40.成就


「……………のです」



 考えごとをしていたせいで、七瀬ななせはサラギの言葉を聞き損ねてしまった。



「ごめん、聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」


「……………たいのです」



 深く俯いたサラギが小さく呟く。


 どうやらこちらがうっかり聞き逃したのではなく、相手がはっきりと明言しなかったようだ。



「何、聞こえない。自分から提案するって言ったんだから、ちゃんと言いなよ」



 鬱陶しさに耐え兼ね、七瀬はサラギの胸倉を掴み、無理矢理こちらを向かせた。




 すると――――彼は真っ赤に染めた顔を伏せたまま、か細い声を零した。




「く…………口づけを、賜りたいのです」


「…………は?」



 これには七瀬も驚いて、固まった。



 唖然とする七瀬を上目遣いに恐る恐る窺うと、サラギは慌てて首を横に振った。



「いえ、あの、違うんです! 違うんですよ!? 決して変な意味ではないんです! 誓って本当です!」


「じゃあ何」



 七瀬が抑揚なく問い質す。



 口づけとはキスのことだとは思うのだが、キスはキスでも魚のキスのことなのだろうか?


 とんでもなく横文字に疎いようだから、魚も変てこな名で呼ぶのかもしれない。



 無表情の奥で半ば逃避気味に思考を巡らせる七瀬に、サラギは咳払いを一つしてから答えた。



「実はですね、私、筒見つつみさんに強力なまじないを施されたのですよ。通常、まじないというものは年単位の月日を経ても効能が現れれば幸運、殆どが何の成果も得られないまま終わるものです。ところが彼女には天賦の才があるらしく、一瞬にしてその威力を発揮しました」


「マジか。筒見さん何やらかしたの。てかお前、何叶えたの」


「言えません。知るのは術者と被術者のみです。それがまじないの鉄則ですから」



 少し興味を惹かれて訊いてみたけれど、サラギはいつもの笑みでさらりと流した。



「しかし、そういった強力なまじないには、必ず反動がきます。膨大な力を摂理に反して無理矢理に動かすのですから、当然ですよね。しかも、筒見さんは素人です。当然、対策など練っておられないでしょう」


「何か話逸れてない? つまりどういうこと? その超すごいまじないの反動で、今回筒見さんが酷い目に遭ったって言いたいの?」



 面倒になって七瀬が口を挟むと、サラギは感心したように吐息を漏らした。



「なるほど、そういった解釈もできますね。ですが私は、彼女ほどの才能があるならば、大きな反動に見舞われても無意識に跳ね除けているのではないかと思うのですよ。ですから今も、あのように健康で溌剌としていられるのです。故に今回の件とは、やはり無関係であったと考えております」



 下手に横槍を入れたせいで、話はますます脱線していく。


 もう黙っていた方がいいと判断した七瀬は、大人しく彼の力説が終わるのを待った。



「では、行き場を失った力はどこに向かうか? そう、被術者です。私には、彼女から受けた印がある。それを目印に、大いなる力はいずれこちらにやって来るでしょう。なので大事に至る前に、禊が必要なのです! あなたという、生粋の生娘の力で清めて欲しいのですよ!」



 やっと話が戻ってきた。



 簡単に要約すると――この信心深い時代錯誤の化石脳野郎は、偶然の産物だとは思うが筒見の施したおまじないがよく効いたものだから、しっぺ返しが怖いので男性経験皆無の自分にチュッと一発やってくれ、そしたら安心できる、と言っているのだ。



 アホだアホだと思っていたけれども、まさかここまでとは。



 七瀬は掴んだままの彼のシャツを強く引き寄せた。そして自らも身を乗り出し、そのくちびるにキスをする。



「ほら、したよ。悩みは解決した?」


「…………え?」



 サラギが呆然と声を漏らす。



「あれ? くちびるに当たらなかった? 初めてだからよくわかんなかった。もしかして、舌とかも入れなきゃ駄目なの?」



 シャツを掴んだまま、至近距離から七瀬が尋ねる。



 サラギはゆっくりと首を横に振った。



「いえ、あの、まじないを施されたのは頬なので……。頬にいただきたかったのですが……その、言葉足らずで、すみません…………」


「あ、そっちか」



 七瀬はすぐにサラギの両頬に一つずつキスをくれてやった。



「これでいい?」



 壊れた首振り人形のようなぎこちなさで、サラギが頷く。


 それを確認した七瀬は彼から離れ、ソファに深々と体を沈めた。



「よし、これで全部チャラだね。何をお願いされるかって軽く不安だったけど、全然楽で良かったよ。手足ならまだしも、腎臓片方くれだとか胃の半分寄越せって言われるかなって覚悟してたんだ。内臓系は手術も大変だし、後々しんどくなるから正直避けたかったんだよね……まあ、女らしくとか添い寝とかもありえないんだけど。でも最後の最後に超簡単なの用意してくれてありがとね、サラギくん。それにしても、本当にこんなんで良かったの? せっかくだから、おっぱいも揉んどく?」



 安心感のあまり珍しく饒舌になった七瀬は、親切心でブラトップの肩紐を軽くずらしてみせた。



 しかしその途端、サラギは思い出したように絶叫した。




「な、ななな、何てことしてるんですか! 何てことするんですか! あなたという人は!!」




 怒られる意味が全く理解出来なかったが、とにかく何かが彼の逆鱗に触れたのだろう。尻尾を太くし、全身の毛を逆立てる勢いで、自称猫はぎゃんぎゃんと喚き立てた。



 今日は久々に、親友と一緒のアルバイト。


 彼女に会ったら、どんなおまじないをしたのか聞いてみよう。ついでに、自分にもしてくれるよう頼んでみよう。



 了承してくれたら、このうるさいクソ猫を黙らせてくれと願ってやる。



 すっかり温くなったコーヒーを啜りつつ、筒見と過ごす時間を思い――女性とは云々、恥じらいが嗜みがと、くどくど続けるサラギの説教に、七瀬はひたすら耐えた。






【ただしい猫の躾け方】了



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