34.選択


「立ってご覧なさい。二人共、無事ですよ。今のところはね」



 有ヶ谷ありがやは彼の言葉に従い、恐る恐る立ち上がった。そして揺れそうになる足を踏ん張り、彼女達が落ちていった先に目を凝らす。


 すると、軒を掴む三つの手が見えた。二人共、まだ落ちてはいない。寸でのところで持ち堪えたのだ。



七瀬ななせさん! すばる! 今助けに行くからな! サラギさん、手伝って!」


「お断りします。あなた一人でどうぞ」



 サラギの返事に有ヶ谷は一瞬固まり、しかしすぐに怒りを爆発させた。



「こんな時に何言ってるんだ!? あんた、七瀬さんの猫なんだろ!? 飼い主がどうなってもいいのかよ!?」



 サラギの口元から、笑みが消失する。代わりに、琥珀色の瞳に嫌悪とも憎悪ともつかない暗い光が宿った。



「こんな時ばかり、都合良く利用するのは止めていただけますか。あなたも仰ったでしょう、私は人の形をしているだけ、言うなれば化物です。あなたは、こんな化物から主を救い出した勇者なのでしょう? だったら貫き通しなさい、その役割を」



 有ヶ谷はその双眸に、闇より暗い奈落の深淵を覗いたような心地を覚えた。


 決して見てはならない世界を、突き付けられた――――そんな気がした。



「……竜樹たつき、助けて…………」



 凍り付いていた有ヶ谷の耳に、昴のか細い悲鳴が届いた。


 そうだ、彼女は肩を負傷している。だから片腕でしか掴まっていられないのだ。



「昴! 待ってろ、すぐ行く!」

「ナナセさんはどうするんですか?」



 間髪入れずにサラギが問う。



「ナナセさんは苦痛を感じられない病を患っています。なので骨折していようが内臓に損傷を負っていようが、気付くことができません。もしかしたら……昴さんより重症かもしれませんよ?」


「何……嘘、だろ?」



 衝撃的な事実を明かされた有ヶ谷は、慌てて七瀬のものと思われる二つの手に視線を向けた。



「…………さあアリガヤさん、選択なさい」



 そんな彼の背に、サラギはどこか愉しげな声で命じた。



「…………有ヶ谷くん」



 緊張感と切迫感に満ちた空気をそっと撫でるように、小さな声が割って入ってきた。昴より低いコントラルトの音声は、間違いなく七瀬のものだ。


 しかし、聞こえるか聞こえないかの弱々しい声量は、彼女がひどく疲弊していることを顕著に物語っていた。



「私は、大丈夫。昴さんを、助けてあげて。大丈夫、大丈夫だから……」



 途切れがちなその言葉を聞くと、有ヶ谷は声を上げて泣き喚きたい衝動に駆られた。


 思えば、彼女はいつもこうだった。


 自分は大丈夫、自分は平気、自分はいいからと己のことは何もかも後回しにし、別の誰かを優先させようとする。


 こんな時でもだ。


 誰も頼りにしていないからではない。優しさ故でもない。自分自身に対して、投げやりなのだ。


 最初は確かに、外見で惹かれた。

 第一印象とは違い、乱暴で粗雑で、口が悪くて愛想も悪くて、幻滅しかけたこともあった。


 けれども――――果敢なく脆く、弱い部分を隠そうと必死な七瀬を、守りたいと思った。支えになりたいと思った。



 そして今、全てを引っ括めて、彼女が誰よりも好きだと痛感した。



「早くなさい。二人共、もう限界のようですよ」



 サラギの声に、僅かに苛立ちが滲む。見ればどちらの手も血の気を失い白く変色し、おこりがかったように震えていた。


 有ヶ谷は無心になって屋根を下った。選択肢は決まった――――しかし。



 するり、と二つの手が外れて屋根の縁から消えた。


 七瀬だ。七瀬が耐え切れず、手を離したのだ。



「七瀬さ……!」



 届かないとわかっていても手を伸ばし、名を呼んだ有ヶ谷の隣を――――黒い影が、凄まじい速度で駆け抜けた。


 影はそのまま一気に屋根の外へと飛び出し、あっという間に有ヶ谷の視界から消えてしまった。



「竜樹……竜樹…………」



 呆然としていた有ヶ谷は、昴の呼び声で我に返った。


 すぐに彼女の元へ向かい、腕を掴んで引き上げる。だが、映画のようにすんなりとはいかなかった。全体重が片腕一本にかかり、それを引っ張ろうとすれば昴が苦痛に悶える。かといって体を掴むために身を乗り出しすぎると、自分もろとも落ちてしまう。


 昴と己自身を何度も励まし、挫けそうになりながらも、有ヶ谷はゆっくり慎重に作業を進めた。


 必死に格闘して、どれくらい経ったろうか。


 流れる汗が染みる目に、やっと昴の泣き顔が見えた。有ヶ谷は彼女の脇の下に手を回すと、最後の力を振り絞って一気に引き上げた。


 こうして、ついに昴の救助は成功した。


 とはいえ、有ヶ谷にはもう喜ぶ気力も残っていなかった。屋根に倒れて荒い息をつくばかりの彼に、昴はそっと寄り添い、涙を零してくちびるを震わせながら、何度もありがとう、ありがとう、と繰り返し続けた。

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