30.脱出
「え、スメルさん……?」
「誰がスメルだ!
独特の甲高い声を荒げてから、昴はしまったという顔をして、慌てて辺りを見回した。
「大丈夫、今は誰もいない。何でこんなとこにいるの?」
「あんたを拐った奴の後を尾けてきたの。すぐ助けなかったのは、意地悪してじゃないからね? あたしまで捕まっちゃったら、どうにもできなくなるじゃない。暫く隠れて応援を待ってたんだけど、誰も来なくて。でも女が一人出て行ったから、今がチャンスだと思って突入したの」
本当は、後を追うのは容易ではなかった。
自慢の脚力をもってしても結局引き離され、途中で見失い、途方に暮れかけた。だがトガイが向かった進行方向にある周辺の施設をあちこち回り、近くに波止場があるのに気付いた。同時に、隠れるにはうってつけの貨物倉庫の存在にも。
疲労で震える足を叱咤し、半ば意地で探し回った昴は、漸く薄っすらと灯りが漏れている建物を発見したのだ。
しかしこの場所で間違いないという自信もなく、また間違いなかったとしても、内部には七瀬を攫った者の仲間が複数いるかもしれない。そう考えてリヅキが出ていったのを見届けてからも躊躇したが、手遅れになる前にと勇気を振り絞り、昴は七瀬の救助にやってきたのだ。
はっきり言って、無謀な行為だ。
それでも昴は、危険な目に遭うかもしれないとわかっていても、七瀬を助けたかった。助けねばならない理由があったからだ。
「でも……お家、遠いよね? 偶然あの場にいたの?」
「……
苦々しい口調で、昴は吐き出した。
「言っとくけど、ストーカーとかじゃないから! 竜樹を追えば、あんたに会えると思ったのよ。ほら、その……まだ謝ってなかったでしょ?」
ロープを切り終え七瀬の手足を解放すると、昴は頭を下げた。
「この前は、本当にごめんなさい! 悪いのはあたしなの、だから竜樹を嫌いにならないで下さい。竜樹を、幸せにしてあげてください」
彼らがいつ戻るともわからない最中、悠長に話している暇はない。七瀬はとにかく昴の腕を取り、出口へと引いた。
「そんなこと今はいいから、早く……」
しかし昴は七瀬の手を乱暴に振り解くと、彼女の頬に平手打ちを食らわせた。
「そんなこと? そんなことって何? 竜樹はあんたのことが好きなのよ! あんたを誰より大切に想ってるの! あたしは竜樹が好きだから……振り向いてくれなくても大好きだから、もう悲しんで欲しくないから、だからあんたを助けに来たんじゃない!」
「…………好き?」
昴の痛切な叫びに、七瀬が首を傾げる。
憤りに身を任せていた昴も、急速に頭が冷えた。
薄暗い青に染まるその姿が、焦がれる人間の想いなど知らずにただガラスケースに鎮座する、命なき人形のように映ったからだ。
そこで昴は漸く、七瀬に抱いていた奇妙な違和感の正体に気付いた。
馬場で掴みかかった時も、彼女は殆ど表情を動かすことがなかった。これまでずっと、感情というものを微塵も露わにしていないのだ――――今ですらも。
「…………ごめんね。私、そういうのわからないんだ」
七瀬は真っ直ぐに昴の目を見つめ、静かに答えた。
「誰も、教えてくれなかったから。好きって感情だけじゃないよ。笑う気持ちも泣く気持ちも、全部失くした。持ってかれた。あげちゃったんだ…………とても、大切な人に」
七瀬の脳裏に、その人物が蘇る。
微睡みが映す記憶の再生で出会う時は、いつも腐敗した肉塊だ。だが今思い出されたのは何故か、髪も皮膚も、表情までをも伴った生前の姿形だった。
「だから私には、誰も幸せにできない。でもね」
久しぶりに受ける母親の冷淡な眼差しを振り切るように、七瀬は昴の腕を引き、彼女を力づくで窓際へと押しやった。
「生きるためとはいえ、もう誰かの命を踏み台にしたくはないんだ」
