聖石【中】
天使のように、と一目見て感じたのは間違いではないと思う。
しかし、そこには怖れを抱かせる何かがある。
神秘的な容貌ながら、それが
磨かれた白磁器を思わせる肌。背中から生えた合計四枚、つまり二対の翼。手元が光り輝き生まれた錫杖。
……これだけだったら、神秘的の一言で終えられた。
だが、やがて機械的に――――且つ、感情の宿っていない様子で俺に顔を向けた仕草が、特に人間らしさを感じられなかった。
時堕はそれから、身体をくの字に折り曲げて小さく丸めると――――。
唐突に、両腕と翼を大きく広げ、純白の羽々を舞い上げた。
「これハ…………」
生き返った、と素直に受け止めることはできない。
爬虫類に似て蠢いた瞳は、まるで宝石。
生気が感じられないそれは――――俺を真っすぐに見て――――。
「オ前、そウか……俺ハお前を…………」
錫杖を向けるや否や、無機質に言う。
「その顔は殺サないト」
時堕の声が耳元から聞こえ、逆に俺の目の前からアイツの姿が消えたのだ。
「ッ…………!?」
「ナぁ、死なナイといけなンだゼ、オ前」
首筋がヒリついた。
振り向くも、そこに時堕の姿はない。
代わりにあるのは光球。時堕の魔力の結晶。
攻撃魔法に富んでいるわけではないとクリストフは口にしたが、現状の時堕は通常時のそれではないこともあり、先のローブを着た者たちの末路を鑑みれば無視はできない。
だけど、俺が対処しきれるかどうかは別問題なのだ。
慌てて動こうとしても、気が付くと光球に囲まれている。辺りを見渡せば、時堕の動きがコマ落ちした映画のように不規則な動きをしている。
間違いない。あいつは時間を飛ばしながら動いている。
遠ざかるように動いたとしても、今度は俺の場所が戻されている。
まるで映画を巻き戻すようにしてだ。
間違いない。あいつは時間を遡らせることも忘れていない。
強制的に立ち位置を戻されることは理解した。
であれば、ただ攻撃されるのを待つだけ。以前の俺であれば、クリストフという男を知る以前の俺ならば、少しは諦めの気持ちもあったろう。
でも、あの男が俺に教えてくれたんだ。
(気に入らないな)
だけど、助かっているのも事実だ。
苦笑した俺は複製魔法を発動し、作り出した剣を何本か宙に投擲。
それは当然、当たらない。
「きヒヒッ! オイオイオイ、物騒なもンで遊ぶなヨ」
躱されて当たり前。
それか、知らない間に時間を戻されているのだ。
…………だからどうした。
「――――舐めるなよ、英雄」
やりようがあるということは、もう知っているんだ。
まばたきの合間にも迫る光球を前にして、俺はじっと目を細めた。
腰を深く構え、いつ時間を巻き戻されても大丈夫なように。
この後することに、一つの間違いも許されない。
ついでに、怖気づいても敗北だ。
「じャあナ、ボウヤ」
光球が俺の視界一杯に訪れたところで、その輝きが灰色の世界の中で煌いた。
僅かな隙間から見えた時堕の顔は、不気味なほど無表情。
得意げだった声も平たんで、抑揚がない。
それを前に、俺は光球が身体に触れるその寸前で。
「クリストフの戦い方は、エルメルでお前の攻撃を躱すのが本命じゃない」
「アん?」
俺の声を聞いた時堕の反応を見た俺は笑って言う。
次いで、俺を滅すべく近づいた光球が破裂。
何か言おうとした俺があっさりと巻き込まれたように見えた姿を見て、変貌した時堕は今も尚、その不可思議な容貌のままに点を仰ぎ見た。
「裁けタ。裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ裁けタ」
同じ言葉を繰り返す姿には、壊れた機械人形という言葉を考えさせられる。
奇怪でつい数分前までの彼は消えたみたいだった。
「エルメルを使う一番の目的は、お前の思い通りにさせないためだ」
正気じゃない時堕の背後から。
剣を手に、白磁の首筋に突き立てた。
カラン、と。
