一番の願い事

増田朋美

一番の願い事

今日は、七夕祭りの日、年に一度、織姫と彦星が顔を合わせる日だという。それに

合わせて、自分の一番の願い事を、短冊に書き、笹の葉につるす。

その日、澤村禎子は、富士駅前にある、商店街の七夕祭りを訪れていた。

あちらこちらに、短冊を付けた笹の葉が置かれている。あんなもの、ただの子供だましじゃないのかと思っていた禎子だが、今はなんだかその短冊を出したいとさえ思ってしまうのだった。

その理由は、これだった。しばらく太君と暮らしていたのだが、太君は再び福祉局に持っていかれてしまったのだ。

その時の事は、自身でも覚えている。その前日に、太君が、ミルクを飲まないで大きな声を出して泣き出したのだ。いくらミルクをあげても、飲んでくれないので、しまいには腹が立ってきて、

「もう、いい加減にしなさいよ!」

と、太君を思いっきりたたいてしまったのである。

それを、運が悪いというかなんというか、マンションの隣の部屋に住んでいたおばさんが、回覧板を届けにやってきてしまったのだ。そのおばさんが、太君をバシン!と平手打ちしてしまったのを、まさしく目撃してしまった。

「あ、またたたいてる。澤村さん。いくら育児に悩んでいても、子どもに暴力をふるうことはやめましょう。」

隣のおばさんはそんなことをいった。

「お願いです。もうたたくことはしませんから、福祉局にだけは言わないでください。」

禎子はおばさんにそういったが、近頃は子供を守ろうという風潮が強すぎるためか、おばさんは、いいえだめだという顔をした。

「ダメよ、澤村さん。だって太君は、飲み込む力が弱いから、それをちゃんと踏まえたうえで、ミルクを飲ませなくちゃ。ミルクを飲むのも、辛抱強く愛情をこめてやらなくちゃダメじゃないの。力が弱いんだから飲むのだって、時間がかかるのは当たり前でしょう。」

説教を始めるおばさんに、禎子はおばさんのいう通りだなあと思った。何もかも自分が悪い。自分がかっとなって、太君をたたいてしまったのは、反省しなければならなかった。

「澤村さん。あなた、日ごろから福祉局にマークされているようだけど、どうしてそうなっているのかわかる?あなたが、日ごろから、太君の事、たたいたり揺さぶったりしているのは、このマンション中に広まっているのよ。それでは、太君はどんな気持ちがすると思う?一番愛してほしいお母さんに、そうやって叩かれたり怒鳴られたりして。そこを考えてもうちょっと、慎重にやらなきゃだめよ。」

そうか、バイオリニストとしてのキャリアは長いが、お母さんとしてはまだ一年生なのだ。それを忘れてはならない。すぐにかっとなって、太君をたたいたり、大声で

怒鳴りつけたり。それをするたびに二度としないと誓いを立てるが、その誓いも三日持てば上出来だった。

「ねえ、泣いてないで、ちゃんと考えて頂戴。そうやって、すぐにてを出したり、怒鳴ったり、そんなことばっかり繰り返していたら、太君はどう思う?澤村さん。あなた、何回も悪いところは治すからって言って、何も治ってないじゃないの。やっぱりあなた、母親不適格、、、。」

