日が明けて、また彼女と。
「――だと思ったよ」
だが速度は銃弾よりも遅い。
躱すことに何の問題も無かったが、俺は棒のうちの一本をつかみ取った。
「おい、刺激臭がするぞ、コレ。何か塗ってあるな?」
「……察しの通り薬物を塗ってあるが、別に怖がる必要はない。それは毒ではなくてただの麻痺薬なんだ。しかしなんて腕前だ。不意打ちを平然と処理するとは……」
怪盗の声に覚えはない。抱いた感想としては容姿にたがわぬ紳士だと言うこと。
彼は仰々しく腕を振りあげて、へその前に添えて頭を下げてくる。
「私は名もなき怪盗です。以後、お見知りおきを」
「ご丁寧にどうも。俺は名もなき暗殺者だ」
「暗殺者? ……なるほどなるほど、騎士たちの援軍というわけだ」
違うが、わざわざ否定はしない。
「私は無駄な勝負はしない主義でね。悪いが暗殺者殿、私はこの辺でお暇しよう」
「逃がすと思ってるなら驚きだ」
一瞬のうちに姿を晦まし、怪盗の不意を突く深い踏み込み。
怪盗の反応が遅れ、奴が気が付いたときには俺は既に懐に居た。
最小限の動きで振り上げた剣を構えた。
「は、疾い――ッ!?」
整いきれてない体勢ながら、怪盗は残っていた鉄の棒を放り投げてくる。
俺の首筋、手元、足元、防御しにくい箇所を的確に狙いすます投擲だ。
あるときは躱して、またある時は剣で投擲を凌ぐ。
「なっ……暗殺者、貴様ッ」
「言ったろ。逃がすつもりは無いって」
息の根を止めようとは思わない。でもそれなりに重傷は負ってもらおう。
俺は怪盗の肩口に剣閃を浴びせ――
「悪いが備えは万全でね」
――られなかった。
剣が届く手前、怪盗のマントの内側から白い煙が生じる。その煙は俺の目を痛めつけ、指先足先に弱い痺れを感じさせてきた。
これは麻痺薬が混じった煙だ。
俺は身体が麻痺することを嫌い距離をとる。
だが、ただで引いてやることはしない。
「ッ……くぅ…………!?」
右手に深々と切り傷を与えてやった。
黒い手袋ごと、深々と切り裂かれたせいで鮮血が舞う。
「……はぁ、はぁ……悪いけど私は治療がしたい。一度、この場は痛み分けにしないかい?」
「残念だが、俺がそれを飲む理由は無いな」
「それは残念だ。ところで、実はさっきの煙はまだ残ってるんだが」
「別に、手負いを相手にするなら問題ないさ」
「……驚いた。あの麻痺薬は民家ほどの大きさもある獣ですら、簡単に身動きがとれなくなる代物だってのに」
え、そうなの? って、そんな強力な薬物を簡単に使うなよ。
怪盗の驚きとは別に、俺はつい呆気にとられてしまう。
もしかすると身体強化の産物かもしれないが、鍛えていてよかったと思う。
果たして、鍛えていたからで済ませるべきか分からないが。
「だが、本当に暗殺者殿の
怪盗がそう言って間もなく。
不意に背後から聞こえた金属のこすれ合う音。つづけて、居たぞ! と発見を喜び、勢いよく駆け寄ってくる騎士たちの声だ。
「騎士も合わさってしまうと、さすがの私も逃げるのに苦労してしまう」
確かに、俺も怪盗の考えに強く同意する。
しかしここで問題なことが一つあって……。
「近くにいるのは何者だ!?」
「構わん! 同時に捕縛してしまえばいい!」
「――――む、むぅ? 暗殺者殿の事も……捕縛……?」
騎士の声を聞き怪盗が疑問符を抱き、俺はローブの中で苦笑した。
「勘違いしているようだが、俺と騎士は協力関係に無い」
「え、あ……そ、そうだったのか。しかし、開き直ってるところ悪いが」
「言うな。分かってる」
今日は運が良かったようで運が悪い。
俺は怪盗を見逃すことにして、俺もまた夜の帝都に姿を晦ましたのだった。
当然、翌朝は寝不足だったのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇ ◇
昨夜の俺はあの後、騎士を撒いてから宿に戻ったわけだ。