音まで磁器のように響かせてから、肌が少し崩れ落ちる。
「ッ――――ナゼ……?」
「お前が時間を飛ばすこと自体はどうしようもない。だったら、やるべきことは決まってる」
ただ、時堕に都合のいい飛ばさせ方はさせなければいい話なんだ。
クリストフがエルメルで移動を繰り返すのは、確かに攻撃を躱す名目もあったろう。しかし、それ以上に時堕にとって都合の悪い環境を生み出すことの方が有意義に違いない。
「時堕。お前が時間を止められたら話は別だったよ」
止められた空間内で好き勝手されたら、もうどすることもできなかった。
時間を飛ばすことは乱暴に言い換えれば、目にもとまらぬ動きをされていると思ってしまえばいいだけのこと。
……だけ、というには重すぎるか。
しかし、半ば投げやりな俺にそれを鑑みる余裕はない。
「まサかオ前、あイツの魔法ヲッ!?」
「だったらどうする、時堕」
返事を返してから、俺の立ち位置が巻き戻された。
光球が全体を覆っていた、あの絶体絶命な状況へと。
「ハッ! このノマま飛ばせばいいダケだッ!」
ああ、確かにこの状況で時間を飛ばせばいい。
俺は光球に包み込まれて死ぬだけ。そして時堕の勝利になる。
どうしてあいつが変貌したのか、こんな疑問はさることながら、この状況下でゆっくり考える余裕はない。
結局のところ、俺はここから時間を飛ばされることへの対応策がないといけないわけだ。
(問題は…………)
俺がエルメルを使ったということが、ブラフであることだ。
実を言うと、今に至るまで使ってみようと試みたことは当然あるし、ここに来てからも何度だってあった。
でも、使っていない。
使えたところで、一回か二回だって分かっていたからだ。
またもう一つ情報を付け加えるならば、試そうとしただけで負担が大きかったことか。今は何とか顔に出ないよう気を付けているが、心臓が強烈な痛みを訴えかけている。
以前、生き物を複製しようとしたときとも違う、でも大きな反動に他ならない。
そのため、使うべき瞬間を見定めなくては。
(さっきは力技で逃げられたけど、二度目はない)
身体強化に物を言わせて脱したせいか、一度だけでも負担が大きすぎる。
つまるところ、あまり長くは戦えないということだが……。
――――さて。
俺が冷静に、意外にも落ち着いていられたのは理由がある。
それは。
「素直ニ死んデくれ」
時間が飛ばされても、最初の一度だけならどうにかなると確信していたからだ。
ふと、全身を灼ける痛みが駆け巡る。
苦しくて、逃げたくなるような痛みだった。
……ほんの一瞬だけ、皮膚の表面に襲い掛かったそれも、痛みが駆け巡ったときと同じく不意に、すべて忽然と消え去ってしまう。
「ッ……くだラない……クダらなイことをするじゃナイか……ッ!」
「時間を飛ばされたせいで死んだと思ったが、俺はどうして生きてるんだ」
「惚ケるかよ、あノ女のガキが」
時堕の肩口は傷ついていた。
今更ながら、この状況下で時を戻したところで傷は癒えないらしい。俺のダメージもそうだし、こればかりは幸いだ。
「あノ剣、検討違イに放り投げテタんじゃナいナ、オ前」
俺が無造作に放り投げていたように――――見せかけていた投擲のことだ。
「どうした。俺を仕留めたと思ったところにでも落ちてきたか?」
「…………不愉快にモな」
「そりゃ残念だけど、だから時間を巻き戻したんだろ」
「気に入ラナい。俺が時堕の所以を見せさえすれば、今頃お前は――――」
「いや、お前は時間を飛ばせなかったよ。時間を飛ばして剣を交わしたところで、俺がそこを狙うのを分かっていたからな」
時堕は勘違いしているんだ。
俺がエルメルで移動できるとすれば、時を飛ばした先に俺がいるかもしれない。剣は首筋に傷を作っているし、ギリギリで時間を遡らせたことは明白。
すべては、クリストフの魔法によるブラフによる立ち回りだ。
俺に都合の悪いスタート地点は回避できたけど、ここからどうする?