「あら、お客様がいらしてたの。忙しくておもてなしもできずに、ごめんなさいねえ」
「お、ナナセの友達だったのか? お別れの挨拶に来てくれたのかなあ? せっかくだし、紹介してくれよ」
七瀬の言葉が終わるより先に、想像以上に早く戻ってきたリヅキとトガイは、揃って愉しげな笑みを浮かべ語りかけてきた。
「いえ、結構。すぐに帰すので」
七瀬は淡々と言い、竦み上がる昴に小さく囁いた。
「窓から逃げて。私が食い止める」
「でも……」
「死にたいの?」
冷然とした一言は、昴の迷いを一瞬で霧散させた。
二人がじりじり近付いてくる気配を背中に感じながら、昴は窓枠に足を掛け、目を閉じ一気に飛び降りた。
「待ちなさい!」
飛び出すようにしてリヅキが駆け寄る。
それを待ち受けていた七瀬は、彼女の顎目掛けて上段正拳突きを二本入れ、更に体勢を素早く立て直して、ミニのタイトスカートから覗く生足を凪ぎ折る勢いで下段蹴りを叩き込んだ。
「え、嘘……」
最初の一撃で失神したリヅキの代わりに、トガイが唖然とした顔で間抜けた声を漏らす。
手の内を見せてしまった上に、体格的にも彼を倒すのは難しそうだ。瞬時にそう判断を下した七瀬は、慌ててこちらに向かおうとするトガイの足元に、リヅキを思いっ切り蹴り転がした。
「うっひゃあ!」
仲間の体に躓き、トガイが無様に転倒する。
直ぐ様、七瀬も昴に続き、桟に手をかけて――そこでやっと、昴が躊躇した理由を知った。
此処は二階などではなく、もっとずっと高い場所――――今はもう殆ど使われていない廃倉庫群の中にぽつりと立つ、灯台を模した建物の天辺近くだったのだ。
廃れる以前は、観光用の展望塔として賑わっていたのかもしれない。だが今は、ここが何に使われていたか、どんな意図で作られたかなどどうでも良かった。
黒い海との境界線に、月明かりで白く映えるコンクリートの大地はあまりにも遠い。窓から見下ろしても、高さを計り知るどころか目が眩むばかりだ。
怯んで固まる七瀬の肩を、トガイが掴んだ。
「危ねえなあ。こんなとこから落ちたら、死んじゃうよ〜?」
耳元に流された囁きは、既に萎縮していた七瀬を恐怖に凍らせるには十分だった。
何故なら彼女は、極度の『死恐怖症』なのだ。何があっても、『死にたくない』のだ。死した母親と世界を隔て続ける、それだけが唯一の望みなのだから。
「七瀬さん! 何もたもたしてんの、こっちだよ!」
しかし、先に飛び降りた昴の声が呪縛を解いた。
七瀬が首を巡らせてみると、隣接する倉庫の上――突出した排気用煙突の部分で、昴が手を降っている。どうやらあの僅かな時間で着地点を探し、そこを見付けたらしい。上から見ても、穴は既に塗り固められているとわかる。やや高さはあるものの、開口部が広く取られているため、的を外して転がり落ちることはなさそうだ。
だがそこまで理解しても、七瀬はまだ動けなかった。
着地に失敗してしまったら、もし落ちてしまったら、と次々と湧き上がる恐怖心に惑わされ翻弄され支配され、逡巡し続けるしかできない。
「七瀬さん、早く! あんたこそ、そこで死にたいの!?」
昴が高らかに叫ぶ。
その言葉が、死への恐怖に固まっていた七瀬を打ち砕いた。
「トガイくん、私、何があっても死にたくないんだ。だから……彼女に従う」
振り向いて静かに告げると、七瀬は肩を抱くトガイの股間を渾身の力を込めて蹴り抜いた。予想だにしなかった衝撃と苦痛に、トガイが声も無く蹲る。
その即頭部にも後ろ回し蹴りを見舞い、七瀬は再び恐怖に囚われ身動きできなくなる前に、そのままの勢いで昴の元へ飛び降りた。
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