「そのあとをいうのはやめて!」

と禎子は強く言ったが、其れと同時に母の大声にびっくりしたのか、太君はまた泣き始めた。

「ああ、ごめんねエ。ママは怖い人だねエ。ほら、おばさんのところにおいで。」

おばさんは、そういってひょいっと太君を抱き上げた。そして、そばにあった哺乳瓶でにこやかに中身を飲ませた。と、どうだろう、今度はやすやすと飲んでくれる。

「どうして、、、。」

禎子は悔しくなって、ばしんと膝をたたいた。

「澤村さん。そうやって、悔しがってちゃだめよ。それをする暇があったら、あたしがあやしているのを見て、勉強するとか、そういう風にしなくちゃ。」

おばさんは、そういうが、禎子はどうしてもそれには、至らないのであった。

「どうしてよ!あたしは、一生懸命やっているけど、どうしてもそういう風には行かないのよ!」

「澤村さん。あなた、もう子供じゃないのよ。そんな風に、自分の感情にとらわれっぱなしじゃ、子どもと同じようなものじゃないの。あなたはお母さんなんだから、いい、太君という子供を育てるお母さんなのよ。そんなお母さんが、そんな風に自分の感情を処理できないでどうするの。ただでさえお父さんもいないで、可哀そうな環境なのに。そういう時こそ、お母さんがしっかりしなければだめじゃないの。」

隣のおばさんは、真剣に話している。其れは、太君の事を思って言っているのだ。だけど、澤村禎子は、ただ、お説教を頭ごなしに受けている様にしか見えない。ただ、おばさんが、頭上ででかい声を出して、自分を怒鳴りつけているだけなのである。

「澤村さん。親がそうやって頼りなかったら、子どもは不幸になるだけでしょ。もっとドーンと構えて生きる様にしなくちゃ。お母さんとはそういう物よ。あたしも、娘を育てたときそうだった。もう、娘に何かあった時は、すべてのものを捨てる覚悟で臨んだ。そのくらいしなきゃダメ。澤村さん。泣いてちゃダメ。ほら、早くたって、太君を抱いてあげて!」

と、隣のおばさんは一生懸命説得しても、太君の母はなくばかりだった。

「澤村さん!」

もう一回声をかけても効果なし。

「澤村さん。もう、ダメね。お母さんがこんなに頼りなかったら、君の将来はどうなっちゃうんだろう、、、。」

おばさんは、大きなため息をついて、眠ってしまった太君をソファーの上に寝かせ、スマートフォンをポケットから出し、こう話を始めた。

「もしもし、あの、ちょっと近所の男の子なんですが、彼の事について相談がありまして。あのですね。ミルクを飲もうとはするんですけど、力が弱くてしっかり飲み込めないんですよ。ええ、母親と二人なんですけど、母親のほうが、あまり成熟していないと言いますか、なんといいますか、そのせいで、ミルクを飲まないその子をたたいたり、揺さぶったりして、其れが続いてしまっているものですから。ええ、あ、怪我ですか。けがは今のところしていません。でも、そうですよね、予防が何より大切ですからね。わかりました。お願いします。住所は富士市、、、。」

おばさんは、其れを言って電話を切り、

「すぐ様子を見に来るって。」

とだけ言った。

暫く沈黙は続いた。その中で太陽が、しずかに動いていき、だんだんに西に傾いていくのがわかる。

太陽が夕日と呼ばれるまでに姿を変えたころ、禎子の部屋のインターフォンが鳴った。

「こんにちは。」

やってきたのは、児童福祉士と呼ばれるという人たちである。児童福祉士は、またですか、澤村さんといいたげな顔をしていた。

「また、澤村太君の件ですか。」

児童福祉士は、太君の体をチェックした。

「すみません、このあざは何でしょうか。」

太君の背中には黒あざが付いていた。

「あ、ああそれはですね。太があまりにも大きな声で泣くものですから、思わずうるさいと言って、、、。」

禎子はもう正直に答えるしかないと思い、小さな声でそう答えた。

「何を言っているのですか。赤ちゃんですよ。もともと大きな声で泣くものでしょう?そんなことでこんな大きなあざを作るなんて、澤村さん、私たちは要注意人物として、あなたを監視してきましたが、こうたびたび事件を起こされては、考えざるを得ません。太君の着衣で隠せば、虐待の跡を隠せるなんて言う甘い手はすぐにばれてしまいますよ。澤村さん、少し太君はこちらで保護させてもらえませんか。期間は決めていませんが、あなたが二度と彼に暴力を振るわないと誓いを立てても、長続きしない事は、近所の方からよく聞いていますので、、、。」

