33.相違
「……
不意に声をかけられ、七瀬は大きく身を揺らがせた。
「怪我は大丈夫? 動ける?」
恐る恐る振り向いた彼女に、
ゆっくりと顔を上げた七瀬の視界に、心配そうに視線を落とす有ヶ谷と、その背中に背負われる気を失った
有ヶ谷が到着した安心感で緊張の糸が切れたのか、それとも凄惨過ぎる光景を見続けたせいで限界を迎えた脳が自衛のために意識を手放したのかまでは、七瀬にはわからない。しかし、有ヶ谷の固い表情を窺うに、後者のような気がした。
「私は……大丈夫。だから二人は、行って。猫、連れ帰らなくちゃ。約束したから、ニャンデリ」
七瀬は力無い声で、有ヶ谷の差し出した手を辞した。すると有ヶ谷は、七瀬の肩を強引に掴んで彼女を真正面から見据え、強い口調で告げた。
「七瀬さん、しっかりして! サラギさんは猫じゃないし、人でもない! 見ただろ? 頭を砕かれても心臓を抉られても、死ななかった! あんなの普通じゃない! トガイさん達と同じ、人の形をしているだけで、俺らとは根本的に違うものなんだよ!」
彼の言葉を聞いても、七瀬は呆然とするばかりで動こうとしない。
仕方なく有ヶ谷は彼女の手を取り、自分が登ってきた梯子のかけてある場所に向かって歩き始めた。何の抵抗もなく、七瀬は素直についてきた。
有ヶ谷の手に引かれながらも、しかし彼女の視線は、ずっとサラギを捉えたままだった。
彼は、既に再生を終えていた。先程までの修羅の如き動乱の痕跡はズタズタになったスーツに残すのみで、白い顔はいつもと変わらず、穏やかに凪いでいた。
もう動けるはずなのに、サラギは追おうとしなかった。七瀬もまた、ゆっくりと小さくなっていく彼をただ見ていた。
兵どもが夢の跡――――そんな句が、七瀬の頭を過る。
諸行無常の最中に在り、それでも形ばかりを保ち続ける彼には、自分を置き去りにして逃げていく飼い主がどう映っているのだろう。
掌には、夜の海風を凌ぐ程に力強い温もりがある。
これに縋っていれば、もう怖い思いをすることもない。この温もりは自分の命を脅かしたりはしない。
一緒にいればきっと、有ヶ谷を好きになれる。たとえ好きになれなかったとしても、愛情など知らなくたって死にはしない。望めば有ヶ谷は名を呼び、抱いて抱き締めて、この五感を満たしてくれるだろう――――彼ならいつか、あの人の記憶を塗り替え、塗り潰し、塗り込めてくれる。
けれども。
『お前は、私の子なんかじゃない』
『お前は、人でなしの化物だ』
『化物だ。化物だ。化物だ』
自分の手で殺した母親が、
そんなことは許さない、許されない、と執拗に訴え続ける。
さらに、こちらも同じく記憶の中でのみ生き続ける黒い子猫の鳴き声がそれに重なる。
にゃあ、というか細い声は次第に大きくなり、男の声へと変質していった。
『ナナセさん』
『ア、カ、ツ、キ』
『死して認められたいのなら――』
『ア、カ、ツ、キ』
『こんな意味のないことはお止めなさい』
彼にこんなことを告げられた覚えはない。しかし記憶になくとも、その言葉は彼女の潜在意識に鮮烈に刻み付けられていた。
最も認めたくない、真実を突いた言葉。
誰にも隠していた、本心を突いた言葉。
それが蘇った刹那、七瀬は初めて有ヶ谷の方を向き、彼の手を振り解いた。
「七瀬さん!?」
梯子をかけた倉庫屋根の端は、もう目前だ。有ヶ谷が驚いて振り向く。その背中に、彼の上着で括り付けられている昴の腕が揺れた。
所在無げに垂れるその手は、痛々しいまでに白く細く、握って温めてくれる者を待ち疲れたように哀しげだった。
「…………ごめん。有ヶ谷くんの思う普通と、私の思う普通は、やっぱり違うみたい」
静かにそう告げると、七瀬はそっと後退し始めた。飼い猫を迎えに行くために。
「駄目だ! 七瀬さん、危ない!」
有ヶ谷が叫ぶ。
同時に、七瀬の足がスレートの歪みでできた窪みに嵌った。バランスを崩した彼女に伸ばした有ヶ谷の手は届かず、七瀬は雪崩のように勢い良く転がり落ちていった。
「七瀬さん! 七瀬さあああん!!」
悲痛な声で彼女を呼びながら、有ヶ谷は我を忘れて彼女を追った。
あの勢いでこんな高さからコンクリートに叩き付けられれば、無事で済むはずがない。良くて大怪我、下手をすれば。
最悪の想像を振り払うようにして、有ヶ谷は屋根に身を寝かせた状態でスニーカーの靴底のグリップを頼りに屋根を下った。だが――そこに、更なる悲劇が起こった。
「…………タツ、キ……?」
昴が目を覚ます。彼女が
「……っきゃああああ!!」
「昴!?」
有ヶ谷の背から滑り落ちた昴は、七瀬と同じように屋根を転がり、あっという間に下に広がる闇へと飲まれていった。
今度も届かなかった手を伸べたまま、一人取り残された有ヶ谷は茫然自失となった。
もう何も考えたくない、何も見たくない。
そんな思いに任せて、固く目を閉じて現実を塞いでいたその時だった。
「…………おや、諦めの早い。そんな冷たい方だったとは……いやはや、失望しました」
嘲り混じりの声が、静かに降ってくる。
有ヶ谷は慌てて目を開けた。振り仰げば、屋根の棟に立ったサラギがいつもの曖昧な笑みでこちらを見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます