31.開戦


七瀬ななせさん! 大丈夫!? 血が出てる!」


「……私は平気。すばるさんこそ、腕が」



 五メートルはあろうかという高さからコンクリートに叩き付けられたのだ、無事というわけにはいかない。七瀬は全身打撲と擦り傷だらけ、昴の方は着地の際に肩を脱臼していた。


 それでも二人揃ってこの程度で済んだのは、幸運だったと言えるだろう。



「取り敢えず足止めはした。でも多分すぐ追ってくる。早く逃げよう」



 七瀬が予断を許さない現状を報告すると、苦痛に顔を歪めながらも昴は頷いた。


 まず二人は煙突に据え付けられた階段を下り、倉庫の屋根に降り立った。だが、地上に降りられそうな場所は見当たらない。

 もしかしたら、建物の端に昇降用の階段があるかもしれない。昴はそう提案すると、先導する形で屋根を歩き始めた。七瀬も迷わずそれに従って後ろを追った。辿り着いたところで、梯子が据え付けられている保証はない。だからといって、立ち止まっている暇はないのだ。


 屋根は斜めに傾いでいる上に滑りやすく、細心の注意を払ってそろそろと進むしかできなかった。灯台風の建物よりは低いといえ、この倉庫もそれなりの高さがある。下を窺うに、地上までは軽く数メートルはありそうだ。


 早く早くと逸る気持ちとは裏腹に、遅々として一向に進めない。もどかしさに一層焦って足元が覚束なくなる悪循環に陥りつつ、蝸牛かたつむりのような足取りで屋根を伝っていると――不意に、上方で何かが落下する音が響いた。



「あら、もうお帰り? どうせなら皆で送迎会をしましょうよ、盛大に」



 振り仰いだ二人の目に、煙突に降りたリヅキが月光を背に艶然と微笑む姿が映る。続いて同じ激突音にも似た轟きと共に、トガイが倉庫の屋根に直に飛び降りてきた。



「いいねえ。二人共、酒はいける口? ちょっと荷物が多くなって困ってたからさ、俺の酒瓶を空ける手伝いをしてくれると助かるなぁ〜?」



 昴は傷めていない方の手で、七瀬のコートをぎゅっと握った。



「あの人達……何なの? おかしいよ、あんな高いところから飛び降りたのに……何で無傷なの? 何で……」



 愕然と目を見開き、問いかけとも呟きともいえない言葉を繰り返す昴に、七瀬は黙って首を横に振り、立ち止まるなと目で促した。



「おいおい、無視かよ。冷たいなあ。じゃ、捕まえちゃうぞ〜!」



二人が苦労して進んだ道程をトガイは無造作に早足で歩き、一気に距離を縮めてきた。七瀬の背後に、足音が迫る。



「あっ!」



 昴が短い悲鳴を上げ、蹌踉めいた。緊張感に耐え兼ねて集中力が途切れ、足を滑らせたのだ。


 間一髪で棟の部分に手をかけ滑落は免れたものの、助けの手を伸ばした七瀬を仰いだ瞬間、昴は凍り付いた。その真後ろに、禍々しい笑みを浮かべたトガイが立っていたからだ。



「つ、か、ま、え、たぁぁぁ!」



 狂気に爛々と輝く瞳とは真逆に、トガイは七瀬を抱き竦めると不気味なほど無邪気な声を上げた。



「…………へえ、何を捕まえたんです?」



 喜びを全身で表現すると子供のように、仰け反って笑っていたトガイだったが、逆さまに映る白い顔を認めると、そのままの状態で硬直した。



「そんなに嬉しそうな顔をするくらいなのですから、とても素晴らしいものなのでしょう。是非拝見させていただきたい。さあ……見せなさい、トガイ」



 最後の一句には、怖気立つような威圧感が込められていた。


 しかしトガイは不敵な笑みでそれを受け流し、ゆっくりと身を起こして振り向くと、両腕に捕えた七瀬をサラギに見せ付けた。



「どうだ、中々の品だろ? 面白いから持って帰るんだ。皆に見せびらかしてやろうと思ってさ」


「品も何も、彼女はあなたのものではないでしょう。何を唆されたかは知りませんが、バカもここまで来れば立派なものですねえ……リヅキ、死んだ振りなどしても私には通用しませんよ?」



 低く告げると、サラギは背後から躍りかかろうとしたリヅキの喉を掴み、骨ごと握り潰した。


 既にリヅキは右上腕を失い、大きく抉れた腹腔から腹圧に任せて内臓と血を溢れさせ、砕かれた頭蓋から脳を撒き散らしている。それでも彼女は、吐き出した血で赤くそまったくちびるを、にっと釣り上げてみせた。



「わかってるわよ。それにしても久々に会ったってのに、酷い仕打ちじゃない? これが今のあんたの挨拶なの? 変わったものね」


「人のことを言えますか? トガイだってこの通りですよ。この間は共に遊びに興じたばかりだというのに……全く、人の心というのは、移ろいやすいものですな」



 隙を突いたトガイに背中を素手で穿たれ、鷲掴まれた心臓を血管ごともぎ取られながら、サラギも笑顔で答える。だが、赤い肉塊を握るトガイの手を取るや、あっさり引き千切った。



「あ〜! おい〜、買ったばかりの指輪してたんだぞ。高かったのに何してくれてんだ、てめえは!」



 地上へと放り出された腕の行方を追おうとしたトガイの懐から、囚われていた七瀬が逃げ出す。



 再び捕まえようと伸ばした腕は肩から捩じ折られ、断ち切られ、お気に入りのブレスレットも飛んでいった。



「トガイ、ナナセさんとその方は今はいいでしょう。せっかく斉ったのですから、まずは我々三人で話し合いをしませんか?」



 飄々と提案するサラギを憎々しげに睨み、トガイは舌なめずりした。



「いいぜ……で、勝った方に従う。これで、文句はねえな?」



 サラギが頷く。


 それを合図に、二対一の血で血を洗う話し合いが開始した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る