28.拉致


「アリガヤくん、ごめんね。この寒い中、また家に来てもらっちゃって」


「いいのいいの。今日はバイトもないし、ボブ&サムのお弁当食べたかったのもあるからさ」



 そう言って笑い、有ヶ谷ありがやは手にしたビニール袋を掲げてみせた。中身は、この間七瀬ななせに適当に勧められたフィッシュアンドチップス弁当だ。


 ライスに合わせるものではないだろうと思ったものの、食べてみると意外にハマり、以来ちょくちょく購入している。まんまと従業員達の策略に乗せられてしまったというわけだ。



「良かったら家で食べていきなよ。お腹空いて倒れたら凍死するし」


「え、ホント? そうさせてもらえると助かる。実はお腹ペコペコで眠りかけてたんだ」


「アリガヤくん、それ死亡フラグだよ。取り敢えず回避できて良かったね」


「俺、七瀬さんの家に着いたら弁当食うんだ……」


「新たに立てるな」



 ちゃんと顔を合わせて会話をするのは、乗馬の時以来――およそ一週間ぶりくらいになる。


 しかし連絡だけは毎日欠かさず、こまめに行った。無視されるかと不安だったが、七瀬は軽い挨拶だけでなく、くだらない雑談にも気軽に応じてくれた。


 『彼女は嫌だと思ったらどれだけ暇でも付き合わない』という筒見の言葉を信じ、細やかな努力を積み重ねてきた結果、有ヶ谷はほんの少しだけ自信を持つことができるようになった。おかげで七瀬を前にするだけで緊張しておかしなことを口走るばかりだった以前と違い、顔を見ながら冗談を言い合えるくらいの余裕まで生まれた。


 すばるの件に関しては、あの日の夜に電話で改めて謝罪した。だが七瀬は気にしていないと返し、逆に大切なグッズ返却できなくなって申し訳なかったと謝られてしまった。


 そして今夜、やっと都合がつき、その『タマキ』のグッズを取りに行くことになったのだ。



「秋の夜って物悲しい雰囲気だけど、俺は結構好きなんだよね。金木犀の匂いが何だか心地良くて」


「金木犀?」



 七瀬が不思議そうに有ヶ谷を仰ぐ。



「ほら、今も香ってる。オレンジを濃厚にしたみたいな甘い匂い、しない?」


「……ああ、これ金木犀っていうんだ。確かに秋になると香るね。梅雨時にも甘い匂いするけど、あれは?」


「多分、梔子じゃないかな? あれもいい香りだね。金木犀は色気があるけど、梔子は清楚な感じがする」


「うん、わかる、そんな感じ。アリガヤくんは物知りなんだね。花の名前なんて全然知らなかったし、気にも留めてなかった」



 他愛ない会話をしながら、七瀬が冷えた手を頻りに擦る。有ヶ谷はそれを横目に、手を握ってもいいものかと思案していた。


 流石に嫌がられるか? だが尻込みしていては先に進めない。マンションはもうすぐそこだ。


 弱気になる己を叱咤し、有ヶ谷がタイミングを窺いつつ今だ! と手を伸ばした瞬間――――七瀬が立ち止まった。



「…………トガイくん?」



 彼女が名を呼ぶと、マンションに続くアプローチ前の壁に背を預けて俯いていた人物は、ゆっくりと顔を上げた。



「よ、ナナセ……ってあれ? タツキもいるのか」



 軽く片手を挙げて近付こうとしたトガイが、立ち竦むようにして足を止める。



「参ったなあ……ま、いいか。お前には連絡係になってもらうってことで」



 掲げた手で怠慢に赤い髪を掻く仕草は、いつも通りのトガイだ。


 しかし、何かが違う。

 全身に纏う空気にも、鋭利な眦の下に輝く琥珀色の瞳にも、底知れぬ闇を凝縮したような暗く重い色がどろりと渦巻いている。


 この感覚には覚えがある――――即座に危険を感知した七瀬は有ヶ谷の腕を取るや、元来た道を駆け出そうとした。だが、トガイが彼女を捕まえる方が早かった。



「トガイさん!? 何、何してるんだよ!?」



 引き剥がすようにして振り解かれた有ヶ谷が、慌ててトガイに掴み掛かる。七瀬の抵抗などものともせず、羽交い締めにしてあっさり意識を落とすと、トガイは彼女を肩に抱え上げ、薄っすらとくちびるを開いた。



