32.異端


 凄絶を極めた光景に言葉を失い、蒼白するばかりのすばる七瀬ななせが何とか引き上げると、聞き慣れた声が二人の耳に届いた。



「七瀬さん! 昴! 大丈夫か!? 今そっち行くから!」



 倉庫の屋根の端から、有ヶ谷ありがやが顔を覗かせている。昴のGPSを追う案内役として、サラギと一緒に来たのだ。


 心の中で助けに来てほしいと切望した人物の姿を認めるや、昴の目に涙が溢れた。



竜樹たつき……竜樹、竜樹、竜樹!」



 これまで苦痛にも恐怖にも耐え、必死になって気丈を振る舞っていた昴が、箍が外れたように激しく泣きじゃくる。


 愛しい人の名を呼び続ける彼女を目の当たりにすると、七瀬の胸を澱んだ思いが掠めた。


 昴に言った通り、好きだなんて気持ちは知らない。けれど、有ヶ谷と過ごす時間は楽しかった。有ヶ谷からメールが来ると、嬉しかった。有ヶ谷に会えると、気持ちが弾んだ。



 もしかしたら自分は、有ヶ谷のことを好きになりかけていたのかもしれない。



 しかしそう思ったのは、昴に彼の想いを聞かされたせいだ。


 彼が自分に何の想いも抱いていなくても、愛されるために努力するかと問われれば、答えは否だ。


 だからこれはきっと、恋ではない。

 彼女のように真摯に追い求め、全てをなげうち、一度会ったきりの他人でしかない恋敵すら受け入れ、相手の幸せを願う、それこそが『愛情』なのだろう。



 そして何より―――自分は今、蹌踉めきつつも懸命にこちらに向かってくる有ヶ谷ではなく、別のものを見ている。



「…………サラギくん」



 七瀬は小さく飼い猫の名を呼んだ。


 視線の先では、三つ巴の熾烈な争いが繰り広げられていた。


 頭蓋と頸骨を砕かれたリヅキは、己の長い髪で首を括り付けて固定し、大きく穿たれた腹部から内臓を噴き零しながらも四方八方から手を伸ばしては、サラギの血肉を毟り取る。


 両腕を失くしたトガイは、辛うじて残った上腕から肉を削ぎ落とし、露わになった骨を剣代わりに振るってはサラギに突き刺し、切り付け、引き裂く。


 サラギも必死に応戦しているが、『同類の親族』が二人も相手では圧倒的に不利なようだ。



 どんどん形を削られていく彼を見つめていた七瀬は、ついに大声で叫んだ。



「……サラギくん、ニャンデリ! 帰ったらニャンデリ買ってあげる! 全種類!」



 知る人ぞ知る、テレビCMでも有名な高級キャットフードの名が飛び出ると――隣で泣いていた昴は勿論、リヅキとトガイも唖然として固まった。



「…………本当ですか、ナナセさん!」



 頭部はこれ以上ない程に破壊され、顔面も人相もわからない程に粉砕され、内臓もろとも背骨まで大半削り取られ、両足は関節でない部分から折れ曲がり、蛇腹のようになっていたけれども――――口の位置も定かでない上、耳が機能しているのかもわからないような状態で、彼は確かに、華やいだ声を上げた。



「ではそういうことで。私は早く帰らねばならなくなりましたので、遊びはここまでにしましょう。お二人共、久々に楽しかったですよ…………しかし」



 言葉を口にしている間にも、サラギの体はじわじわ再生していく。他の二人も少しずつ肉体を修復しつつ戦っていたのだが、相手の回復速度は全く違った。


 そこでリヅキとトガイは目配せし合い、まずはリヅキが負傷した箇所の復旧に集中するために一旦引き、トガイは己の治癒を放棄して相手の回復を阻むために攻撃を続ける作戦に出た。


 ところが――――トガイがサラギの額に突き立てた両腕、いや両腕だった骨の剣は、ぶつり、と断たれた。再生を果たす筋肉の力によって、前後に分断されたのだ。


 まずい、と退いたが既に遅く、トガイは文字通り八つ裂きにされた。


 屋根を転がり落ちていく肉塊から赤い髪の生えた首だけを取り上げると、サラギは呆然とするリヅキに突進し様、その首を彼女の顔面に叩き付けた。


 ごぐり、と音をたてて、治りかけていた頸が後方に折れる。


 それでは飽き足らず、サラギは皮一枚で繋がるリヅキの首をも胴体から引き千切った。


 そして二つの首を足元に落とすと、それらを溶け合わせ掻き混ぜるようにして踏み付け、踏み潰し、踏み躙った。



「所詮は、この程度。今更血筋がどうの等とは言いませんが、この私に楯突くとはいい度胸をしておる。勝った方が従う、とは笑わせる。貴様ら如きが、束になったところで勝てるはずがなかろう。私を侮るな」



 サラギの口調から、敬語体が消える。


 頭蓋も脳も筋肉も脂肪も粉砕され、ぐずぐずの薄い肉片と化した二人を靴底に敷き、サラギは冷酷な笑みを湛えたくちびるからぞっとするような声で告げた。



「力ある者が上に立つと思うておるなら、望み通りひれ伏すが良い、格下。それとも…………復活も叶わぬまでに、食い尽くしてくれようか?」



 その様子を見つめていた七瀬は、瞬きすら忘れて息を詰め、血の気を失った口元を震わせていた。



 彼を怖いと思ったのは、これで二度目になる。

 彼のことを何も知らなかった前回は、衝撃の方が強かった。



 けれども今、この胸に満ちているのは純粋に恐怖一色だ。



 最早、何を恐れているのかもわからない。

 ただ彼は『異形』であるだけでなく、『異端』でもあるのだと知れた。


 不死の身の同族とも相容れられぬまでに、神経が精神が、心がどこか狂っている。


 彼の中に渦巻く常軌を逸した狂気は、何人たりとも制御不可能に違いない――――たとえ己が従うと決めた、飼い主であろうとも。

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