはね」


 ふふ、と口元に手を添えて頬を染め嬉しそうに笑うリリアンヌを見て、キルシェも幸せな気持ちに満たされ笑み崩れる。


「リリー様がお幸せそうで私も嬉しく思います」


「それでね、キースにお願いがあるのだけれど……」


 喜色から一変、不安げに眉を下げて上目遣いにキルシェを見るリリアンヌの表情に、誰よりも王女大好きな騎士は胸を撃ち抜かれた様子で内容を聞かずして神妙に頷いた。


「謹んでお受け致します、リリー様」


「キース、まだわたくし何も言っていないわ……」


「リリー様のお願いとなれば何においても最優先に叶えるのが私の務めでございます。リリー様が恙無く日々を過ごされることこそが私の願いであり幸せなのですから」


 左胸に右の掌を当て座ったまま真剣な表情で頭を下げると、キルシェのその姿にリリアンヌはクスリと小さく笑みを溢した。


「キースは相変わらずね。わたくしもキースが大好きよ。貴女のおかげでいつも平穏で幸せに過ごせているわ。ありがとう」


「勿体なきお言葉ありがとうございます」


「でもね、とりあえずわたくしの話しを聞いて欲しいのだけれど」


「かしこまりました」


 その言葉におもむろに頭を上げ姿勢を正すキルシェ。


「王太子殿下とわたくしの婚約式が半年後に隣国で行われるのだけれど、随行する騎士の一人をキースにお願いしたいの。聞き入れてくださるかしら?」


「もちろんでございます。敬愛する主人あるじから直接ご指示を頂けること有り難き幸せ。リリー様をお守りする役目を私以外がなさると考えると嫉妬で荒れ狂ってしまうところでした。このキルシェ、リリアンヌ殿下の幸福のために守護の任務を見事努めてみせましょう」


「いつにも増して大袈裟ねぇ、キース。けれど有り難う。キースが常に傍にいてくれるのならば、隣国への旅路も心強いわ」


 コロコロと笑うリリアンヌの様子に、キルシェは優しげに微笑みを浮かべながら紅茶を口に含む。








「というわけで、私は殿下の護衛任務に就くことが決定したから、きっとマイクにも命令が下ると思う」


「了解。良かったじゃないか、殿下に直接お話を頂けて」


 今は昼食時間であり、リリアンヌとのお茶会が終わったキルシェは、敬愛する護衛対象を部屋まで無事に送り届けると食堂でマイクと合流した。彼もまた同じ時間帯が昼休憩となっていたため食堂に来ていたのだろう。まるで示し合わせたかのようなぴったりの時間での合流に二人は笑い合う。


 互いに昼食を頬張り、リリアンヌに会ってきたことを嬉しそうに告げるキルシェを優しい眼差しで見守るマイク。

 そして隣国への随行の話を勝手にマイクも選出されるだろうと決めてかかっているキルシェの言葉にも、彼女の相棒は素直に頷いた。だがそれもそうだろう。リリアンヌの護衛任務でキルシェとマイクが外されたことは一度としてないのだから。特にこのペアを組ませると安心安全とまで言われる組み合わせなのだ。リリアンヌを溺愛する両陛下がそんな存在を外すわけがない。


「そうだね。とても有り難いことだ。とても。私はいつまでもリリー様をお守りしたいよ……たとえ隣国へ嫁いだとしても」


 苦しそうに眉根を寄せて小さく笑う相棒が痛ましく、マイクもまたそれを苦しげに見つめながら口を開いた。


「お前、もしかしてそのまま王女殿下について行く気なのか? ここには戻ってこないのか」


 チラリとマイクに目を向け、そのまま手元のフォークに視線を落とすと、キルシェはしっかりと頷き、再び顔を上げる。その表情は淀みなく、意志を固めたものだった。


「私は、私を必要としてくれる方の傍に生涯ありたい」


「そ、れは……ベルザー伯では、ダメなのか?」


「あの方は私を不必要と断じた。結婚初日にね。そして宣言通り、私と関わることなく今まで過ごされているよ。自分がとても惨めなんだ。愛する人は別の女性を愛しこちらに見向きもしない。けれど私を必要としてくれる人達もいる。この城の仲間たちや恐れ多くも王族の尊きお方々だ。特に王女殿下は私を重宝して下さる。そんなの、私を必要として下さる王女殿下のお傍にいたいと願うのは当然でしょう?」


