25.挫折
「ひゃっほぉぉぉ! この感覚、ひっさしぶりぃぃぃ! 楽し〜! 超楽しいぃぃぃ!!」
角型アリーナには、少ないとはいえそれなりに人や馬がいる。しかしトガイは彼らの邪魔をしないよう、うまく配慮してコースを見極め走りつつ、通りすがるついでに笑顔で挨拶も躱し、文字通り人馬一体となって風を切っていた。
そんな彼の姿を柵越しに眺め、
「トガイさん、すごいや……ねえ二人共、ホントに素人なの? 昔齧った程度って言うけど、大会経験者だったりするのかな? どんな訓練受けてきたの? 隠れ名人的な人に師事したとか?」
そして隣に立つサラギを振り向く。今日は、トガイ以外の二人は見学なのだ。
理由は簡単、揃って金銭的に余裕がないからだ。
クラブオーナーと顔見知りだからといって、ただで馬に乗ることなどできない。一回の乗馬にかかる料金は、アルバイトで生活を賄う学生の有ヶ谷には負担が大きかった。
またサラギの方もイベント会社で不定期に日払いの仕事をしているだけ、七瀬という主に養われているおかげで食うに困らないといった身の上であるため、自粛したという次第である。
「大会と呼べるかはわかりませんが、身内で競い合うことはよくありましたね。隠れ名人も何も、先人の真似をしていただけですよ。ただ、馬を扱う機会が多かったくらいですか。昔はそれこそ毎日乗っておりましたし」
有ヶ谷の質問に、サラギは肩を竦めて苦笑いした。
「やっぱりそうなんだ……だよね。一番必要なのは、馬との触れ合いだよね。俺も昔はヤマトと寝食を共にしたよ。でも今は全然。会いたい気持ちはあるけど、忙しくて時間が作れないし、それに……」
先を言い淀んで視線を下に落とすと、有ヶ谷は諦観とも自嘲とも取れる力無い笑みを浮かべた。
「辛くなるんだ。俺もヤマトも。ヤマトはもう年寄りだから、そんなに無茶はできない。けど俺の姿を見たら、無理してでも走ろうとしてくれる。あいつ、賢いからわかってるんだ……俺の中に、捨てたはずの夢の残骸がまだ残ってるって」
サラギは何も言わない。敢えて問い質さないのは、優しさだろうか。
有ヶ谷はその沈黙に甘え、堰を切ったように続けた。
「俺、競馬騎手になりたかったんだ。親が乗馬好きで、その影響で俺も小さい頃から馬に乗せてもらっててさ。これでも、才能あるって言われてたんだよ。馬に乗っている時間が何よりも大好きだったから、騎手は本当に憧れだった」
強い風が吹き、サラギの黒髪がふわりと舞う。トガイの操る鐡が鼻先を駆け抜けていったせいだ。有ヶ谷は顔を上げ、サラギ越しにトガイ達の後ろ姿を見つめた。
「でもなれなかった。力が足りなかった、それだけのせいじゃない。競馬騎手になるための専門の学校は体重規定が厳しくてさ、無駄に成長が良かった俺じゃ身体検査をクリアできなかったんだ」
中学で既に175センチを超えていた有ヶ谷は、それでも頑張って制限体重である50キロを維持しようとした。しかし、これからの成長を考慮すると管理は困難だと判断され、結局断念せざるを得なかった。
「どれだけ才能に恵まれていようと熱意があろうと、どうにもならないことがある。それを叩きつけられた時は、ガキながら本当に絶望したよ。それから……腫れ物みたいに接する両親から逃げ出すみたいに地元から離れた高校選んで、一人暮らしを始めたんだ」
サラギが空気と化しているのをいいことに、有ヶ谷は次々と語った。
物心ついてから初めて馬から離れた生活をしたこと。
親よりも馬のいない日常がひどく奇異に感じたこと。
寂しくて寂しくて、けれど思い出すだけで辛くて、忘れるように友達と遊び呆けたこと。
その内に慣れたこと。
しかしクラスメートだった
「俺はもう吹っ切ったんだって、殆ど自棄気味だったんだけどね……そこにヤマトがいたんだ。体が弱くてうまく走れないらしくて、厩舎から馬場に連れてきても全然動かなかった。けど俺にはわかったんだ、こいつは本当は走れるのに怖がってるだけなんだって」
昴に聞けば、やはり一年程前に転倒した経験があるのだという。
丁度、自分が絶望の縁に立たされた時期と同じだ――そう思った有ヶ谷は、アリーナの出入口で早く戻りたい、こんなところにいたくないと訴えるばかりのヤマトを見つめた。その姿に、己が重なった。
「悲しいとか情けないとか、そんな気持ちより怒りが湧いた。で、
『だったら、ヤマトに乗ればいいじゃない。馬に乗れば、誰だって騎手になれるでしょ?』
そこで有ヶ谷は、改めて大切なことに気付かされた。夢が潰えたからといって、それが何だ。自分はまだ馬に乗れる。
何よりも、馬が好きだという気持ちには変わりはないのだと。
「おかげで、俺もヤマトも立ち直った。昴には感謝してもしきれないなあ……感情の起伏は激しいし、時にはとんでもないことやらかしてムカついたりもしたけどさ、それも全部、俺が彼女を傷付け続けたせいなんだ。昴は俺にとっては恩人に等しい、大切な子なのに」
「…………ナナセさんよりも、ですか?」
そこでサラギは、やっと口を開いた。有ヶ谷が目を瞠る。
「あなたはナナセさんのことがお好きなのでしょう? 恩人の女性より、大切にできるのですか? 仮に二人が死にかけていて片方しか助けられないとしたら、どちらを選ぶのですか?」
答えに詰まる有ヶ谷を一頻り真顔で見つめてから、サラギはくちびるを緩めた。
「失礼、不躾且つ意地悪な質問でしたね。私は反対しているのではないですよ。むしろ、あなたのような方がナナセさんの傍にいてくれたら、と思います。苦しみを知り、そこから這い上がることで更なる強さを得たあなたなら、あの方もいずれ心を開くでしょう。それにあなたは、私という奇妙な飼い猫の存在を嫌な顔せず受け止めてくださっている。本当に良い方だと思います」
「ただ、あなたは少し優しすぎるきらいがあります。博愛主義も結構ですが、飼い猫としては出来る限り主を優先していたたきたいのですよ」
しかしただ褒めるばかりではなく、サラギは答案の誤りを正す講師のような口調で有ヶ谷の優柔不断な一面についても言及した。
「う、うん……ごめん。ごめんなさい」
自分でも欠点だと思っている部分を指摘されると、有ヶ谷は何故かとんちんかんに謝ってしまった。
「ええ、善処してください。それと、もう一つ」
そう言ってサラギは、これまでにないほど厳しい表情で有ヶ谷に向き直った。
「子作りは、婚姻してから行うように。この頃は貞操観念が甚だしく乱れているようですが、婚前交渉など以ての外です。この私が断固許しません。これだけは絶対厳守ですよ、いいですね?」
結婚やら子作りやら突拍子もないことを真顔で抜かされ、有ヶ谷は激しく狼狽え慌てふためいた。しかしサラギの鬼気迫る目付きに気圧され何も言えず、真っ赤な顔を縦に振る他なかった。
とにかく、サラギはこの恋を応援してくれるらしい。何にせよ、想い人の一番身近にいる者が味方に付いてくれたのだ。これは、素晴らしい前進と言えるだろう。
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