22.命名
「
サラギは背後の馬を肩越しに見遣り、くちびるを軽く釣り上げた。
漆黒の毛並みの美しい馬だったが、同じ馬でもヤマトとは明らかに様子が違う。
首を前後させて暴れ藻掻くのを必死に抑えている
「ちょっと司馬さん! ネロなんて暴君、連れてきてどうするんですか!? まさかそれに乗せる気じゃないですよね!?」
「俺だって何度も言い聞かせて止めようとしたよ。でもお客様が、この馬がいいって譲らないんだ。仕方ないだろう」
司馬は顔面を苦渋に歪め、ちらりと横目にサラギを見た。
「はい、見た目が気に入りました。さあ、馬場に入りましょう」
だがサラギは平然と答え、手綱を引く司馬を促す。
物々しい空気に逸るヤマトを宥めながら、有ヶ谷は
七瀬も本能的に近付くべきではないと悟ってはいたが、『あれの飼い主』である以上、何か起きた場合は責任を取らねばならない。
皆はサラギのことを知らないのだ。今はまだ猫の皮を被ってはいるが、それが剥がれたら――。
「サラギさん、本当にこいつに乗るのか? 所有している俺が言うのも何だが、ネロは乗馬には不向きだ。それに、今日は特に機嫌が悪い。乗れたとしても振り落とされるか、最悪踏みつけられて怪我をするぞ。俺ですら、世話をするだけでやっとなんだ」
苦心して何とかネロをアリーナに引き込むと、司馬は最終宣告とばかりにサラギに訴えた。
「だったら何故、馬房に置いているのです? 世話をするのも大変なただ飯食らいなど不要でしょう。馬刺にして食卓に並べた方が、余程役に立つのでは?」
口元に刻む笑み同様、優しげとも冷ややかともつかない口調でサラギは逆に問うた。
痛いところを突かれ、司馬が黙り込む。その前に、黒いグローブに包まれた長い指が差し出された。
「手綱を。この獣が生かすに相応しい存在か、見極めようではありませんか」
自信に満ちた、というよりは厳正たる審判者のような静かな声音にあてられ、司馬は手綱を渡した。
手綱を受け取るや、サラギは無造作にネロとの距離を詰めると、いきなり前髪部分を鷲掴みにした。
ネロが激しく身悶えする。が、サラギは構わずネロの頭を無理矢理自分の方に向かせると、怒りと興奮で釣り上がった瞳を見つめ、暗い愉悦に満ちた声で語りかけた。
「お前、畜生のくせに名前があるそうですね。調子に乗って楯突くのはそのせいですか? 走れもしない駄馬風情が何様のつもりです? お前に、名前など必要ない。現実を、己を心得なさい」
彼の無謀な行為に、有ヶ谷も司馬も言葉を失った。ヤマトが怯えて耳を忙しなく動かし、鼻息を荒げる。
ネロの耳はもう正面から見えないほどピタリと背後に倒れ、凄まじい怒りを言葉以上に現していた。こうなれば、いつ噛まれても蹴られてもおかしくない。
だが、この一触即発といった緊迫した空気の中でも、サラギは全く動じなかった。
「おやおや、まだ理解できませんか。その耳も頭もどうやらただのお飾りのようですね。お望みならばお前と私、どちらが上か、教えてさしあげましょう。ほら、殺してご覧なさい」
そう告げると、彼は不意にネロの手綱を離した。そして、言葉通りに真正面に立って両腕を広げてみせる。
ネロの怒りに満ちた目が、真っ直ぐにサラギを射た。
しかし――言葉は通じずとも、ネロは間近に見て、感じたのだろう。琥珀の瞳に塗り込められた奥底に在る狂気を。彼の中に潜む、得体の知れない何かを。
その証拠に、ネロは目と鼻を瞠り、この上ない驚きの感情を示しただけでなく、尻を低くして文字通り尻込みの姿勢を取った。
同じく――――七瀬もまた、瞬きも忘れて凍り付いていた。自らも『それ』と対峙した時のことを思い出したせいだ。
「あ!」
短い叫びを上げたのは、司馬だった。
あれほど激しく敵意を剥き出しにしていたネロが、潮が引けたように大人しくなったのだ。
「ふむ、理解いただけたようで何よりですな。では次は走ることができるか、見せてもらいましょう」
そう告げ様、サラギはひらりとネロの背に乗った。次にネロに身を寄せ、耳元に何事か囁く。するとネロは即座に動き出し、塀に沿って真っ直ぐに歩き始めた。
歩調は徐々に早まり、速歩から駈歩、駈歩から襲歩にまで達し、そのくせ速度を自在に調節して綺麗にカーブを曲がっては馬場内を処狭しと何度も往復した。
「嘘みたいだ……ネロが、あのネロが走っている……」
司馬が陶然と呟く。その表情には、驚愕以上に湧き上がる歓喜が満ち溢れていた。
「…………ネロはね、昔は地方の競馬で走ったこともあるすごい馬なんだ」
ぼんやりと行き来するサラギとネロを眺めていた七瀬に、ヤマトから降りた有ヶ谷が隣から説明をした。
将来有望と謳われたこともあったネロだが、騎手に恵まれず、結局払い下げられてここに来たのだという。しかし司馬はネロの才能を見抜いていて、いつかまた存分走らせてやりたいと考え、人間不信に陥ったネロを世話し続けていたそうだ。
「ナナセさ〜ん、こちらのお馬さんもすっかりいい子になりましたよ! 良かったら乗ってみます?」
速度を落として、サラギが近付いてくる。
先程までの暴れっぷりは何処へやら、ネロは別個の馬のようにしおらしくなっていた。けれども、七瀬は首を横に振った。
「私より、司馬さん乗せてあげて。ずっと、ネロを走らせてみたかったんだって」
「ああ、そうだったんですか。どれ、ならば交代しましょう」
するりと流れるような動作で馬から降りると、サラギは今一度ネロに向き直った。
「お前、なかなか良い走りをするではありませんか。その調子で人間の役に立ちなさい。せめて食い扶持分くらいは働かなくてはいけませんよ? 約束するなら、私が新たに名を付けてあげましょう」
ネロは頷くようにして鼻先をサラギに向け、前掻きしてみせた。
「『
重々しい響きは、かつての栄光の名『ネロ・ザ・リッパー』を短縮したものよりも似合っているように思えた。
ネロも気に入ったらしく、耳を立てて喜びを表現する。そこで初めてサラギはネロ改め鐡の首を軽く叩いて、褒めてやった。
「そういうわけで、彼は今日から鐡です。司馬さん、どうぞお乗り下さい」
手綱を差し出された司馬は戸惑いながらも受け取り、鐡の方を向いた。鼻先から鼻筋、首筋から前髪を伝い首筋を撫でても、鐡はもう嫌がったり暴れたりはしなかった。
「ネ……いや鐡、行くぞ!」
名前を呼ぶと同時に背中に乗り上がった司馬は、大きく息を吸い込み、夢の駿馬と共にアリーナの向こうへと駆けていった。
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