10.脱退


 彼がぼんやりと視線を注ぐ先には、薄汚れた壁があるだけだ。何かを見ているわけではない。


 たとえ見ているのだとしても、それは目の前にある景色ではなく、琥珀色の虹彩の更に奥、網膜から脳神経へと繋がる意識に広がる記憶なのだろう。


 『TM』こと三浦みうらさとしはうんざり溜息をつくと、上の空で壁と向かい合い続ける相手に歩み寄り、重厚なイヤーカフで飾られた耳から伸びるイヤフォンを引き抜いて怒鳴り付けた。



「聞いてんのか、トガイ!」

「うお、びっくりした!」



 クラシックの穏やかな調べから一転、大音量の怒声を浴びて現実に戻ったトガイは、小動物のように身を竦め、『タマキ』のリーダーである三浦に非難がましい目を向けた。


 ヴィジュアル系ともパンク系ともつかない個性的で派手な身なりといい、刃先を彷彿とさせる鋭利で整った顔立ちといい、一見近寄り難い雰囲気ではあるけれども、性格は人懐こく天真爛漫なのだと三浦はよく知っている。膨れっ面でパイプ椅子に手足を折り畳み、小ぢんまり体育座りしている様も、叱られて拗ねる四歳の我が子とそっくりだ。



「覚醒したなら、スケジュールを教えろ。次のライブの予定が立てられないだろ」



 自分より図体の大きな相手を、一瞬とはいえ可愛いと思ってしまった己に苦笑しつつ、三浦は再度尋ねた。


 するとトガイは編み込んだ細いブレイズを引っ掛けないよう指の腹で頭を掻き、しょんぼりと項垂れてしまった。



「……悪い。俺、もう来られないかもしれない」


「は? 何、どういうこと?」



 三浦が問い質す前に、室内にいた別のメンバーが声を裏返らせた。慌てて駆け寄ったのは、ギター担当の『MN』夏目なつめ真緒まお――トガイと共にシルバーアクセのショップで働く同僚でもある。


 一番親しくしていた友人の不安げな表情をちらりと窺うと、トガイはまた目を伏せて小さな声で答えた。



「近々、実家に戻らなきゃなんないんだ。ちょっと……身内でごたごたしてるみたいでさ」


「嘘だろ……聞いてないよ! 初耳だよ! 何だよ、それえ!」



 毬栗に似た刺々しい質感の短髪を掻き毟って嘆く夏目を制し、サブリーダーの『KI』井上いのうえ航太こうたが最年長らしく、穏やかな眼差しをトガイに向けた。



「こればかりは仕方ないよ。お前の実家って、確かお寺なんだっけ? そういうとこは跡取りとか相続とか、色々と大変そうだもんな」


「あ〜……うん。お寺ってのは大変なのだよ、全く全く」



 三浦は空笑いで濁すトガイに顔を寄せ、今一度説得を試みた。



「なあ、トガイ。そのごたごたってのが片付いたら、また戻ってこいよ。ずっとそこにいなきゃならないってことはないだろ? たまにでもいいからこっち来て、一緒にやろうぜ。せっかくオーボエ覚えたのに、その腕を披露する場がないなんて勿体ねえよ」



 散々お世話になった三浦の言葉にも、しかしトガイは頷かなかった。



「ごめんな、そう簡単には解決しそうにない問題なんだ。きっと何年、下手すりゃ何十年とかかる。その間はずっと、どこにも移動できないと思う。面倒臭えけど、こればっかりはどうにもなんねえんだ」


「えっと……トガイが跡継ぎとして、住職さんになるってこと?」



 トガイの左脇にいた夏目が口を挟む。いつの間にやら、その後ろには背後霊よろしく、ベース担当とヴァイオリン担当の二人も連なるようにして立ち、揃って不安げな視線を送っていた。



「俺が跡継ぎになんてなるかよ。その……住職さん? って奴のお手伝いだ。他の奴らにも招集かけられてるからさ、俺一人逃げるわけにもいかねえよ」



 言葉にならない『行かないで』という声を目で訴える三人を見やり、トガイは申し訳なさげな表情で答えた。



「え…………まさか、りっちゃんも?」



 すると、これまで皆のやり取りを聞きながらも黙々と練習を続けていたドラム担当までもが情けない声を漏らした。


 ふくよかな仏顔を強張らせ、スティックを取り落とす様を見るに、かなり動揺しているらしい。


 だが、トガイは事も無げに肯定した。



「そ、リヅキも道連れ。てなわけでこれ、返すわ。今までありがとな、三浦さん」



 そう告げて、今日一度も開けていない楽器ケースを三浦に向けて差し出す。中身は、楽器店を営む三浦から好意で借り受けていたオーボエだ。



 二人の出会いは、およそ三年ほど前になる。親の跡を継いで経営している店の前で、三浦はある日、ショーウインドウに飾られたオーボエを食い入るようにして見つめる人物を見付けた。派手な見た目をしているが、楽器に向ける目は真剣そのもので、その日以来、毎日やって来てはオーボエに熱視線を送るようになった。


 そこで気になった三浦が声をかけてみたところ、意外な答えが返ってきた。



『えらい洒落た篳篥ひちりきだと思ってたのに、違うんすね……』



 まさかその青年が和楽器に嗜みがあるとは思わず、ひどく驚いたことは、今も鮮やかに記憶している。



 三浦は迷わず、彼に楽器を貸し与えた。更には初歩的な取り扱い方を手ほどきし、活動中のバンド『環』に迎え入れた。それだけに留まらず、あちこちを放浪しているという彼に住処や仕事を紹介し、生活面でも支援した。


 三浦がここまでトガイに肩入れしたのは、彼の天性の才に惹かれたという以上に、彼から迸り漲る並々ならぬ情熱に心打たれたからだ。


 結婚を機に指揮者になるという夢は諦めたけれども、三浦の音楽への熱意は潰えていなかった。バンドを通じて、夢見る者達の手助けをしたい。そう思って『環』を立ち上げた。



 しかし、助けられたのは自分の方だったのかもしれない。


 夢を叶えられるかどうかではなく、音楽を愛するという純粋な気持ちこそが何より大切なのだ。トガイを始めとする、メンバー達の熱い想いを全身で感じることによって、それを知った。音楽が好きだ、今とても幸せだと、胸を張って言えるようになった。



 三浦はケースを開き、短期間であるにも関わらず随分と使い込まれたオーボエを改めて眺めた。だがすぐに蓋を閉じ、トガイに突き返す。



「今更返されても、もう売り物にならねえよ。餞別代わりに持ってけ。俺が直々に教えてやったんだ、続けろよ。何十年後でもいいから、いつか聞かせに来い。それがお代だ」



 三浦の返答にトガイは一瞬ぽかんとしたものの、すぐに彼から目を逸らした。しかしオーボエの入ったケースを撫でる手付きはひどく優しく愛おしげで、俯き加減の表情もどこか照れ臭そうだ。


 こういった時に素直になれない、彼なりの返事なのだろう。


 その後、改めて話し合いを開始したところ、せっかくならトガイの門出を華々しく飾ろうと満場一致でラストライブの開催が決定した。


 この場にいないメンバー達にもなるべく多く参加してもらえるよう連絡の段取りを決めると、スタジオレンタル終了時刻が差し迫ってきていた。


 だが、それでも僅かな時を惜しみ皆でギリギリまで演奏し、彼らはメンバー同士の絆を音で確かめ合った。

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