39.提案
「ナナセさん、まだその章を読んでいるのですか? そろそろ切り替えて、次の章に行った方がいいんじゃありません?」
恒例の如く、
「触るな。私が何を読んでようと、お前に関係ない」
「ありますよ。だって、私に実践しようとするじゃないですか」
「可愛い猫になりたいなら文句言うな。でも躾は……そうだね、もう諦める。早々と躓いちゃったみたいし」
七瀬は肩を竦めてみせてから、そっと本を閉じた。
ペットの躾で、一番大切なのは一貫性。
禁止すべきことはきっちりと禁止し、例外を認めてはならない。例えばリビングでいつも走り回っている猫に、客人があった時だけ叱ってしまうと、猫は何が正しいのかわからなくなって混乱するのだという。
七瀬は今回、サラギにその混乱を招く命令をした。やってはいけないと言ったことを、こちらからお願いしてやらせたのだ。
「そうですか? まだまだこれからでしょう。本ばかりに囚われず、あなたが正しいと思うことをおやりなさい。誰かが間違いだと言っても、あなたのしたいようになさい。私も、あなたの意図を汲み取るよう努力します。そうして過ちを犯せば叱り、上手く出来たら褒めて下されば良いのです。あなたの猫なのですから」
ソファの隣に座ったサラギは、そう言って七瀬に柔らかに凪いだ笑みを向けた。
猫にしては良い事を言う、と七瀬は密かに感心した。
彼には『何故いつもはリビングで走り回ってもいいのに、どうして今は駄目なの?』と訊く口がある。『お客様が来ていて迷惑になるからだ』と応えれば、なるほどそうかと納得する頭がある。多分、そこらの猫よりは賢いはずだ。だからきっと、まだ躾の余地はある。
七瀬は一人納得し、これにて第三章『ニャンコにいろいろ教えるニャ』の項目をクリアとすることに決めた。
「で、片付いたの?」
「はい、
筒見の救出に成功してから――――サラギは引き続き、七瀬が提供した情報を頼りに、
だが、筒見が隔離されていた倉庫は、流石に大きすぎて人目を避けて処理するのは無理だった。逆にあれだけ大きな建物を『跡形もなく消してしまう』と、不自然すぎて逆に目立つ。
そう考え、やむなくそのまま放置することにしたのだが、しかしあの倉庫を始め、恭司に隠れ家などを提供していた人物――これもまた綺麗に消化されてしまったが――は、これまでにも何かしら後ろ暗い処置をするためにあの場を使っていたらしい。
突如姿を消した不動産会社社長の行方を捜索したところ、彼があまり評判の良くない知人達に私的に物件を貸し出していたことが判明。その内の幾つかの建物や部屋から、サラギが残した死体のない血溜まり以外にも古い血痕や人体の一部などが発見されたという。
そのため警察は、本人も何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いと見て、事情を知る関係者を追うと共に捜査中…………とメディアで小さく報道されていた。
成果を伝え終えると、サラギは手元に残った最後の一品――恭司の携帯電話を掲げてみせた。
七瀬が頷く。
それを合図に、サラギは彼女の目の前で携帯電話を噛み砕き、綺麗に嚥下した。
「これにて、任務完了です。さあ、次はナナセさんの番ですよ?」
例の如く奇妙な微笑を浮かべ、サラギが楽しげに告げる。
七瀬は彼から目を逸らしてテーブルに置いたマグカップを取ると、やや冷めかけたコーヒーに口を付けながら淡々と答えた。
「わかってる。そういえば幾つか案があるとか言ってたけど……一つ選べばいいの?」
「ええ、一つで結構。あなたが選択して下さい。では、難易度の低い方から申しましょう」
七瀬が小さく頷くのを確認してから、サラギは提案を始めた。
「女らしくして下さい」
仄白いくちびるから、想像の斜め上を遥かに越え、平行線からねじれの位置にすっ飛んだ発言が飛び出す。
聞き間違いかと思い、カップを口から離して七瀬はサラギを見つめた。
「まず、あなたは言葉遣いがなっていません。また服装、態度、生活習慣……全てに於いて、根本から見直す必要があります。前からずっと不満に思っておりましたが、飼い猫如きが進言できないと考え目を瞑り、黙っていました。けれど、もう限界です! 何ですか、今日の格好は! それにその姿勢! あなた、それでも女性の端くれですか!?」
上半身はハーフ丈のブラトップ一枚、下は男物のトランクスをショートパンツ代わりに履き、そこから伸びた両足をテーブルに乗せるという定番の寛ぎスタイルの七瀬を指差し、サラギは切れ長の目尻を更に吊り上げて叱咤した。
どうやら真面目に言っているらしい。
「んなもんどうでもいいじゃん、クソ猫。いちいち気にすんなって。どうせお前の好きなおっぱいも大してないんだから」
「言っている傍から何という言葉遣い……コラ、待ちなさい! 飲み物を口にしながら開脚運動するのも禁止です! 何てことするんですか、みっともない!」
「で、他は?」
意表は突かれたが、不可能なことではない。取り敢えず保留とすることにして、七瀬は次の選択肢を問うた。
「言っておきますが……一気に難易度が上がりますよ?」
そう前置きしてから、サラギは七瀬に真っ直ぐ琥珀色の目を向け、毅然とした口調で告げた。
「添い寝をして欲しいのです」
「却下」
次案も予想外ではあったけれども、七瀬は即座にお断りした。
「ちょっとちょっと! 少しは考慮してくださってもいいんじゃありませんか? 可愛い猫と一緒に眠る、それも飼い主としての務めでしょうが!」
怒りに任せて、サラギが詰め寄ってくる。こちらも、本気でお願いしたかったようだ。
七瀬は一旦カップを置き、仕方なく理由を説明してやった。
「あのね、私、睡眠がすごく不安定なの。安定剤必須だし、眠剤に頼ることも多いの。それでも眠りの質が悪いから、長めに睡眠時間摂らなきゃ具合悪くなるの。ただでさえそんな状態だってのに、お前みたいな気持ち悪い奴が傍にいたら一睡もできないよ。こっそりおっぱい揉む気? だったら起きてる内にやって。それに……下手に半覚醒したら、ちょっと、面倒なことになる、場合もあるし」
最後の一句を濁す七瀬に、先日の半ば狂った彼女が重なる。
その時の記憶はないようだが、過去に問題を起こしたことが幾度かあるらしい。
サラギは脳裏に蘇った肉を食む七瀬の姿を振り払うようにして溜息をつき、渋々といった感じで頷いた。
「わかりました、この案は諦めます。一応訂正させていただきますが、起きていても眠っていても揉みませんからね?」
「はいはい、わかったわかった。よし、次いってみよ〜」
「ほう、余裕ですねえ。次の案が最後――無論、最高難易度です。取り敢えず言うだけ言わせていただきますが、私もこちらには期待しておりません」
「左様ですか。じゃ、私も聞くだけ聞きますよ〜」
投げやりに七瀬は先を促した。
この分では、第一の案を聞かねばならないだろう。
一挙手一投足、揚げ足揚げ手を取られ続け、毎日毎日愚痴愚痴言われるのかと想像するとうんざりするが、それでもその身を五体満足に残しておいてくれるだけ良かった。
こちらがお願いした見返りとしては、もっと多大なものを請求されても文句は言えない。
なのに、この程度で済ませてくれたのは――――もしかしたら、飼い猫なりの優しさなのかもしれない。
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