8.去勢


「…………アリガタヤさん、ありがとうございます。おかげで『タマキ』についてよく理解できました。心から感謝しております」



 コーヒーで満ち満ちた下腹部の圧迫感を涙目で必死に訴え、漸くトイレに行く許可を得たサラギは、戻ってくるとここで区切りとばかりに深々と頭を下げた。



「いえ、こちらこそ長々と語っちゃってすみませんでした。『環』に興味持ってくれたことが嬉しくて、つい……」



 相手が席を外している間に冷静になった有ヶ谷ありがやも、話に熱が入り過ぎたと反省し、ツーブロックの頭を下げ返す。そこで、ついでに突っ込んでおいた。



「それとサラギさん。俺、アリガヤなので」

「そうですか、アリガタヤさん」

「……わざとだよね? サラギさん」

「ええ、わざとです。アリガタヤさん」



 あまりにも悪怯れずに平然と答えられたため、有ヶ谷は絶句した。


 ここは失礼だと怒るべきか、根気強く説得するべきか。何とも言えない表情で言葉を詰まらせている彼に向けて、サラギはそっと口角を上げてみせた。



「ナナセさんがアリガタヤさんというなら、あなたはアリガタヤさんです。ペットという立場上、飼い主に遵守するよう心がけておりますので」



 生真面目とも面白がっているとも取れる口調だった。


 仄白いくちびるに浮かべた微笑も、甘いような冷たいような、優しいような突き放すような、何とも形容し難いもので、全く意図が読めない。


 彼の琥珀色の瞳を改めて間近に見た有ヶ谷は、急に得体の知れない不安に襲われた。


 例えるなら、いつものように朝目を覚ますと、どこまでも限りなく広がる大海の真ん中に一人漂っていた――という感じだろうか。ひどく覚束ない、奇妙な浮遊感にも似た、不気味な感覚。


 じわり、と胸を侵食するような気味の悪さを振り払うように、有ヶ谷は目を逸らした。しかし、黙って引き下がるのも癪なので、先日から気になっていた質問をぶつけてみることにした。



「サラギさんは…………あの、七瀬ななせさんのこと……す、好きなんですか?」



 今後いつ二人きりで会う機会があるかわからない。ならば今という好機を逃してはならないと、有ヶ谷は直球でサラギに尋ねた。



「どちらかといえば嫌いですね。あの方とは、根本的に相容れませんから」



 ところが、返ってきた答えは、有ヶ谷の想像とは正反対のものだった。


 捉えどころのない笑みからは、果たして本心なのか、それとも自分を試しているのか、一向に読み取ることができない。それでも納得いくまで聞かねばと、有ヶ谷は食い下がった。



「でも、自分からお願いしてペットにしてもらったんですよね? 好きじゃないなら、何でそんなことしたんですか? 嫌いなのに一緒に暮らすなんて、意味がわかんないです」


「まだまだお若いですねえ」



 口元を押さえて、サラギがくすくすと笑い声を漏らす。



「好きな人と一緒にいるばかりが幸せではないでしょう。相容れぬ相手と共にいる方が、心穏やかに過ごせるということもあるんですよ?」


「ええと、つまり…………気を遣わなくていいから、ってことですか?」


「それもありますねえ」



 正解は柔らかに濁された。だったら、七瀬でなくても良かったということなのだろうか。


 どうにも相手の真意が汲み取れず有ヶ谷が口を結ぶと、サラギは見るからに上質そうな背広に包まれた身を、座席の背に軽く凭せかけた。



「ナナセさんも、私のことは好いておりませんよ。それ以前に、全く関心がないようです。一応は飼い主ですから可愛がろうと努力はして下さっていますが……いやはや、猫というのはなかなかに大変ですな」



 有ヶ谷が黙ったのをいいことに、今度はサラギの方が機関銃のように愚痴を零し始めた。


 猫じゃらしを何本も壊し怒られたこと、他の猫と比べられては可愛くない気持ち悪いあっちいけと罵り倒されること、七瀬の気が乗らない時は消費期限間近で投げ売りされていたキャットフードしか与えられないこと、軽く戯れたつもりが相手を苛立たせ格闘に発展し、挙句こてんぱんにやられたこと――――彼の話を総合するに、やはり二人は色恋などとは程遠い関係のようだった。