つまり、いつもに比べ睡眠時間が足りていない。瞼は重いし今すぐにでも寝たい。
そんな俺の様子は関係なく、今日も俺を乗せた馬車がローゼンタール公爵邸宅に到着した。
「到着いたしました。おや、グレン様? 随分と瞼が重そうですが」
「ええ……少し、いやその、色々と考える事が多いもので」
「お察しいたします。大変かと思いますが、お身体には十分ご自愛くださいませ」
「ははっ、ありがとうございます……」
今日の夜はゆっくりしよう。
怪盗の手元には傷があるわけだし、商売道具に不備があるときに現れたりはしないだろう。
「日常生活は余裕でも、仕事は無理なはずだ」
「グレン様、何か仰いましたか?」
「すみません。ちょっとした独り言です」
「左様でございましたか。さ、ひとまず屋敷の中へどうぞ」
爺やさんが広げた傘で雪を凌ぎつつ、俺は屋敷の中に足を踏み入れた。
今日も今日とて豪勢な屋敷だ。
……そして何故か、面倒な彼が俺のことを待っていた。
「やぁやぁやぁ! グレン君、今日も来てくれたんだね!」
「約束ですからね」
「うんうん、約束を守ることは良いことだ――っと、痛てて……」
「どうされたんです? 急に手元を抑えて」
「あーいやね、実は昨日の夜に怪我しちゃってね」
そう言ったラドラムの手元には、薄っすらと包帯が巻かれている。
「――昨夜、ですか」
双眸を細めてラドラムの様子を窺う。
彼が怪我したというのは右手で、俺が切った怪盗の手も右だ。
これを偶然とするべきか、それとも俺の何かが試されているのか。
とは言え、安易に何かを語ることはしたくない。
「何でお怪我をなさったんですか?」
「ナイフだよ。夜中に急にステーキが食べたくなってね、爺やに焼いてもらったんだ。ね?」
「左様でございます。しかしながら旦那様は、ご自分で肉の厚さを決めたいと仰りまして……普段、ペンやフォークぐらいしか握らぬお方ですから」
「そうなんだよ! 切れ味に驚いて遊んでたら、自分の手元までスパってね」
どこまでも胡散臭い話じゃないか。
正直言うと、俺はラドラムが怪盗の説を強く推したい。
しかしそうなると分からないことがある。仮にラドラムが怪盗だったとして、わざわざ俺を協力者として呼びつけるだろうか? これは辻褄が合わない。
仮にラドラムが俺の振る舞いを買っていたとしても、余計に理解が追い付かない話だ。
さすがに傷跡を見せろなんて言えないし……。
「ナイフで遊ぶもんじゃありませんよ。ところでラドラム様、怪盗について何か新たな情報はありませんか?」
と、今の俺には探ることしかできなかった。
「あー、昨夜なんかあったらしいよ。名前は忘れたけどちんけな商売をしてる貴族が、金庫に入れてた書類を盗まれたとか。名前が気になるならアリスに聞いてくれると助かるな。僕とアリスが行ったことのある屋敷のはずだけど、僕はよく覚えてないんだよね」
「……なるほど」
「あと騎士の目撃情報によると、怪盗に仲間がいたらしいよ」
俺は黙って耳を傾けつづけた。
「どれもこれも情報が少ないんだけどね。まぁ、グレン君とアリスに任せるよ!」
随分と投げやりな言葉だ。
ラドラムに対しての疑惑は消えず、俺は迷っているまま「承知しました」と答えてしまう。
そんな俺をラドラムと爺やさんは見送る。
もう慣れた足取りで、アリスが待つ執務室へ足を進めた。
――思えば、帝都に来てから頭を使いっぱなしだ。
父上を嵌めようとしてる者がいるし、怪盗の件も色々面倒くさい。
ラドラムが怪我さえしなければよかったのに……俺は大きなため息を漏らす。
取りあえず怪盗の件は、アリスとの調査でもっと情報を集めるべきだ。
その後でラドラムが怪盗かどうか、もう一度検討することにしよう。
コン、コン。と、アリスの執務室の扉をノックする。
『どうぞ』
昨日同様、鈴を転がしたような美しい声だ。
