35.褒美


「…………いったたた、痛いです。とてつもなく痛いです。ナナセさん、お願いですからちょっと退いてください……ったたた……」



 必死に訴えるサラギの胸から身を剥がすと、七瀬ななせは屋根を見上げて二人の無事を確認した。



「どうやら向こうも大丈夫みたいよ。良かったね、万事解決だ」


「良くないですよ……私は大丈夫じゃありません。また折れちゃったじゃないですか」



 喉から迫り上がる血を吐き出し、サラギは半泣きの表情で折れた肋骨を指し示した。


 空中で七瀬を受け止めることには成功したのだが、勢い余って背中から墜落し、激突した際に彼女の負荷が大きくかかって陥没したのだ。



「どうせすぐ治るんだから、いちいち文句言うな。気持ち悪い」



 嫌そうに吐き捨てつつも、七瀬はコートのポケットから取り出したハンカチで口元を拭いてやった。



「そんなに、気持ち悪いですか? だから、置いていこうとしたのですか?」


「お前が気持ち悪いのなんて、最初からわかってたことじゃん。そっちだって、追いかけて来なかったくせに」



 そして、二人は無言で静かに見つめ合った。


 黄金に近い琥珀色の瞳にも、赤味がかった鳶色の瞳にも、どちらの目にも同じ――困惑したような開き直ったような、不明瞭な感情が揺れ動いている。



「…………ナナセさんがアリガヤさんを好いていらっしゃるのなら、アリガヤさんに嫌われている猫など、いない方がいいのかと思いまして」



 先に沈黙を破ったのは、サラギだった。



「サラギくんこそ、群れに帰った方が良かったんじゃないの? トガイくんと遊んでる時は見たことないくらい生き生きとしてたし……私じゃ、あんな戯れ方できないもん」



 続いて、七瀬も言葉を吐く。



「ええ〜、たまに遊ぶから楽しいんじゃないですか。毎日続けば、流石に飽きますよ」


「私も同じ、かな。有ヶ谷ありがやくんと出かけたり話したりするのは楽しかったけど、やっぱり猫しばいてる方が気楽だよ。それに」



 じわじわと再生していくサラギの胸元を眺めながら、七瀬は肩を竦めた。



「いくら可愛くないからって、飼い猫を捨てるなんて飼い主として一番やっちゃいけないことだよね。ニャンデリけちったと思われるのも癪だし」



 それを聞くと、サラギも破顔した。



「そうでした、ニャンデリ全種類。約束は守っていただきますよ?」



 七瀬は彼の目を見て、しっかりと頷いた。そこでふと、大切なことに気付く。



「ねえ……あの二人、どうするの? お前らの秘密、知っちゃったよね?」


「ああ、それならトガイとリヅキに何とかするよう頼んでおきましたよ」



 サラギは事もなげに答えたが、七瀬の顔面からは血の気が引いた。


 あの二人に任せるなんて、どうかしている。碌なことになるわけがない。



「お前、アホだろ。有ヶ谷くんとすばるさんを無事に帰さなかったら、ニャンデリどころかカリカリ一粒だって食わせてやらないからな!」



 布地の擦り切れた襟元を掴み揺さぶる七瀬に、サラギは慄きながらも必死に答えた。



「だ、大丈夫ですって。私からもきつく言っておきましたから。それに二人共、人肉は好みません。むしろ、苦手としています。ほら、前にトガイが銀細工の販売店で仕事をしていると言っていたでしょう? 彼は昔から、銀製品が好物なのですよ。リヅキは物心ついた時からずっと宝石愛食家で、今も『高額な食費』のために過酷な労働していると聞きました」



 そういえば初めて会った時、リヅキが仕事で苛々していたとかどうとか零していたことを、七瀬はふと思い出した。


 あの時は初対面の人間に吐き散らした暴言への言い訳だろうと受け流していたが、ストレスが溜まっていたのは本当だったようだ。元々、激昂しやすい質なのだろうけれども。



「私だって、お腹が空いたからといって道行く人を手当たり次第に襲ったりしないでしょう? 飢饉にでも見舞われれば人を食すこともあるでしょうが、それは『我々』に限ったことではありません。それに……そんな心配などせずとも、今は人以上に物が潤っておりますからね」



 不死身で『何でも食べられる』という特異な体質は共通しているようだが、それぞれ嗜好は異なるらしい。


 彼らは『何でも食べられる』けれども『何でも食べる』わけではないのだ。有ヶ谷の言う『普通の人』に、好き嫌いがあるのと同じように。


 七瀬はサラギから手を離し、納得の意を示した。


 サラギは改めて真正面から七瀬を見つめ、例の甘く冷たい微笑みを浮かべると、念を押すように確認した。



「では、私はこれまでと変わらずナナセさんの飼い猫、ということで宜しいですね?」


「いいよ」



 拍子抜けするほど、七瀬はあっさり頷いた。



「置き去りにしようとして、ごめんね。可愛くなくても気持ち悪くても、お前は私の飼い猫だよ。ほら来い、クソ猫」



 そしてお詫びにたまには抱いてやろうと、両手を開いてみせる。


 しかし、サラギは喜ぶどころか眉をひそめて溜息を吐き、飛び込んで来ようとはしなかった。



「何、嫌なの? 気持ち悪いくせに生意気な」


「こういう時は、せめて名前を呼んでくれませんか? そのまま飛び込んだら、クソ猫だって認めたことになるじゃないですか」



 なるほど、猫なりのプライドというやつか。


 七瀬は気を取り直して、もう一度腕を広げた。



「おいで、サラギくん」



 するとサラギは、忽ち明るい笑顔を咲かせて、主に飛び付いた。



「にゃあん!」



 胸に顔を埋め、喉を鳴らす代わりにしっかりと背中に手を回してしがみつく大きな飼い猫を、七瀬もまた優しく抱き締め返した。


 不揃いな漆黒の髪を、肩を背中を撫で、ボロボロになった衣服越しに彼の体温を感じる。


 彼は『普通ではない』のかもしれない。けれども『生きている』という温もりは同じだ。


 愛猫と抱き合い、『生きている』ことを確かめ合うと、七瀬はやっと肩の荷が下りたような気持ちになり――そのまま、そっと目を閉じた。

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