バスに乗った灰色の人

藤ゆら

第1話

僕はいつものバスに揺られていた。曇り空に溶け込んだ、灰色の街の中を縫うように進んでいく。目的である街の中心地へ向かうため、僕はよくこのバスを利用していた。


だいたいバスの中は人がそれなりに乗っている。座席は埋まっており、何人かは立っているくらいの混み具合だ。誰もが仮面をかぶったように無表情である。皆、手元のスマートフォンか、窓の外をぼうっと見ている。

この空間だけが、人びとの人生から切り離されているようだ。ここは人生の隙間であり、生活と生活の狭間のようだ。僕はバスの中で、よくそんなことを考えていた。


僕は腕時計を見る。午後の2時を少し過ぎたくらい。しかし特に時間を気にしているわけではない。きっと多くの人がしている、特に意味のない動作の一つだ。


人生の隙間の中で、時間を有意義に使うことは、僕にとって困難なことだった。携帯電話を見ても、無駄にバッテリーを消費するだけのような気がするし、文庫本なんかを読んでみても、なぜかこの空間の中では、言葉がまるで異文化のもののように感じられてしまうのだ。バスの中での過ごし方が、僕はなんだか苦手だった。


待ち受ける停留所の一つ一つに、誰かが降りていく。言葉を形作るかそうでないかくらいの声量で、運転手が「ありがとうございました」と言う。そうして乗客は、一時停止していたそれぞれの人生をまた動かし始める。隙間から、僕はそれを眺めている。降車した人びとは、カメレオンのように街の色に溶け込み、姿を消していく。


それと同時に、人生から抜け出して、無機質な空間の中に誰かが入り込んでくる。僕は乗車してくる人の顔を見る。しかし目を離した瞬間に、その顔を忘れてしまっている。その表情に、人間らしさは感じられない。バスの中は、僕も含め、誰もがただ空間を占めるだけの物体として存在しているようだった。


目的地に着いた。なぜだかいつも体は重たく、僕はそれを振り払うかのように急いでバスを降りる。地面に足がついた途端、今までの生活が再び開始されることを告げるような笛の音が耳の奥で響く。僕の足取りは軽くなり、そして停留所は遠くなっていく。




雨が降り出しそうなある日のことだった。僕はいつものようにバスに乗っていた。何をするでもなく、窓から外を眺めていた。


イヤホンをつけ、薄暗いバスの中で全てをシャットアウトする。頭の中に流れてくる音楽は、外界と壁を隔てるためだけに働いており、メロディや歌詞なんかは、すぐに生き絶えて消えてしまうのだった。聴いていた音楽は何だっただろうか。思い出せない。


その時乗っていた乗客に、僕はどこか興味を惹かれたのである。そこにはどこか、心霊映像を見ているときのような、不気味さが含まれていた。


それは老人だった。60か70くらいの男性である。少し腰が曲がり、髪の毛も大半が白くなっているが、全体としては清潔な印象を受ける身なりをしていた。


僕がそんな老人のどこに興味を持ったのかというと、彼が外の風景をそのまま剥がして、身に纏っているかのような灰色だったのだ。それは、この人生の隙間である、バスの中に似つかわしくない人間だった。まるで幽霊のようである。しかし今は瞼が落ちてしまいそうな真っ昼間だったし、他の乗客もその老人を認知しているようだ。しかし、僕以外誰も老人のことを不思議に思っている人はいないようである。


小学生が塗った図工の時間の絵のように、彼は雑な灰色で染められている。全身が薄い灰色なのだ。体とそれに触れている空気の境界は曖昧になっていた。そんな老人はしっかり呼吸をしており、膝の上で弱々しい手を組んでいた。灰色の街を窓越しに見つめている。まるで古くからの友人を見ているような眼差しだった。そこにはどこか哀しさが感じられたのだった。まるで老人が別れを告げているかのように。


僕はずっと、その老人を眺めていた。僕の存在には気付かず、いつまでも外の旧友を眺めている。バスという時間の停止した死の空間にいながら、彼だけが外の動いた世界と繋がっているようだった。老人が肩から下げているショルダーバッグ。それも灰色だった。一体中に何が入っているのだろうか。僕はそれに思考を巡らせる。そしてそれに自分で驚くのだった。バスの中では、何をするにも霧が立ち込めたように途絶えてしまうのに、僕は灰色の老人に、視線を向けずにはいられなくなっていたのだ。


この老人はどこへ行くのだろうか。なぜそんなに哀しそうにしているのだろうか。イヤホンから流れていた音楽が、突然頭の中で形を成して、空間を占領し始めた。その音楽が投げ込む歌詞のように、僕の頭の中は濁っていく。灰色の老人は、何かの比喩であるかのように、僕に訴えかけてくるように感じた。

「比喩で濁る水槽」と、イヤホンは告げる。僕の頭の中も、その水槽のように濁っていった。

僕は音楽を止める前に、イヤホンを耳から剥がした。そしてウォークマンの電源を消した。


その空間は驚くほど静かだった。頭の中で爆音で鳴っていた音楽が、もしかするとバスの乗客全員に聴こえていたのではないかと思うほどで、僕はたじろいでしまう。不思議とバスの外の騒音は何かにかき消されてしまったかのように息を潜めている。それはきっと、あの灰色の老人によるものだと、僕は思った。


その老人に関心を寄せる者は誰一人いない。太った中年女性、厳しい顔つきをしたサラリーマン。それぞれが、この人生の狭間で時間を停止させているようだった。僕だけがあの灰色に染まりかけていたのだった。


バスが停留所に停まる。そこは僕の目的地ではない。灰色の老人が立ち上がる。その時を待っていたかのようにも見えるし、恐れているようにも見える。しかし、老人は歩き出す。

「○○保健所前」

それがその停留所の名前だった。灰色の老人は運転手に向かって、丁寧に一礼した。運転手は一瞥し、「ありがとうございました」となる筈の言葉の断片を発した。


老人は外の世界を向いて微笑んだ。そして地面に足をつけた。その瞬間から、灰色が街に溶け出していき、文字通り、老人は霧のようになったのである。彼の形は無くなって、ゆっくりとどこかへ消えていった。


それを目にしたのは、きっと僕だけだった。 その光景が、頭に焼き付いて離れなくなった。

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