「そんな……お前はてっきり幸せな結婚生活を過ごしているのだと……」


 悲壮な顔で額を抑え呻くマイクに、キルシェは自嘲した。


「幸せな結婚生活を送っていたらこんな早くに職務復帰しないよ。ランス様は私のことなんてこれっぽっちも興味のないお方だ。現に私のこの職務についても何も知らなかったようだよ」


「……は? どういうことだ、それは」


 悲壮な空気から一転、今度は剣呑な雰囲気を漂わせ身を乗り出したマイクに、キルシェは「よくこんなにコロコロと空気を変えられるなぁ」と呑気なことを考えてしまう。


「そのままの意味だよ。先日の夜会でね、私が近衛の仕事をしているところを初めて見たようで、陛下方のお傍に控えているのを見てとても驚いていたよ。仮にも妻になった人間のこと、何も知らない……いや、知ろうとしてないのがよく分かった瞬間だったね。あれで踏ん切りがついたんだと思う。今はだいぶ心が軽い」


「いや、でも……そんなはず……」


「マイク?」


 ピリピリとした空気はいつの間にか霧散し、清々しい顔をしたキルシェの前には視線を左右へと彷徨わせ動揺しきっている己の相棒の姿。そんな彼をどうしたのかと不安そうに覗き込むと、マイクは言いにくそうな顔をして、それでも意を決したように言葉を紡いだ。


「あの、さ。キースが刺されて倒れた時、真っ先に駆け寄ったのがランス様だったんだよ。必死にキースの名前呼んで抱き寄せてさ。見てるこっちが泣きたくなるぐらいだったよ。だから、俺は今のキースの話を聞くまでは大事にされているんだとばかり……一体どうなってんだ?」


 そんなはずはない、とキルシェは即座に否定する。


「『大事に』っていうのがどの基準で言ってるのか分からないけど。でもこれだけは言っておくよ。ランス様と顔を合わせることなんてこれまでほとんどなかったよ。顔を合わせても一瞥されて終わるか侮蔑されるか説教されるか、だ。刺された時に駆け寄ったのは……きっと仮にも妻だから、だろうね。それ以上の意味はないはずだよ。あの方はあれでも体裁は気にするようだし」


 告げながら俯いたキルシェを言葉もなく茫然と見つめたマイクは、数瞬の後、くしゃりと表情を崩し、今にも泣きそうな顔を両手で覆ってテーブルに肘をつく。


「ごめん、キース。今まで辛い思いしていたのに気付かなくて。何が相棒だ。キースが苦しんでいたのに呑気に幸せを願っていたなんて」


「いやいや、なんでマイクが謝るんだよ。それは相棒の仕事じゃないだろう? こうやってまた一緒に仕事できることが私の今の幸せなんだから。でも、私の幸せを願ってくれてたのはとても嬉しいよ。いつもありがとう、マイク」


 相棒というだけでここまで心を砕いてくれていたのかと、嬉しさと感謝と感動が込み上げてきて思わず涙を浮かべてしまったキルシェを見て、マイクは一つ大きく頷くとキルシェの手を取り握り締めた。


「キース、お前が隣国へ行くというなら俺も一緒に行こう。王女殿下の騎士としては行けないから、お前は侍女として行くのだろう? それなら俺は職を辞してあちらの王城で働けるよう文官にでもなれば良い。あちらの騎士見習いとして一から入団し直すのも良いな。俺はいつでもお前の相棒で味方だ」


「マイク……ありがとう」


 熱心に語りかけてくる彼に、相棒とはそこまでしてもらうものだろうかという疑問が首をもたげるが、それでも味方がいることは心強いなと考え始めたキルシェ。しかし彼女が頷こうとした瞬間、不意にマイクに握られていた手が離れ、腕を引かれて後ろに倒れそうになり慌てて席から立ち上がった。


 そして背後からかかる声に反応して体が強張る。


「その必要はない」


 聞いたことのある声。焦がれて止まない最愛の声。なぜここに、なぜ私に声をかけた、なぜ今……全ての疑問をその目に込めて声の主へとキルシェは恐る恐る振り向いた。


「ランス……」


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