20.接触


「こういうのが必要なんですか? なくても大丈夫ですよ? 寧ろ邪魔になりますよ?」



 ヘルメットとブーツとプロテクター、そしてグローブを装着させられたサラギが不平を零す。



「決まりなんだから文句言うな。お馬さん、乗りたくないの?」



 七瀬が冷ややかに一喝する。途端にサラギは口をつぐみ、大人しくなった。


 受付のある表口ではなく裏口から外に出ると、すぐに厩舎が見えた。そこには年配の男性が、一頭の白い馬と共に三人を待っていた。



竜樹たつきくん、久しぶりだね!」



 彼に声をかけられるや、有ヶ谷は笑顔で駆け寄った。



司馬しばさん、お久しぶりです。今回は無理を言って、本当にすみません」


「いいよいいよ、今日は暇してたから。逆にお客様連れてきてくれて、こちらが感謝したいくらいだよ」



 そう言って笑いながら、男性は白馬を伴ってこちらへと近付いてきた。



「こちら、司馬ホースクラブのオーナーの司馬さん。で、こいつは俺の相棒のヤマト。司馬さん、今日飛び入りで乗馬志願したサラギさんと見学の七瀬ななせさんです」


「司馬です。サラギさん、今日はよろしく。七瀬さんも楽しんでいってね」



 年齢は四十半ば程だろうか、小柄ながらに引き締まった体躯の男性は、精悍な顔に柔らかな笑みを浮かべて自己紹介した。七瀬とサラギも倣って挨拶をする。



「サラギさん、経験はあるそうなんですが随分と前らしくて。勘を取り戻すまで、司馬さんにお任せしてもいいですか?」


「もちろん。だったら角馬場の方がいいかな。見学用のテーブルセットはあるけど、今日は日差しが強いからパラソルを準備した方が良さそうだね」



 二人が話し込んでいる間、七瀬とサラギはヤマトを遠目に観察していた。



「どうです、七瀬さん。初めて間近に見る馬は」


「思ってたより、大きい」


「もっと近くで見てみませんか?」



 そっと身を屈め、サラギが耳元で提案を囁く。しかし、七瀬は首を横に振って拒絶の意を示した。



「あの子は余程のことをしない限り、蹴りませんよ。人間に優しく丁重に育てられたせいで、警戒心がまるでありません。それに……あなたを好いているようですよ?」



 ヤマトの長い睫毛に彩られた煌めく瞳は、確かに真っ直ぐ七瀬を見つめていた。



「失礼、ヤマトさんに触ってみてもいいですか?」



 サラギは二人にそう言うと、彼らの返事も待たずに立ち竦む七瀬の手を引いてヤマトに近付いた。そしてヤマトの斜め前に立ち、まずは自らが鼻先に触れてみせる。



「ほら、平気でしょう?」



 それでも七瀬は動かない。


 するとサラギは彼女の背後に回って手を取り、再び耳打ちした。



「あなたが怖がれば、相手も怖がります。この子はとても賢い。だからあなたの恐れを理解して、ひどく緊張しています。あなたと同じで、本当は怖くて逃げ出したいのです。でも、我慢しているのですよ。あなたと、仲良くなりたいから」


「…………わかった」



 覚悟したように答えると七瀬は肩から力を抜いて深呼吸し、サラギに握られた手を恐る恐る伸ばした。


 指先からヤマトの体温が伝わる。温かく柔らかい、生物の感触だ。



「触れた。絶対に無理だと思ってたのに」


「名前を呼んであげると、もっと喜びますよ。次はおでこに触ってみましょう。くれぐれもデコピンなんてしてはいけませんよ?」


「ヤマトにそんなことしないよ。だって、ヤマトは可愛いもん。気持ち悪いだけのクソ猫と大違いだよ」


「何ですか、失礼な。私だって可愛いですよ。ねえヤマトさん、ヤマトさんならわかってくださいますよね?」



 二人の会話を楽しむように目を細め耳を立てて喜びを表現する愛馬の姿に、有ヶ谷はただただ呆気に取られる他なかった。


 ヤマトは確かに賢い。だがそれ故に我儘で気位が高く、好き嫌いの激しい馬なのだ。なのに、こうもあっさりと手懐けてしまうとは。


 呆然とする有ヶ谷の隣で、司馬は苦笑いした。



「あのお兄さん、随分と手慣れてるね。あの分だと俺は必要ないかもな」




 サラギが厩舎で司馬と馬を選んでいる間、有ヶ谷は七瀬と一緒にヤマトを連れてアリーナへ出た。

 アリーナに到着すると七瀬は柵向こうに分かたれたが、有ヶ谷は彼女が一緒に歩けるよう、柵の限界ギリギリに寄ってゆっくりとヤマトを歩かせた。



「ヤマトは本当に賢いんだね。こんな風に馬と一緒に散歩できるなんて思ってもなかった。アリガヤくん、連れてきてくれて本当にありがとう」



 乗らないにしても馬と隣り合わせて歩くという珍しい経験に、七瀬が感謝の言葉を告げる。


 いつも通り無表情ではあったが、これまでで最も楽しげに見えるのは、有ヶ谷の期待と願望が入り混じった恋眼鏡のせいばかりではないだろう。



「ヤマト、七瀬さんを相当気に入ったみたいからね。ほら、気を抜くとすぐ七瀬さんの方に行こうとする」



 誰に似たんだか、と有ヶ谷は心の中でこっそりと突っ込んだ。


 七瀬はもう恐怖心も躊躇いもないようで、鼻先を向けるヤマトが鼻先を向けてねだればすぐに細い腕を伸ばして撫でて応じる。それを見下ろしながら、羨まけしからん、と有ヶ谷はまたまた心の中でぼやいた。


 では今度は走るところを見せようと提案すると、七瀬も賛成し、傍らにあるテーブルセットの一席に座った。


 それを見届けてから、有ヶ谷はヤマトの横腹に足を入れ、合図を送った。



 ところが、その時。



「竜樹〜! パラソル持ってきたよ〜!」



 甲高い声に振り向くと、昴がポニーテールに結った髪を左右に振りながら、パラソルを抱えてこちらに近付いてくるのが見えた。


 しかし、有ヶ谷はヤマトを止めるなんてできなかった。軽速歩の合図を受けたヤマトの全身から、久しぶりに友を乗せて走る喜びを感じたからだ。



「適当に置いといて! 後で俺がやっとくから!」


「ええ〜、あたしがやるよ〜? だって、パパに頼まれたし」



 七瀬の傍らに白いパラソルを置くと、昴はぽってりとしたくちびるを尖らせた。こちらの言うことを聞いてくれるつもりはないらしい。


 二人きりにするのは不安だったが、それ以上に友の思いに応えたい気持ちが勝った。



「七瀬さん、ごめん! すぐ戻るから、見学しながら待ってて!」



 有ヶ谷は慌ただしく七瀬に詫びると、ヤマトと共にアリーナを駆け始めた。

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