26.指名
トガイは乗馬の後は仕事、
「ナナセさん、ただいま帰りましたニャン」
「おかえり、サラギくん」
珍しく玄関で飼い猫を出迎えた
「今日、リヅキさんっていう女の人に会った」
サラギが何事だと尋ねるまでもなく、彼女は重い口調で切り出した。
「リヅキが、ナナセさんの元に? もしかして、何かされましたか?」
サラギが思わずソファから腰を浮かせる。彼の傍らに突っ立っていた七瀬は静かに首を横に振り、俯いたまま小さく呟くように言った。
「私……言ってはいけないことを言ったと思う。知らなかったとはいえ、そのせいであの人は多分厄介な勘違いしてる。ごめん、私が考えなしだった」
こんな概要すら伴っていない説明では、状況がまるで理解できない。サラギは今度こそ席を立ち、項垂れる七瀬の足下に膝を付いて下からその顔を見上げた。
「リヅキに何を言ったのです? ちゃんと教えてくれなくては、私も対処できませんよ? 下手をすると、ナナセさんにまで危害が及ぶかもしれません」
七瀬はサラギから視線を背け、長らく逡巡した後――意を決して、例の単語を吐いた。
「…………『オニギリ』」
その一言で、サラギは時が止まったように固まった。
「リヅキさん、サラギくんを連れ戻すために私も連れて行くって言ったんだ。それで『ニシメ』か『ゾウニ』にするって。全然意味がわからなかったけど、食物みたいな名前ばかりだったから……それで『オニギリ』のことを思い出したんだ。サラギくんの好物だし。そしたらあの人、豹変して…………何となく危険な空気だったから、逃げて帰ってきた」
そこまで一気に話すと、七瀬はやっと目の前に跪くサラギに視線を向けた。
サラギもまた、こちらを凝視していた。しかしその表情には、普段の飄々とした掴みどころのない笑みはなかった。
怒るでも呆れるでもない、琥珀色の瞳を支配するのは全くの虚無だ。
どうすることもできず、七瀬も無表情のまま見つめ返していると――不意にサラギが小さく吐息を零した。吐息は喉を震わせ、震えは含み笑いとなって彼の口角を歪ませた。
「ふふ……『オニギリ』ときましたか。確かに、今のあなたと私、図式としては当て嵌まらないこともありませんねえ。そこに両者の意図がなかろうと、傍から見れば形式上は成立しているように映る。ああ、そういえばトガイにも最初、似たようなことを言われましたな。恐らく彼も、この関係性をそれと誤解していたのでしょうねえ。いやはや、全く……何とも滑稽だ」
肩を揺らして笑うサラギは、この上なく愉快そうであった。だが同時に、良からぬことを企む不吉な目をしていた。
それでも、七瀬は問い質すことをしなかった。
黙って話が終わるのを待て、知りたくない、知ってはならない、と第六感が訴えていたからだ。
「いいでしょう。ナナセさん、あなたはこれより私の『オニギリ』……そういうことにしてしまいましょう。トガイやリヅキにも、しかと伝えておきます。安心なさい、これで彼らはあなたに手出しできなくなりますから」
何の説明もなく決断を下すと、サラギは彼女にいつもと同じ、曖昧な薄い微笑を向けた。
暫く呆然としていた七瀬だったが、すぐに我に返り、サラギの両頬を力任せに抓り上げた。
「だが断る。こっちの意見は無視するってとこは、三人してそっくりだね。お前らの一族って奴は、どいつもこいつも自己中なの? 私、そんな訳わかんないものにされたくないし、関わりたくもない。内輪揉めに余所者を巻き込むな。甚だ迷惑なんだよ」
いくら飼い主とはいえ、意味がわからないまま流されて、妙な役割まで押し付けられたくはない。ここは徹底的に拒絶せねば、と七瀬は薄い頬肉を掴む両手に更に力を込めた。
「わ、訳わからなくないですよ、今まで通りでいいんです」
ハの字にした眉で苦痛を訴えながら、サラギは左右に引き伸ばされた口元を懸命に動かした。
「色々と面倒なので詳しくはお教えできませんが、大まかに言うと『オニギリ』とは私に何かあった時に対処する、保護者のようなものです。今のあなたと私の関係ならば、それほど変わらないでしょう?」
「そんな単純なものなの? じゃあ、リヅキさんがドン引きしてたのは、大人になっても保護者が必要なくらいアホなのかって呆れたから? 一体いつからアホなの? いつまでアホなの?」
「アホなのではなくて、世間知らずなんですよ……。そろそろ手を離して下さい……頬がもげてしまいます…………」
サラギが泣き声で哀願する。
七瀬は素直に、全力を込め続けていた両の親指と人差指を離した。
納得したわけではない。彼らの異様な反応から伺うに、『オニギリ』という単語が『ただの保護者』を指すとはとても思えなかった。
だが――たとえサラギが嘘をついているのだとしても、七瀬にとってはどうでも良かった。
知りたくないことを知らずに済むのなら、ひたすら騙され上手に徹する。それだけだ。
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