29.連行
『……』
『…………』
『……、……、……、……』
いつもの声が、聞こえる。
『……は、……でない』
記憶の中のその人は、記憶の中でだけ邂逅を許し、記憶の中でのみ生き続け、記憶の中でしか会えない。
『お前は、……ない』
『お前は、人ではない』
『化物だ。化物だ。化物だ』
彼女が今際の際に突き付けたのは、残酷なまでに辛辣な――決して知りたくなかった真実。
『ア、……、……、……』
彼女の姿は既に、腐れ爛れ溶け落ちて原型を留めていない。真夏の熱気に崩れた脂肪の中には、何処から嗅ぎ付けたのか、早くも蛆が湧いていた。
お母さん。お母さん、殺してしまってごめんなさい。
でもお母さん。それがあなたの望みだと思ったから、私は……。
『ア、……、……、キ』
この上なく冷たく突き放したその人は、なのにこの上なく切なげな声で名前を呼ぶ。強く強く、その腕に抱き締める。そうして姿、声、香り、感触、味をこの身に刻み込んでいく。
『ア、カ、ツ、キ』
どれもが望み焦がれた行為、でも一番欲しかったものは結局くれなかった。
私もまた、あなたの望むものを与えられなかった。
『アカツキ』
それでも、名前を呼んでくれた。最後の最期に、自分を求めて手を伸べてくれた。
『アカツキ』
『アカツキ』
『アカツキ』
死のうとしている母を止めるどころか、その願いを叶え導いた『自称』娘。
文字通り、人でなしの化物。
こんな私を傍に置いてくれてありがとう、お母さん。傍にいてくれてありがとう、お母さん。
名前を呼んでくれてありがとう、お母さん。
あなたの呼び声は、ずっと忘れない。あなた以外、誰にも呼ばせない。あなたの声の記憶だけで、残し続ける。
私の全部を、あなたに捧げさせて。心も体も、感情も感覚も、全部全部全部全部。
そしてこれからも全身全霊、全生命をかけて、あなたと『別離』する。
――――死してもその肉を与え生き長らえさせた、この命を守る。それだけが私に理解できた、唯一のあなたの願いだから。
「…………あれ、もう起きちゃったの」
微睡みの間に間に、必ず見る浅い夢から覚めた七瀬は、虚ろな視線を声の主に向けた。
リヅキは七瀬の覚醒を確認すると、そのまま放置して再び何やら作業に没頭し始めた。
起き上がろうとしたが両手両足はしっかりと縛り上げられている。仕方ないので、七瀬は辺りを見渡した。
灯りを消した暗い室内は、海中に揺蕩うかの如く仄かな青に染まっている。小型の映写機が、揺らめく青い波動を室内全体に映しているせいだ。
「このライト、リヅキさんの趣味?」
「そうよ。私、青が好きなの。だから海が好き。山と違って、青に溢れてるから」
目が慣れてくると、七瀬にも今いる場所が何処なのか理解できてきた。六畳程の空間に置かれた最低限の家具、床に散らかる大量の女物の衣類――どうやら此処は、リヅキの住まいらしい。
また開け放たれた窓からは強く鼻をつく潮の香と、微かな波の音が確認できた。
「海が近いの?」
「真ん前よ。ついでに言うと、波止場のすぐ側」
愛想なく返事しつつ、リヅキは適当に衣類を畳んでは大きなバッグに放り込んでいく。どうやら荷造りしているようだ。
おかげで彼らの目的が読めた七瀬は、小さく溜息をついて愚痴を零した。
「これから皆で仲良く『デンガク』船舶旅行に出発? 私も持っていきたいもの、山程あるんだけど」
「後になさい。暫くは遊ぶどころじゃないと思うわ」
これまで同様、素っ気無く返され、七瀬はついに黙り込んでしまった。
言葉を塞ぐと、代わりに頭の中に嫌な妄想が膨らむ。
思わずきつく閉じた瞼の裏に、飼い猫の姿が浮かんだ。
彼はどうするだろう。互いに愛着もなければ情もなかった。猫は人でなく家に懐くというけれども、彼の場合、大いに当て嵌まる。此処での生活が気に入っていると言っていた。彼にとっての帰る場所とは、『デンガク』でもなければあのマンションでも自分の元でもない。自由に生きられる地だ。
サラギが戻らなかったら、餌にされた自分はどうなるのだろう、と七瀬は考えかけて止めた。丁度良いタイミングで、リヅキの携帯の着信音が思考を遮ってくれたおかげだ。
「何? やあよ、あんたの手伝いしてる暇なんてないの。こっちも手一杯だっつうの。はあ? そんなに遅らせらんないわよ! ……わかった、じゃあんたもこっち来たら手伝いなさいよ」
リヅキは電話を切ると、無言でその様子を見つめていた七瀬に向き直った。
「すぐ戻るから、大人しく待ってなさい。といっても身動きできないだろうし、逃げる心配はないか」
「逃げようと這いずり回って、せっかくまとめた荷物をとっ散らかすかもよ?」
「てんめええ、んなことしたらしばき倒すぞ! って遊んでる場合じゃなかったわ、じゃ」
慌ただしく出て行くリヅキの後ろ姿を、七瀬はしっかりと注視した。正確には彼女ではなく、開いた扉の向こうに僅かに見える景色から今いる場所を探ろうと考えたのだ。
しかしドアの外は真っ暗で、手がかりになるようなものは全く窺えなかった。ただ遠ざかるリヅキの靴音から階段の存在を感知し、ここが一階ではなく二階より上に位置すると知れただけだ。
最後の抵抗とばかりに、七瀬は両腕を縛めるロープと必死に戦った。ところが、五分も経たない内にドアが開かれたではないか。
恐る恐るといった具合にそっと顔を覗かせたのは――七瀬が予想だにしなかった人物だった。
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