第2話

「あそこに行って、僕たちは誰でもない存在になるんだよ。役割を演じるためだけの人間関係と、それによって構築された社会を抜け出すのさ」

それは大学生くらいの青年が、バスの中で僕に放った言葉だった。彼も灰色だった。



消え去ってしまったあの灰色の老人を見てから、僕は何度か灰色の人間をバスの中で目撃した。僕はその度、彼らに釘付けになっていた。どの時も、その存在に気づいているのは、乗客の中で僕だけのようだった。だからこそ、僕は灰色の人間たちに関心を向けないではいられなかったのだろう。彼らが僕に何かメッセージを送っているように感じたのである。しかし、その内容がどんなものであるのかまではわからなかった。だから僕は観察を続けた。



スーツを着た、恐らく社会人の若い女性がバスに乗っていたこともあった。僕と同じくらいの年齢に見えた。彼女も、外界と身体の境が曖昧になるほどの、雑な灰色で塗りあげられていた。



彼女は痩せて、虚ろな目をしていた。そうして灰色の人間たちがそうするように、彼女も外をただぼうっと眺めていた。時折、眉をひそめ、誰かに別れを告げる時のような表情をする。あの時の灰色の老人と同じように。



スーツの女性は茶髪だった。灰色に塗りつぶされていてわかりづらいが、たぶんそうだ。その髪に、バスの外から射し込む光が当たっている。その様子全てに、灰色が覆いかぶさっており、何とも言えぬもの寂しさが浮かび上がっていた。しかしそれはとても美しかった。



きっと彼女も、あの停留所で降りるのだろう。そこには一体何があるのだろうか。僕はそのことを常に頭の中で転がしていたが、しかしその停留所で降りる、ということはしなかった。「そこ」にはまだ、僕が行くべきではないような気がしたからである。そこに用はない。僕は灰色の人間たちのように、そこに行く目的を持っていないのだ。そのような考えの根底には、純粋に恐怖があった。もう、戻ってこれなくなるかもしれないという疑念が、緊張とともに心を支配していた。



バスの中の空間はすっかり変化してしまっていた。ここは生活の停止した、人生の狭間だったはずだ。しかし、堅牢な壁はドロドロと溶け出し、僕は飲み込まれて窒息してしまいそうだった。イヤホンから流れる音楽は耳障りだった。



あの停留所にバスが停まる。やはり女性はそこで降りるようだ。降車口まで歩いていく。僕はそれを見ている。



その時、彼女はちらと僕を見たのである。空気の流れが、一瞬で停止してしまったかのようだった。僕と灰色の女性の目があった。くすんだ黒い目で、あなたが私を見ていたことに気づいた、ということを伝えていた。



僕は何かを言葉にして外に出そうとした。しかしそれは、一瞬の出来事であり、結局口を開くことしかできなかった。僕自身、何を伝えようとしたのかはわからない。



彼女は僕のその動作を見て、ほんの少しだけ笑ったような気がした。寂しさが刻まれた表情に、一雫だけの変化があったように思われたのだ。灰色の彼女は、最後に、私の存在に気づいてくれる人がいてよかったと、僕に語りかけてきたのではないかと感じた。そのような想いが、波のように押し寄せてきた。



そうして彼女も、霧にように消えていった。



その後も何度か灰色の人間たちを見た。そして皆、同じ停留所で降り、どこかへ消え去っていった。



僕はあの日、目があった灰色の女性を忘れられなかった。その日から、灰色の人間たちと僕は、何か密接なつながりがあるのではないかと思い始めた。彼らをバスの中で眺めるだけではなく、どうにかして関わりを持たなくてはいけないと僕は思ったのである。



そしてある日、僕はついに灰色の人間と接触する機会を得た。僕の隣に、たまたま大学生くらいの青年が座ったのである。僕は意を決して、灰色の彼に声を掛けてみることにした。



