9.助言


 七瀬ななせ達と別れてから、大急ぎで大学に向かった有ヶ谷ありがやは、何とか滑り込みで講義開始時刻に間に合った。


 授業を受けた後は専属コースの教室で研究発表の資料を詰め、それが一段落つけば所属しているイベントサークルに顔を出す。仲間達と活動について話し合う……という名目で他愛もない談笑を楽しむと、学校からそのまま居酒屋のアルバイトへ。バイトがない日でも、宍戸ししどを始め、友達としょっちゅう遊びに出掛けるため、帰宅する頃にはいつも日付変更線を越えていた。


 本日もまた然り。


 歩いている間にも疲労で重くなってくる瞼の隙間に、犇めくアパートの一つに紛れるチョコレートカラーの建物が見えてくると、有ヶ谷は安堵にも似た気持ちを覚えた。過ごした時間はまだ浅いが、このアパートこそが今の自分の我が家だと痛感する瞬間だ。


 そして自室の隣、二階の角部屋に灯りが点いているのに気が付く。そういえば今日は水曜日、一週間の内で唯一彼女の仕事が休みの日だ。


 有ヶ谷は階段を駆け上ると、自分の部屋に帰るより先にお隣さんのインターフォンを鳴らした。



「お、アリー、おかえり。お疲れサマージャンボ宝くじ」



 くだらない親父ギャグと共に出てきたのは、部屋着ですっぴんの筒見つつみだ。


 中へ入るよう促されたので、有ヶ谷はそれに従い、靴を脱いで彼女の部屋に上がりこんだ。


 以前はすれ違っても挨拶する程度だったのだが、ひょんなことから『タマキ』のファン同士だと判明してから急速に親しくなったのだ。おかげで今では、男女の枠を越え、このような深夜でも遠慮なく行き来することも珍しくない。


 バイトの賄いでは足りずに悲鳴を上げるお腹に筒見自慢の手料理を詰め込み一息つくと、有ヶ谷はドレッサーの前で眉毛の手入れをしている彼女に話しかけた。



「メシ、ありがと。ご馳走さん。てか今日もひどいカッコしてるなあ。何そのダサいジャージ。シシが見たら泣くよ?」


「ふっふっふ、六年物のヴィンテージアイテムなのだ〜。宍戸くんの泣き顔かあ……想像するだけで萌えるね! あれはそういうタイプだ、泣かせてみたい男ってやつ。今度、宍戸ししとししどまなぶ涙腺崩壊企画でもやっちゃう?」



 中学時代のものと思われる小豆色のジャージ姿でけらけらと笑う様子から察するに、親友の方も脈は全くないようだ。



「そういや、今日どうだった?」



 ドレッサーのミラーを畳み、筒見が向き直る。有ヶ谷は溜息を吐き、座椅子の背もたれに背中を預けて空を仰いだ。



「どうも何も、サラギさんに圧倒されっ放しだったよ。マジ何なの、あの人……マイペース過ぎて付いてけないんだけど。七瀬さんが来ると思って喜んで行ったのに、あんな変なのとデートさせるとか詐欺だろ。アイ、俺に何か恨みでもあんの?」


「そんなこと言っていいの〜? ナナちゃんの可愛い猫だよ?」



 筒見はそう言って、悪戯っぽく笑った。上目遣いに口端を上げて可愛くえくぼを作る、計算され尽くした小悪魔の笑みだ。


 しかし、彼女がこんな表情を見せるのは決まって何か企んでいる時だと知っている有ヶ谷は、身を起こして相手に向き直った。



「その猫ってのも意味不明だから、ちゃんとわかるように説明して。てかアイさ、俺のこと応援する気ないでしょ? 会わせてくれるようお願いした時も渋ってたし、遊園地もサラギさんのせいで結局全然話せなかったし……もしかして俺を当て馬にして、サラギさんと七瀬さんをくっつけようとしてんの? 二人共全然その気なさそうなのに」



 あの日ライブが終わると、二人はすぐに『用事がある』と告げ、揃って帰ってしまった。


 並んで遠退いていく後ろ姿は、恋人同士にこそ見えなかったけれども、他者の侵入を頑なに拒む、独特の雰囲気を醸し出していた。


 また、それを見送る筒見の目はひどく寂しげでありながら、どこか満足そうでもあり、有ヶ谷の不安を更に煽った。



 そして今、あの時と同じ目で、筒見は有ヶ谷を見つめ返している。有ヶ谷は肯定されることを恐れながらも目を逸らさず、彼女の返答を待った。



「……あの二人をくっつけようなんて思ってないよ。あたしはただ、ナナちゃんには幸せになってもらいたいの」



 呟くように言葉を漏らすと、筒見は立ち上がり、冷蔵庫から二本の缶ビールを取ってきて、一つを有ヶ谷に手渡した。軽く缶を打ち付け合い、ささやかな乾杯の合図を交わす。



「アリーは、ナナちゃんの見た目に惚れたんでしょ?」



 小さく問う筒見に、有ヶ谷は素直に頷いてみせた。


 数ヶ月前の夏も盛りの頃、筒見と有ヶ谷がまだ顔見知りとも呼び難い間柄だった時だ。突如として連絡が取れなくなった筒見を心配し、その友人が隣に住む有ヶ谷に事情を尋ねにやってきた。それが七瀬だ。


