異世界で少女に初めてを奪われた話

東京都在住

第1話

 バイト先へ向かうのに、歌舞伎町一番街の門をくぐった筈だった。

 スマートフォンを手に連絡を返しながらいつもの道を早足で歩いていた。横断歩道の赤や青も知ったことではない。もはや通勤路ともあれば見知ったもの。視界の端で色が変わるよりも周囲の人々が進んだ気配で渡るように、視線を画面に遣ったまま、確かな足取りで職場へ向かう。

 右に曲がり、左に曲がり、ショートカットの小路に入る。すると喧騒が少し収まる。遠くから信号の変わる音や開けられたキッチンの窓から仕込みの音が聞こえる。さて、居酒屋の赤提灯、アダルトショップの看板の下、ショットバーの前を通り、もう一度曲がればすぐだと顔を上げた。

 ――え?


 その瞬間、近枝正近は言葉を失った。

 高い青空。一面の砂漠。聳え立つ巨塔。

 ――ある筈もない光景が目の前に広がっていたからである。


「は? ・・・・・・」


 脳が処理することを拒否している。そんな感覚だった。突如現れた異空間についに自分の頭がイカれてしまったかと絶望しかけたが、何度瞬きを繰り返しても、頭を振ってみても、頬を抓ってみても、どうやら今起きていることが現実だと突き付けられるだけだと理解して、そのうちに諦めた。それから「・・・・・はあ?」と怪訝と憤怒を織り交ぜた声をもう一度、落とした。

 当然拾う者はいなかった。

 ただ呆然と広がる光景を認めた。何なんだよ、どうなってんだ、と、気を抜けば意識を失いようになる現状を整理したかった。

 俺はバイト先に向かっていた筈で、


――そうだ。バイト先に連絡しなければ!


 スマートフォンを尻ポケットの隙間から取り出して連絡を試みたが、ホーム画面に現れるアイコンは圏外を現していた。

 お約束かよ!

 と心の中で突っ込んだ。

 それでも藁に縋る思いで片っ端からアプリを起動していく。どれか一つでも起動するものがあれば、あれば――・・・・・・全滅。取り掛かる前から薄々分かっていたので特段、驚きはしなかった。ただ、全てを試したあとで、どうしようもない心細さが押し寄せてくるのは分かった。


 知らない土地、見たことのない景色を目の前に一人である。大の大人が半泣きにもなるだろう。一体ここがどこかすら分からないのだ。自分の立っている現在地が分からないことがどれだけ"怖い"のかを、近枝正近はその時身をもって初めて知ることになった。


 スマートフォンが常に傍にある時代を生きてきた身分からすれば、現在地マーカーで自分の場所を示してくれない事態は、異常事態と認識するに値する。

 アプリを多数同時起動したせいで減ってしまった充電にはいっそ潔さすら感じながら、俺は、世界のすべてが今、自分を陥れようとしているような、無機物も有機物も関係なく、絶望を与えんと一揆を起こしているのではないかという、気狂い一歩手前の妄想に駆られていた。そのうち充電すら切れてしまうだろう。そうなれば文明の利器スマートフォンもただの黒くて四角い金属塊に過ぎない。

 行き場のない感情を八つ当たりするように、クソッ!と悪態を吐いてスマートフォンを地面に叩きつけた。さながら降りたての雪を連想させるほどに軽やかな砂場は、投げられたスマートフォンを包み込むようにその表面形を変えていく。


「ちょっと待て!」

 と、思わず叫んで沈みゆくそれに手を伸ばして引き上げた。さすがに電源が切れたからと言って今この場で捨てるのは忍びない。外部との通信が遮断された今、意味がないと分かっていても、手放しまうのは非常に心許ない。言うなればお守りだった。

 通信環境さえあれば無敵であるスマートフォンを手にすることによって、「外部との通信が可能になるかもしれない」という希望を抱き続けられる。現状において、その心の拠り所があるとのないのとでは全く違う筈だ。自身は別な世界から来たのだと、現実世界との繋がりを感じることが出来る唯一の物体でもある。黒くて四角い金属で出来たお守りを拾い、ついた砂を払い落とす。

 二度と手放してなるものか、とスマートフォンに誓って尻ポケットに仕舞った。


 途端、視界に網が掛かった。驚いたように叫んだが、もがいてみても視界の網は晴れない。じたばたする四肢が引っかかる感触と蜘蛛の巣のような網目が視界に映ることで初めて、自分が「捕らわれた」ことを知った。おい、どうなってんだ!と、いるであろう捕獲主に向かって抗議の声を挙げたがそんな抵抗むなしく、宙に浮く感覚があった。驚嘆の連続に、よもや叫ぶくらいしか出来ない非力な自分に、改めて泣きそうになった。その主が誰なのか、自分が今どうなっているのか、全く分からない。某私立有名大学を出て、博士号を取っている自分でも「分からない」という感覚に、確かな恐怖を覚え始めた。


 近枝正近は、ただ怖かった。自分はこれからどうなるのだろうか?ここはどこなのだろうか?