「僕は君が見えている。ところで、君たちはどこに行こうとしているんだろう」



彼は目を見開き、こちらを見た。

「僕が見えているだなんて嬉しいな。僕、人と話すの、久しぶりだよ。自分の声を聞くのも、なんだか懐かしい」



彼は早口で僕に喋りかける。彼の声はどこか遠くから聞こえてくるような感じがした。大きな鐘から響いて流れてくるような冷たい声だ。それは誰とも共鳴し得ない孤独だった。



「こんなバスの中で、最期にこうして誰かに声を掛けられるなんてね。少し早口なのは許してほしい」

彼の話し方を聞いていて、なんだか僕も落ち着かなくなってきた。そこには不思議な存在と接していることによる興奮もあった。



「誰でもない存在になるんだよ。役割を演じるためだけの人間関係と、それによって構築された社会を抜け出すのさ」



「誰でもない存在?」

僕はすかさず質問する。



「誰もが役割という仮面を装着して生活している。自分は、ここではこういう役で立ち回らなくちゃいけない、この人の前ではこういう人間でいなくちゃいけない、そういう風にね。しかもその仮面は外せない。一度装着してしまったら、もうそこでは二度とほんとうの自分の顔に出会うことはない。僕らはそういう人間関係の中で生きているんだ。自分のほんとうの顔ってどんなだっただろうって、皆わからなくなるんだ。皆、仮面を要求されない誰でもない人になりたいのさ。そして僕はそうなろうとしているんだ」



彼は笑った。僕の視界は彼で埋まっており、全て灰色だ。その灰色は、誰でもない存在になろうとする者の色なのかもしれない。白でも黒でもない寂しそうな色。僕はその色が好きなのかもしれない、と思った。綺麗だと感じた。



「皆、誰でもない存在になりたがっている。それはやっぱり、僕も含まれているんだろうか」

僕は、今の自分の生活に関わっている人たちのことを考えながら聞いた。それは関わりなんて呼べるものではない、一方的で無機質なつながりで構成されたもののような気がした。

「もちろん、君も含まれている。人と関わっていながら、孤独をどこかで感じている。誰もが偽りの自分を演じていて、抱えている孤独の溝は深まっていくばかり」

僕は孤独という言葉が心にすっと入っていき、そしてどこかへ出て行くのを感じた。そして心は真っ二つになった。その中に溝があったのを見た。



「誰でもない存在になって、孤独を消し去ることはできるのだろうか」



「それは君次第だ。でも一つ言えるのは、僕たちが繰り広げている、演劇のような人間関係の中にいる限り、孤独はいなくならないってことだ」



そうして彼は立ち上がった。いつの間にか、いつもの停留所に停まっていた。彼は僕を寂しげな目で見つめてから、別れの挨拶をする。



「それじゃあ、またどこかで」



僕はそれに頷くことしかできなかった。

彼はバスを降り、消え去った。


僕は人生の隙間から、自分の人生を眺めていた眺めていた。




―今日、僕はいつものようにバスに乗っていた。バスに乗ってから、雨が降り出した。シャープペンシルで引っ掻いた線のような雨が、風に吹かれて頼りなく降り注いでいる。僕は傘を持っていなかった。朝の天気予報は雨を伝えていたが、それでも僕は傘を持たずに出掛けた。



バスの乗客に灰色の人間はいなかった。誰もが人形のように見えた。バスの揺れに合わせて、ぎこちなく震えている。誰も彼も、孤独だった。



耳につけているイヤホンから聴こえてくる音。もう雑音にしか感じられなくなっていた。何を喋っているのかわからなかった。愛についてなのか戦争についてなのか、僕にはどうでもよく感じられた。



僕はまた、僕に関わる人たちに思いを巡らせた。どの人も、付箋何枚かで済んでしまう情報しかない。彼らの声は、よく聞いているはずだが、いまいち思いだせない。何か靄がかかってよく見えない、遠い存在だった。



窓の外を見た。ごちゃごちゃしている街はなんだか空虚に見える。堅牢なようで、簡単に壊れてしまいそうな柵があるだけだった。そんな街の中を、僕たち人形が暮らしているのだ。



バスが少しずつ目的地に近づいていく。僕は自分の掌を見る。灰色ではない。普通の人間のような肌色だ。自分が目にしてきた、灰色の人間たちとは違う。しかし、僕は今日、あそこで降りるつもりだ。



人形のような乗客たち。僕は彼らの社会を抜け出し、誰でもない存在になろうとしている。誰かが僕を見ている。僕はそれに気づいていないフリをした。僕がそうだったように、その誰かも僕を見て、何かを感じているのかもしれない。灰色が見えているのかもしれない。



バスがあの停留所に停まった。僕は立ち上がる。体が重い。体の重さを、僕は神経を研ぎ澄まし、しっかりと感じる。そうして歩き出す。僕は人形の運転手に礼を言う。運転手はそれに小さな声で応える。誰かがまだ僕を見ている。僕はバスを降りる。





そうして、僕もまた、霧のように消えていった。

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バスに乗った灰色の人 藤ゆら @yurayuradio

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