 愚痴の内容はどうでも良かったが、有ヶ谷は熱心に聞き入った。合間に窺える七瀬のプライベートに、興味をそそられたからだ。



 そこへ不意に――――静かなコントラルトの音声が降ってきた。



「…………随分、楽しそうだね、クソ猫。私も、混ぜてくれる?」



 会話に熱中していた二人が、恐る恐る振り仰ぐ。


 どちらも驚愕の表情ではあったが、片や思わぬ幸運に紅潮し、片や思わぬ不幸に蒼白するという全く正反対の顔色で、病院帰りにやってきた話題の人――七瀬を出迎えた。




 せっかく七瀬が来てくれたというのに、有ヶ谷は午後から予定が詰まっていたので、早々に引き上げねばならなかった。


 そこで次に会う機会を作るために、大切な『環』の資料を預けると共に、自分の連絡先を伝えた。


 名残惜しげに席を立った有ヶ谷を席から見送り、店を出て行くまでを見届けると、七瀬は漸く、顔面に拳を叩き込んでから無視し続けていたサラギに視線を向けた。



「何かわかった?」



 隣り合わせに座るサラギは肩を竦め、お手上げのポーズを取った。



「優秀なオーボエ奏者ということくらいですね。篳篥ひちりき同様、中々の名手のようで」


「篳篥?」



 聞き慣れない和楽器の名を、七瀬が鸚鵡返しで問い返す。サラギは頷き、柔らかに微笑んだ。



「ええ、トガイの篳篥は本当に素晴らしかった。その力強い音は闇夜を跋扈する百鬼夜行を霧散させ、生者すらも意のままに狂わせたとか。噂を聞きつけた名人が勝負に挑むも、彼の奏でた一音を耳にするや、絶望して自害したという逸話もあります。それ程の腕前だったのですよ」


「へー、チョースゴーイ」



 陶然として語るサラギに適当極まりない相槌を返し、七瀬は有ヶ谷から借りた資料一式を見遣った。


 思った以上に量がある。ここで全部に目を通すのは骨が折れそうだ。すぐにそう判断して家でゆっくり読むことに決め、七瀬はそれらを有ヶ谷が置いていってくれた大きめのトートバッグに仕舞い込んだ。


 代わりに、自分のバッグから愛読書を取り出す。黒い子猫が表紙を飾る『かわいいニャンコのそだて方』なる本は、タイトル通り、猫の育成指南書だ。こうして持ち歩くくらいお気に入りで、お手製の栞まで挟んである。


 当初は掲載されている写真を楽しむ目的で購入したのだが、思いもよらず奇妙な猫を飼うことになった今、そいつを世話するにも役立つ部分が多い。



「……ふむ」



 四葉の押花で作った若草色の栞が差し込まれているのは、ここに来るまでの間にタクシーの中で熟読した項目だ。


 それを今一度確認すると、七瀬はソファ席の隣で目を閉じ遠い昔の記憶に思いを馳せているサラギの股間に狙いを定め――――全体重と渾身の力を込め、肘打ちを叩き込んだ。



「!? ……! ……!!」



 突然襲来した衝撃と苦痛に、サラギが声もなく悶絶する。テーブルに突っ伏して痙攣する彼を冷徹な眼差しで眺めながら、七瀬は淡々と告げた。



「悪く思わないでね、これも飼い主としての務めなの。誰彼構わず孕まされちゃ堪ったもんじゃないからね。どう? 少しは性欲失せた? 暫くは毎日、こうやって厳しく躾するから心しといて」



 本来ならば医師の手で適切に処置すべき事案だが、この飼い猫は動物病院に連れて行くわけにはいかない。中身は猫でも外面は人なのだから、下手すれば通報されてしまう。


 となると、飼い主が自ら対処する他ない。


 サラギだって一応は男、雌相手に発情して本能に身を任せることもあるだろう。その結果、望むと望まざるに関わらず子を成す可能性がないとはいえない。


 しかし、いくら彼の飼い主として責任を負う義務があるとはいえ、『猫の子』ならまだしも『人の子』となれば話は別だ。そこまで面倒を見てやる義理はない。


 そこで、七瀬が編み出した苦肉の策がこれである。


 本音を言うと完全に潰してしまいたかったのだが、自分の力でそれを完遂するのは難しいと七瀬は判断した。

 なので『飼い主の意に沿わぬ行為をすれば嫌な目に遭うと何度も教え込むことで、悪癖を直せる』という本の文言を参考に、肉体的苦痛を与えて精神面から去勢を図ろうとした――のだが。



「…………酷い、酷いです。何故、前もって仰ってくださらなかったのですか……」



 テーブルの上で、不揃いの黒髪が涙声に連動して震える。


 何のことやらと七瀬が首を傾げると、サラギはゆるゆると面を上げ、滲む涙で赤みがかった琥珀色の瞳で無慈悲な飼い主を見据えた。




「…………こんなことをしなくても、私は元々、不能です……」




 飼い猫から思わぬ不具を打ち明けられた七瀬は、暫し固まった。しかしすぐ我に返り、再び彼の局部に手を差し伸べた。今度はお詫びに、痛いのとんでけをしてやろうと思ったのだ。


 ところが。



「な、何を考えているのですか! 公衆の面前で男性の男性たる部分に触れようとするなんて! 恥知らずにも程がありますよ! 少しは己の性別というものを弁えたらどうです!?」



 と、厳しく叱り倒されてしまった。


 仕方なく振り払われた手を彼の頭に置き、優しく撫でながら、七瀬は嗚咽と怒りで震える猫に何度も謝った。

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