俺は今、光球に襲われる直前より前まで戻れている。
次の瞬間死ぬことはないけど……。
同じ手が通じる相手とも思えない。
忘れないようにもう一度。
すべては時堕に並び立つ英雄、雷帝・クリストフの力によるものだ。
決して俺の力で打開を勝ち取ったわけじゃない。
となれば、時堕が俺をゴリ押せる状況なのは変わらなかった。
…………参ったな。
正直、時堕の力が抑えられている状況なのが大前提だった。
でなければ、俺が彼と戦うなんて正気の沙汰ではない。
時を飛ばすことはおろか、今みたく時を巻き戻せる相手と戦うには、俺個人の戦闘スキルが悉く足りていないのだ。
(こうなるんだったら、身体強化以外もやっとくんだった)
と、思わないわけでもなかったが、実際のところ無意味だったと思う。
あくまでも、エルメル。
あくまでも、雷帝・クリストフの力あってこそ。
「――――アァ」
次の手を考えていた俺の前で、相も変わらず仮面のような顔のままに時堕が。
「あノ色男の魔法ヲ使えるノカと思って、焦っテしマッタらしい」
「…………」
「ボウヤ、実は使エないだろ?」
「好きに考えていればいいさ」
「クフフッ――――そウ粋がルナよ」
頬が引き攣りそうになるのに必死に耐えた。
しかし、あの男。
時堕は俺が胸を穿つ前の冷静さと、機転の良さを遺憾なく発揮。
「剣を投げル必要はナい。ソンな小細工ヨり、エルメルで距離を詰メた方がよッポど脅威ダ。もットモ、攻撃手段ノ一つなら悪くナイが、どウヤら、他に仕掛ケる様子もモナい」
「よく分かったな。実はそうなんだ」
「アん? 煙に巻コウとするのがガキ臭ェな。称賛すル振りをしてブラフでもッテ思ってンだろうが――――」
時堕の姿が消え、俺の頭上から気配が。
呼吸をするより短い時間で前後左右、そして頭上から降り注ぐ光球の数々。
すべてがすべて、狙うは俺ただ一人である。
「試せばワカる。そうダロ?」
ああ、分るだろうさ。
今の時堕は俺がエルメルを使えないと確信している。
あくまでも、防御出来るような構えも捨ててはいないものの、圧倒的に攻撃寄りの立ち回りを前にして、俺は思わず苦笑した。
あんなのから、どうやって逃げればいい?
さっきの光球はまだ数が少なかったからどうにかなったが、これははっきり不可能だ。
……だとしても、俺は考えなければならないんだ。
この状況を打破して、時堕を止めるべく戦い方を考えなくては。
こうしている間にも時間が飛び、俺の感覚とは別に光球が迫りくる。
一つ、また一つと俺を灼くべく距離を詰め。
遂には、時堕が頭上で更なる光球を生み出して、周囲に漂わせていたのだ。
(何か逃げる方法は……)
あるはずだ。考えろ。
絶対に、絶対に何か残されているはず。
刹那のひと時に考えたのだが。
俺が最後に見いだせた答えは…………。
――――無理だ。
と、いうこと。
実のところ、想定通りの時堕が相手ならまだ可能性はあった。
けれど、時を遡る力ごと、むしろ活力を取り戻してしまっている彼を相手に戦えるほど、俺は強くなくて実力が足りていない。
だから――――諦めた。
身体から力を抜いて、ため息をついて時堕を見上げた。
「いイ顔してるゼ、ボウヤ」
「だったら、お前が勝手に俺の親とでも思ってる、あの女とやらを教えてくれ」
「嫌ダね。死ネバその興味も消えルヵら心配すルなよ。諦めたンダろ?」
「――――ああ、諦めたよ」
出し惜しみをすることを、な。
迫る光球を前に、俺の身体に雷光が宿りだす。
胸が痛い。頭が痛い。視界が霞む。
想像していた以上の反動が身体を襲い、一度か二度しか使えないという予想が間違いでなかったことを裏付ける。
でも、愉快だった。
そんな俺を見る時堕の顔が、仮面のようなその顔が。
どことなく、焦りと驚きを覚えているようだったから。
「エル――――」
あいつを見上げる俺は嘲笑した。
尚も全身を雷光で満たして、放胆にも。
少しぐらい、得意げを超えて相手を小ばかにしたってばちは当たらないさ。
逆に不敵なぐらいが、あの男を相手にするには丁度いい。
「ッ……オ前、まさか本当ニ――――ッ!?」
だから。
雷光を滾らせた俺は身体の様子に戸惑いながら。
あいつの驚く声を聞きながら。
「――――メル」
雷帝・クリストフだけが使える魔法を。
雷が如く駆ける魔法を。
こうしたも概念に作用させるのははじめてだったが、俺は出し惜しむことなく”エルメル”を複製したのである。
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