 俺に乱暴する気だろう、エロ同人みたいに! 

 そう心の中でふざけても、声に出す元気はなかった。

「誰か助けて」

 と落とした声に呼応する者は、誰もいなかった。

 後は静かに、駱駝のような生物の背中から釣られ、揺られて――


 何者かの悲鳴のような音と、倒れる衝撃が走った。


 近枝正近は地面に叩きつけられ、全身をなげうった。ズブズブ、とゆっくり砂に侵食されていくのから逃れるように四肢をばたつかせるが網が引っかかってどうもうまく動けなかった。「助けてくれ!」と泣き面かもしれなかったが、そんなこともうどうでもよかった。砂は腰をまるまる飲み込んでしまっていた。大人の男という挟持を捨てた決死の命乞いだった。


「はいよ」


 軽やかな声が頭上から振ったと思えば、誰かに網の隙間から突き出た腕を引っ張り上げられた。

 いともたやすく身体は引き上げられ、四つん這いで咳き込む俺の網を引っ掻くように、鋭利なもので網が振り払われた。

 砂を吐き出しながら見上げると知らない少女が立っていた。目を丸くしながらこちらの様子を眺めていたかと思えば、落ち着いたのを見計らって、小首を傾げて告げた。


「だいじょうぶか?」


その顔は、変な生き物を見た時みたいな、驚いた笑いを含んでいるように見えた。


「お、あ、おう・・・」


 しどろもどろで言葉を返したが、見慣れた、人間の女の子だった。特筆すべき点といえば、エスキモーのような格好をしていることと、耳垂帽から流れる長髪が透き通る水色をしているくらいだった。

 声色やたどたどしい発音は10歳くらいの女の子を連想させた。よくある、「可愛らしい」女の子だった。


「全身全霊のいのちごい。なかなかにこっけいだったぞ」


 呆然とした近枝正近と目を合わせた少女は、ふるふると肩を震わせた。見慣れた少女の姿に安心を取り戻したものの、しかしやはりビックリとハテナの応酬の中で、何故助けてくれたのか、君は何者なのか、ここはどこなのか、――聞きたいことがいっぺんに浮かんだ近枝正近の思考回路はショート寸前だった。

 少女を指差し、パクパクと鯉のように口を動かしたかと思えば、額に手を遣って「ちょっと、待ってくれ」と声を出した。


「またない」


 少女の返答は無慈悲なものだった。砂場に座り込んだ俺を引き上げたかと思えば、磁力か浮力か分からないが砂場から浮いた金属製の乗り物に乱雑に乗せて言った。


「お風呂にする?ご飯にする? ・・・それとも、あたし?」


 冗談である。

 異世界で故郷の冗句を耳にしたことに謎の感動を覚えた俺は再び泣きそうになってしまった。

 強いて言えば、「あたし」が良かった。まずこの少女が何者なのかを知りたかった。「・・・あたし、で・・・」と、俺が捻り出したのは疲弊した半泣きの声色だった。

 男気のおの字も感じられない自身の情けなさに、正直、愚図りたかった。少女は前を向いて運転、あるいは操縦しながら、ケラケラと鈴の鳴るような声で笑った。


「さすが、かぶきちょうのちか」


 砂で汚れた襟、皺苦茶のワイシャツ、光沢を失った革靴。

 確かに、俺は歌舞伎町のホストだった。近枝正近。

 泣く子も黙る『月3億の男』、CHIKAだ。


「なんで、知ってる」


 混沌の化した頭を押さえつけながら、やっとのことで聞いた。質問の優先順位が付けられない頭では、会話の流れに沿って聞くのが最適解だろう。どうせ疑問しか出てこないのだから。


「そりゃあ、だって。ちかはな、UFOにさらわれたんだぞ」


「え?」


 こちらの様子が可笑しいのか、またもや少女はコロコロと笑う。


「ちかはな、UFOにさらわれたんだ」


 もう一度、繰り返す。同じ台詞を聞いても理解が及ばなかった。

 なんだって?UFOに、攫われた?

 唖然とするしかない俺を察してか、少女は笑いながら言った。


「でも安心しろ。わたしがおまえを、かぶきちょうに帰してやるから」


 俺は不覚にも、胸が高鳴ったような感覚を覚えた。


 10歳の女の子の横顔がこれほど頼もしく見えたのは、

 近枝正近にとって、人生で初めてのことだった。

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