24.失言


 主治医の藤咲ふじさきによる定期検診を終えて病院を出ると、七瀬ななせは真っ直ぐ家に帰らず、気になっていたカフェに立ち寄ることにした。


 思い付きでの行動ではあったけれど、無理に理由を付けるとしたら、今日は週二回のバイトもない上に、飼い猫もお出かけしているので何となく羽目を外したくなった、といったところか。


 まだ開店して間もない新しいカフェは、ランチタイム真っ只中という時間のせいもあり大盛況だった。


 だが、七瀬が店に入ると同時に運良く空きができたため、待ち時間不要ですんなりと座ることができた。


 案内されたのは、店の奥まった位置にある二人用のテーブル席だった。


 ベンチ側に腰を下ろした七瀬は、数量限定だというオリジナルブレンドを一口含んだ。熱い舌触りと共に、奥行きのある深い芳醇な薫りが広がる。何故かはわからないが、物心ついた時からコーヒーだけは好きだった。食に興味の薄い七瀬にとって、コーヒーは唯一胸を張って好物と呼べるものだ。


 口腔内に残る余韻を味わいながら、七瀬はバッグから愛読書『可愛いニャンコの育て方』を取り出した。


 栞を挟んでいた第四章『ニャンコのボディケアをするニャ』を読み進め、猫の爪切り、耳掃除、歯磨きなどのやり方に目を通す。自分の飼い猫は一応自力で出来るが、極度の世間知らずだったせいで行き届いていない部分がありそうだ。飼い主として、もっとこまめにチェックした方が良いかもしれない。


 そんなことを考えながらページを捲ったその時――頭上から、凛とした高い声が降ってきた。



「失礼、相席宜しいかしら? 席がいっぱいらしいの」



 声の主は、ボディラインの隆起にぴったり沿うカシュクールワンピースを纏った女性だった。


 艶やかな笑みを浮かべウインクを落とす彼女を見上げていた七瀬は、しかし返事もせずに本を閉じて席を立った。



「ちょっとちょっと! あなた、まだコーヒー飲み終わってないじゃない。少しくらいいいでしょ!」



 マニキュアに彩られた指が、七瀬の肩を押し戻す。七瀬は心底嫌そうに溜息をつき、濃い化粧を施した女性の顔面を見据えた。



「少しも良くない。一秒だって無理。香水臭くてコーヒーを楽しむどころじゃない。オバ……お姉さん、嗅覚バカになってるの? もしかして、香水と間違えて殺虫剤付けてきたんじゃない? その臭いじゃ、虫どころか鳥も落とせるよ。こんなとこでコーヒー飲んでないで、焼鳥パーティでもしたら?」



 七瀬の反論に、真横にいたカップルが盛大に飲み物を吹いた。しかし女性にきっと睨まれ、慌てて俯く。


 その隙に七瀬は女性を振り切り、店を出た。



「…………待ちなさいよ、ナナセ!」



 後を追ってきた女性が七瀬の名を呼ぶ。


 七瀬は思わず振り向き、背後に立つ彼女を見つめた。はっきりとした顔立ちの気の強そうな美人だが、記憶を探っても名前はおろか、見覚えも心当たりもない。



「誰? 何?」



 端的に尋ねると、女性は長い黒髪をかき上げてうんざりしたように吐き捨てた。



「トガイに聞いた通り、本当に口の悪いガキね。あたしはシノツメリヅキ、トガイと同じくセラの親族よ」


「あっそ。じゃあね」



 相手の正体がわかればもう用は無い。七瀬はさっと踵を返した。



「おいおいおい、コラコラコラ! それだけ? それだけなの? いやいや、違うでしょ? 他にも何か聞くことあるでしょうがあ!」



 あまりにも素っ気なくあしらわれ、焦ったリヅキが懸命に追い縋る。


 気取った風に上から目線で接してくるところといい、そのくせ無視されればすぐに音を上げるところといい、親戚だけあってトガイと似た性分であるらしい。



「別にないけど」


「嘘だあ! あるでしょお!? セラやトガイとはどういった関係なんですか、とか! どうしてこちらにいらっしゃったんですか、とかさあ!」


「親戚だって自分で言ったじゃない。どうしても何も、サラギくんを連れ戻しに来たんでしょ? わかってるから聞く必要もないし」


「言ったよ、言ったけれどもさあ! 他にもお綺麗ですねとかスタイルいいですねとか、何かないのかよおお!?」



 最早、何を言いたいのか、何をしたいのか、よくわからない。


 強い香水の匂いに辟易しながらも七瀬はリヅキを宥め、好奇に満ちた目を向ける通行人から逃げるようにして、通りから近くの公園へと場所を移した。




「ごめん……仕事で色々と苛々してたのもあって、爆発しちゃった」



 七瀬から自販機で買ってきた缶コーヒーを受け取ると、リヅキは素直に謝った。


 七瀬も彼女の隣に腰かけ、秋晴れの青々とした空を仰ぐ。風は冷たいけれども、降り注ぐ日差しは暖かく心地良い。こうしてベンチで日向ぼっこをするには、最適の日だ。


 辺りはオフィス街らしく、少し前までは制服の女性グループが何組か楽しげに青空ランチを楽しんでいたが、彼女達がいなくなると途端に閑散とした。この近辺には、平日の昼間にのんびり日向ぼっこをする暇人はあまりいないようだ。