俺はその返事を聞き、中に足を踏み入れる。
「こんにちは、グレン様」
聖女のような微笑みに迎えられた俺は言う。
「ここに来たのは俺だけだよ」
「あっ、ほんとですか? じゃあ早速…………っと」
アリスは俺が一人だと知ってすぐ、ソファの上でうつぶせに寝転んだ。
昨日の指摘で学んだのか、今日はスカートがしっかりと太ももを覆っている。
「アリスってすごいよね」
「むむっ!? 私の令嬢力がですね?」
「いや、変わり身の早さが凄いなって。あと令嬢力ってなにさ」
容姿がいいのは認めるが、声に出して認めるのは断固として断る。
「仕方ないじゃないですかぁー。このクッション、すっごく寝心地が良いんですもん」
「……そりゃよかった」
俺は軽い態度で返して彼女の手前に座った。
アリスはクッションを抱いて幸せそう。
彼女は唐突に、抱いていたクッションを俺に手渡した。
「え、なに?」
「ふふーん、一つどーぞ? 私にはもう一個ありますから」
とんだ勘違いをかましてくれたが、アリスは自信満々につづける。
「私には分かるの! グレン君はきっと、私が抱いていたクッションに興味津々に違いありません! まずは胸元で抱いてみてくださ――って、ねぇ! そんなに嫌そうな顔しないでよぉ……!」
「分かったってば、それで?」
「それだけですよ? ほら、抱いてると柔らかくて気持ちよくないです?」
確かに感触は悪くないし、手触りも良い。
漂う甘い香りはアリスのものか、今日もまた俺の脳を揺さぶってきた。
すごく気に入らない。
しかし、不思議と気分が落ち着いてきたのもまた事実だ。
とりあえずクッションをソファに置いて、俺はテーブルに置かれたティーカップを手に取った。
「あ、そういえば」
俺がティーカップに入った茶を飲んですぐ、アリスが思い出したように口を開く。
「なに?」
「ね、ねぇねぇ……! そんな警戒した声出さないでくれませんかね……?」
「今度は何を言うのかって気になってるだけだよ。それで?」
アリスは机の上に置かれた紙の束を指さして、次に「昨夜の件の資料です」と言葉を添えた。うつぶせにクッションを抱いた姿勢のまま、彼女は上半身を反らして俺を見上げる。
恐らく無意識だろうが、彼女の服のボタンが1つ、2つほど開けられているせいか谷間が強調されていた。
瞳はトロンと下がっていて艶美。
悩まし気に身体をよじる仕草は匂い立ちそうで、甘えるように口角を遊ばせていた。
息をのむような姿に、俺は思わず黙りんでしまう。
「あのねあのね、グレン君にしか頼めないことがあるんです。――聞いてくれる?」
「俺にしかできないこと?」
「うん。グレン君じゃなきゃダメなの。他の誰にも頼めないんだから」
俺は余計なことは口にせず、小さく返事をして頷き返す。
アリスはくすっと嬉しそうに笑って目を細めた。
「――私、凄く眠いんです。爺やたちが近づいてきたら起こしてください」
この残念令嬢は今なんて言った? 俺は呆気にとられ硬直してしまう。
トロンとした目元だったのは眠かったからで、嫣然とした様子だったのは気のせいだ。そう、アリスはただ眠気に苛まれていただけだから。
「眠いって……えー……」
「もー、私だって忙しいんですよー? 昨夜の事であんまり寝られませんでしたし、おかげさまで眠りが浅くて手首を寝違えちゃいましたし」
手首を寝違える人なんてはじめて見た。
アリスは俺の返事を待たず、クッションに頭を乗せて脱力していく。
「でも安心してください! グレン君のために、資料はちゃん……と……くぅ……」
せめて言い切ってから寝て欲しかったもんだ。
アリスは気持ち良さそうに眠っているし、起こすのはもはや忍びない。
結局俺は、彼女が用意してくれた資料を手に取って目を通した。
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