自分では、子どもが邪魔だとか、そういう事は一度も思ったことはないのに、なぜか、そういう悪人扱いされてしまうのであった。そういう子供をめぐって、凶悪な

虐待事件が後を絶たずにテレビで放送されているせいもあるのだろう。

「そうですよ、連れて行ってもらった方がいいわ。私、隣の部屋に住んでますけど、時々壁越しに、ピッシャンぴしゃんとたたく音が聞こえてきて、ああ、太君はかわいそうだなって、何ど思ったことか。」

隣のおばさんの一言で、児童福祉士たちは顔を見合わせた。

「わかりました。では太君は、こちらで保護します。」

禎子は思わず、

「待って!」

と声を上げるが、其れは無視され、息子は児童福祉士に抱っこされて、そそくさと部屋を出て行ってしまった。近所のおばさんも、これでよかったと言いながら挨拶もしないで、部屋を出て行った。

部屋に残されたのは禎子一人になった。しばらく子供のように、涙がなくなるまで泣きはらした。部屋が真っ暗になった時、ようやく泣き止んだ。なぜか今までと違う感覚。平たく言えば腹が減っているのだった。

すぐに冷蔵庫を開けてみるが、パンも即席めんもジュースさえもない。今日買い物に行くのを忘れてしまっていた。仕方ないコンビニで、なにか買って来よう。そう思って、彼女は、鞄を取り、外へ出て行った。

コンビニまでは歩いてすぐだった。のだが、その日は七夕祭りで通り道である富士駅前商店街は、歩行者天国になっていて、大勢の人でにぎわっていた。近くの公園では、コンサートが行われていた。何処へ行くにも人がたくさんいて、みんな楽しそうに見える。なぜ私だけこんな目に合うんだろう。禎子は、下を向いて人垣の中を歩いた。

「よう、久しぶりだな。」

振り向くと声がする。声の主は、あの、杉ちゃんであった。

「お前さんは確か例のバイオリニストの、」

「ええ、そうよ。澤村禎子。」

杉ちゃんに向かって禎子はにこやかに言った。でも、完全ににこやかにする気にはなれなかった。

「赤ちゃん、太君だったっけ、蘭が名前を付けたんだよな。」

と、杉三は言いかけて、

「また盗られたか。」

とカラカラと笑った。深刻に受け取るよりも、そうされたほうがよほどいいのだった。禎子も、今まで閉じ込めていた感情が、また一気に燃え上がり、涙をこぼしてしまった。

「まあ、生きがいを亡くしたのと同じようなもんだよな。お前さんはただ不器用な母ちゃんであるだけで、何も悪くないって、アリスさんも言ってた。」

「杉ちゃんごめん、あたし、今回は本当に、、、。」

もう、我慢が出来ないのか、禎子は声を上げて泣き出してしまう。

「その苦しさを忘れるなよな。」

と、杉三が言った。

「其れさえ覚えておけば、太君も答えてくれるようになるからな。」

そうね。ありがとう杉ちゃん。そう言ってくれるなんて。いままでの人が全部、暴力をふるっているあたしが悪いと言い続けてきたのに。あたしは虐待何てするつもりは全くありません。それをみんなにわかってもらいたいだけです。

「来い。」

杉ちゃんは、そういって、禎子の手をぐいと引っ張った。

「ついてこい。」

と言って、車いすを動かし始める杉ちゃん。何処へ連れていくのと思って、急いでついていく禎子。

やがて二人の目の前に、大きな笹の枝が見えた。

「僕は字が書けないが、お前さんはかけるだろ。」

杉ちゃんは、一枚の短冊とボールペンを禎子に渡す。

「これに一番の願い事を書いてみろ。そして、年に一度しか会えない織姫様に、託せ。」

「そうね。」

今の禎子には、この行事は子供だましという気はしなかった。それに託してしまうことも、あるいみ重大なことだった。いくら失敗しても人間は誓いを立ててまたやり直す以上の事は出来ないのだから。




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一番の願い事 増田朋美 @masubuchi4996

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