「……リヅキさんもトガイくんと同じで、サラギくんを連れて帰りたいんだよね?」



 リヅキが落ち着いた頃合いを見計らって、七瀬は問いかけた。リヅキはしっかりと頷き、真正面にある噴水に視線を固定したまま謳うように言った。



「セラはここにいてはいけない。セラは『デンガク』より外へは出てはならない。何故なら彼は、この上なく不安定だから。あたしとトガイも一緒に戻るわ。仕方ないの、でもこれが一番いいの。あたし達、皆、結局あそこだけが居場所なんだわ」



 七瀬はそっと、リヅキを横目に見た。


 カラーコンタクトをしているのだろう、外径の大きな蒼い虹彩は彼女によく似合っている。だがその裏には、サラギ達と同じく、金に近い琥珀色の瞳が隠されているに違いない。



「でも、サラギくんは戻らないって言ってるよ。私に説得させるつもりなら、諦めて。あれは私の言うことなんて聞きゃしないし、自分がしたいようにする奴だから」


「…………あんたを連れて行く、っていうのはどう?」


「は?」



 思わぬ提案に、七瀬はリヅキの方を向いたまま惰性で問い返した。



「あんた、セラを猫として飼ってるんでしょ? 飼い主が動けば、飼い猫も動かざるを得ないんじゃない? 引越しの手配は全てこちらでやるし、生活についても心配いらないわ。必要なものがあれば、何でも取り寄せられるから安心して。何か問題ある?」



 唖然とする七瀬に視線をくれたまま、リヅキは涼しい顔でさらりと述べた。申し出というよりは、決定に近い言い方だった。


 二人の奇妙な関係については既に聞いていたようだが、どうやら誤った受け取り方をしているらしい。



「問題ありまくりだよ、勝手なこと抜かすな。刷り込みの雛じゃあるまいし、あれが私の後にのこのこくっ付いてくると思う? 私はそこまで慕われてもなければ懐かれてもない。勘違いしてるみたいからこの際言っとくけど、私とサラギくんは野良猫以上知人以下なんだよ。あんた達の方が余程仲良しだと思いますので、そちらで何とかしてください」



 真っ向から異を唱えると、七瀬は立ち上がった。


 その腕を、リヅキが掴む。そして、赤いルージュの引かれたくちびるを艶然と吊り上げた。



「そうね……けれど、やってみなくちゃ、わからないでしょう?」



 七瀬の細い手首を潰さんばかりに凄まじい握力が込められる。骨が軋むのを感じながら、しかし七瀬は冷ややかに告げた。



「無駄だよ。私にそんな脅しは効かない。嘘だと思うならへし折ってみれば」



 グレーのカーディガンに包まれた腕の延長線上から、無表情に見下ろす七瀬の無機質な瞳を仰ぎ、リヅキは呆然と呟いた。



「あんた…………苦痛を、感じないの?」



 七瀬が頷く。するとリヅキは力を緩め、手を解いた。



「厄介な病気を持ってるせいでね。主治医の監視下で週三回の検診、定期的な精密検査、その他諸々薬物も必要な身の上なんだ。だから、お試し計画にも協力できないよ」


「ふうん、なるほどねえ」



 だが驚きの表情を見せたのはほんの僅かで、リヅキはすぐにくくっと喉を鳴らして笑った。



「だったら、尚更都合がいいわ。寝てる間に手足を切り落として運べば場所も取らないし、暴れる心配もないから運搬も楽になるわね。『ニシメ』、もしくはあたし達からの『ゾウニ』だってことにすれば、多少不格好でも『デンガク』は受け入れてくれるでしょう」



 薄っすらと狂気を孕んだ愉しげな口調は、とても冗談を言っているようには思えなかった。いや、本気に違いない。


 しかし、七瀬はそれ以上に、彼女の口から零れた新たな単語の方に気を取られた。


 食物の名を冠した謎の言葉。彼らの間だけに通じる、方言ともどこか異なる、隠語めいた不気味な詞。



「…………『オニギリ』」



 『デンガク』と『オデン』の二つ以外、七瀬は意味など知らない。知りたいとも思わない。ただリヅキの言い方からすると、『ニシメ』と『ゾウニ』は彼らが自分に与えようとしている名称なのだろうということは理解できた。


 そこへふとこの単語を思い出し、口を衝いて出てしまった。それだけだ。


 だがその刹那、リヅキの顔色は一変した。



「『オニギリ』……? セラはあんたに、『オニギリ』のことを話したの? まさか……『オニギリ』にするって、そう言ったの?」



 目を見開き、細い顎先を震わせるリヅキからは恐れすら感じ取れた。『オニギリ』という単語は、それほどまでに強い意味を持つ禁句だったようだ。


 取り返しの付かない失言をしたと気付くや否や、七瀬はさっと退いてリヅキから距離を取り、首を横に振った。



「そんなこと言ってない。私は何も知らないし聞いてない。だからもう二度と関わらないで」



 それでも、リヅキの表情は変わらない。頭の中で警告音が高らかに響く。リヅキが放つ瘴気にも似た空気に圧されるようにして後退すると、七瀬は逃げろと叫ぶ本能に従い、そのまま後ろも見ずに駆け出した。



 幸い、リヅキは追ってこなかった。


 だが、人通りの多い場所に出ても、全身に浴びた不気味な威圧感は消えなかった。


 急いで拾ったタクシーの中で鳥肌の収まらぬ身を縮め、七瀬は己の失態を深く悔いた。

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