 平静を装おうとしながらも、沸かぬ現実感に任せて茫然とした面持ちで佇む彼女は、吹き晒しの荒野に咲く秋桜のように頼りなく儚げで――有ヶ谷は生まれて初めて、一目惚れの恋に落ちた。



 とはいえ根が奥手のため、その後戻ってきた筒見と仲良くなっても彼女のことはなかなか言い出せずにいた。しかし先日、宅飲みをしている際に、酔った勢いで自分の気持ちを打ち明けてしまったのだ。


 筒見が何とも微妙な表情をしたのを、今も覚えている。



「やっぱり、見た目からじゃ駄目ってこと? 俺、大した取り柄もないけど、もっと七瀬さんのこと知って、精一杯相応しい男になる努力するよ。それでも無理かな?」



 有ヶ谷は、その時と同じ台詞を吐いた。


 確かに遊園地で実際の彼女の言動や行動に軽く引きはしたけれども、それでも気持ちは変わらなかった。だが彼がそれを伝えるより先に、筒見は強い口調で諌めた。



「そうじゃないよ、アリー。『知っちゃいけない』の」



 メイクをしていないせいで、普段より幼く見える垂れ気味の目尻が、力の込められた眉間に引かれ釣り上がる。



「ナナちゃんのことが好きなら、『知っちゃいけない』『知ろうとしちゃいけない』『知りたいと思っちゃいけない』。これがルールだよ、覚えておいて」



 睨み上げる筒見の迫力に圧され、有ヶ谷は後退りしつつ首を縦に振って、そのまま項垂れた。



「七瀬さんが色々と問題抱えてるってことは、心得てるよ。『遠出する時は主治医の許可が要る』とか『少しでも怪我する危険性のあることはさせてはいけない』とか。今日もギリで来てくれたけど、病院の帰りだって言ってたし。勿論、どこか具合悪いの? なんて聞けなかったし、聞かなかった。気にはなったけど……聞いちゃいけないってわかってたから」



 遊園地に行く前、筒見から打ち明けられた話によれば――――七瀬は心身共に、重大な疾患を抱えているのだという。現在も社会復帰に向けて準備中の段階で、表情に乏しいのもそのせいだと教えられた。


 有ヶ谷が黙り込むと、筒見はビールを一気に飲み干し、空いた缶をテーブルに置いた。



「サラギくんってさ……空気読めなさそうに見えるけど、そういうことも全部含めて、ナナちゃんが許せる範囲を理解してるんだよね。越えちゃいけない一線を守りながら、付かず離れずの場所にいて、気の向いた時に構えばいいだけの相手。ナナちゃんにとって、サラギくんは大事とまではいかないけど、身近に在ってもいいって思える存在なの」



 それが、彼らの『飼い猫』の定義らしい。


 分かりやすく例えるなら、癒しを求める愛玩動物というより邪魔にならない程度に目を潤す観葉植物のような存在ということか。



 納得して顔を上げた有ヶ谷に、筒見は膝を擦り寄せて距離を詰め、間近から彼を仰いだ。



「アリー、ナナちゃんと仲良くなりたいなら、サラギくんのことも受け入れて。あの人は、あたしなんかよりもナナちゃんを理解してる。その上で、ナナちゃんを受け止めてる。これがあたしにできる唯一のアドバイスだよ」



 そこでやっと、有ヶ谷は筒見の意図に気付いた。


 遊園地といい今日といい、彼女はこれを伝えたいがためにサラギと自分を二人にする機会を作ってきたのだ。



「アイ、ありがと。俺、七瀬さんにばっか気を取られて、サラギさんには結構失礼な扱いしちゃってたかも。これからはもっと仲良くなって、サラギさんに色々学ぶよ」



 ちょっと嫉妬入ってたのもあるかな、と正直に言って笑ってみせると、筒見もやっと吹き出した。



「サラギくんに嫉妬とか、ナナちゃん聞いたらドン引きするよ! 彼氏になるのは諦めて、猫にしてもらえばあ?」


「猫も悪くないかな。サラギさんと一緒に丸くなれる炬燵があれば考える、かも」


「やだ、超キモイ。だったらいっそ、サラギくんの彼氏になっちゃえよ! 打倒、ペン太ってことで!」


「無理無理無理! あの求愛行動に身を任せられる程、俺は死に急いでないんで!」



 そうして二人は、いつものように冷蔵庫内のビールを飲み尽くすまで、くだらない冗談を交わし合い笑い合った。

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