「ごめんな、こいつには大事な用事があるんだ。事情を知らない他人はすっ込んでてくれよ、な?」



 次の刹那、有ヶ谷の腹部に凄まじい衝撃が走った。


 蹴り飛ばされたのだと気付いたのは、アスファルトに叩き付けられてからだ。ブーツの靴底で強い圧迫を受けた胃が、悲鳴を上げる。その声なき叫びは、吐瀉物となって吐き出された。



「んじゃタツキ、セラに伝えといて。お前の飼い主は俺らで然るべき処理をするってな」



 激しく嘔吐する有ヶ谷にそう告げ、トガイは立ち去ろうとした。


 ところが――その時だった。



「待ちなさいよ! その人を放せ、この誘拐犯!」



 背中に突き刺さる、甲高くも凛々しい声にトガイが振り向く。


 すると路地の角から、マウンテンバイクに乗ったポニーテールの娘――――昴が、憤怒の表情でトガイを指差していた。


 だがトガイは彼女を冷ややかに一瞥しただけで、すぐに走り出した。どれ程の速度で疾走しているのか、後ろ姿はみるみる内に小さくなっていった。



竜樹たつき、ほら立って! 早く警察に連絡するのよ! あたしはあいつの後を追う!」


「昴……お前、何で……」



 力強い声音で叱咤する幼馴染を見上げながら、有ヶ谷は呆然と呟いた。



「そんなこと今はいいでしょ! これ、あたしの携帯! 自転車に取り付けてある盗難防止装置のGPSで、位置表示されるから! 場所を特定したら応援頼むわよ!」



 早口で捲し立てて有ヶ谷にスマートフォンを投げ寄越すと、昴はペダルを踏み込んだ。そして前傾姿勢で愛車を駆り、猛スピードで追走していく。


 そういえば彼女は、実家が乗馬クラブなのに、馬に乗るより自転車に乗る方が上手かった。高校時代に自転車部のエースを務めた黄金の足は、今も健在らしい。


 揺れながら遠退いていくポニーテールは、文字通り駆け抜ける馬の尾のようだった。


 だが、ぼんやり眺めている場合ではない。


 昴のスマホを握り締め、有ヶ谷は痛む腹を押さえて立ち上がった。そしてエントランス前に置かれたマンションのオートロック解除機で、彼女の部屋番号を呼び出す。


 サラギが応答するまで、数分とかからなかった。しかし有ヶ谷にとってはその僅かな時間すら、気が遠くなるほど長く感じられた。




 自動ドアから急ぎ足で出てきた人物の姿を見ると、有ヶ谷は不覚にも涙を零してしまった。


 腹を苛む苦痛、己の不甲斐無さ、豹変したトガイへの戸惑いと怒り――ただでさえ一杯一杯だったところに、この人だけは大丈夫だという安心感が加わり、一挙に暴発したのだ。



「アリガヤさん、何があったんですか? ちゃんと話してください。泣いていても、何の解決にもならないでしょう?」



 女性のように繊細な手が、俯いて嗚咽する有ヶ谷の両頬を優しく包む。有ヶ谷は涙を拭いて、今し方起こった事の次第を話した。


 するとサラギの顔から、一切の感情が消滅した。



「トガイが……」



 白いくちびるから落ちた呟きは疑問形ではなかったけれども、有ヶ谷は頷き肯定した。


 あれほど仲良くしていた友人が、自分の大切な主を拐かすなんて信じられないのだろう、と思った。現にその場にいた自分も、今だに信じられない。


 先程出会ったトガイは、まるで別人のようだった。姿形は同じでも中身だけが変質したかの如く、恐ろしい魔物のように感じられた。


 トガイのただならぬ様子を思い、今更ながらに鳥肌を立てて怖気に震えていると――――有ヶ谷の耳を低く篭った音が打った。


 サラギが、喉を鳴らして笑ったのだ。



たわけた真似を…………面白い、久々に思い知らせてやりましょう。奴らの思い上がりに逆上のぼせた頭、揃って叩き潰してくれましょう」



 童歌を思わせる柔らかな調べで紡がれた言葉は、ひどく冷淡な内容だった。


 そして口元に湛えた笑みは、この状況に不釣り合いなまでに甘く艶めいていて――有ヶ谷の目には、獲物を前に愉悦する肉食獣のように見えた。


 再び凍り付く有ヶ谷の前で、トガイと揃いの琥珀色の瞳が、じわりじわりと滲み出す狂気の色に侵食されていく。溢れこぼれた暗い妖気は、やがてサラギの全身に満ち、ゆっくりとその姿を飲み込んでいった。

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