38.贖罪


 義父の悪夢からついに解放された筒見つつみは、思った以上にすんなりとこれまでと同じ日常に戻ることができた。


 引き払ったはずのアパートの部屋も、捨てられたはずの荷物も、七瀬ななせが押さえておいてくれたからだ。


 隣人の男性はとても良い人だと七瀬に聞かされていたので、戻ってすぐに挨拶に行った。これまで顔も見たことなかったが、そこで玄関に置かれたギターピックから、とあるマイナーなアーティストのファン同士であることが判明し、意気投合して今度一緒にライブに行くことになった。


 おまけに、二人きりというのは抵抗があると筒見が伝えるより先に、彼の方から友達を誘い合って大勢で行こうと提案してくれた。本当に良い人らしい。



 学校は、既に夏休みに入っていた。出席できずに遅れた分は、何とかして新学期までに取り戻すつもりだ。友人達が勉強合宿を計画してくれているけれど、どうせ遊ぶための口実だろう。


 でも、それもまた良し。この限りある時間、遊べる時に遊び、楽しめる内に楽しまなくては勿体無い。



 またコンビニの仕事も、すぐに復帰させてもらえることになった。

 オーナーが、退職ではなく休職扱いにしてくれたおかげだ。


 更には、溜まった有給を消化したという名目で、働いてもいないのに賃金までいただいてしまった。


 流石に受け取れないと断ったが、オーナーは生活の足しにしなさい、と言って譲らなかった。


 事情を察していながら何も聞かず、そして何も言わずに受け入れてくれた彼の優しさに感謝の言葉より先に涙が溢れて――筒見は大号泣した。それはもう、子どものように周りも憚らず。


 バックヤードでの出来事だったが、大音量の泣き声は表にまで聞こえたらしい。


 勤務中だったチーフには泣くなら静かに泣けと叱られたし、オーナーにはハンカチと間違えて持ってきたらしい靴下を渡されるし、気付かずそれで顔を拭く羽目になるし、『靴下が片方見当たらないと思ったら!』と怒り狂うチーフを宥めなくてはならなくなるしで、とんでもカオス状態と化したけれど――――それが、嬉しかった。二人が変わらず自分を迎えてくれたことが、ここに帰って来られたことが、本当に嬉しかった。



 お盆になると、筒見は一人でとある墓所を訪れた。


 買った花束を手に、サンダルで灼けた石畳を歩く。多くの墓は綺麗に掃除され花で埋まっていたが、そこはまだ誰も訪れていないのか、降り積もった砂埃に汚れたままだった。


 筒見は寺院でバケツを借り、水で濡らしたタオルで丹念に御影石を磨いた。周りの草も隅々まで毟り、新たに汲んできた水を柄杓でかけ、線香と蝋燭に火を灯し、花を供える。



「久しぶりだね、リサ」



 笑顔で声をかけてから、筒見は目を閉じて手を合わせた。そして心の中で、恭司きょうじの件が片付いたことを彼女に伝える。



「あの、もしかして……アイリ、さん?」



 不意に名前を呼ばれ思わず振り向くと、痩せた中年の女性が背後から自分を覗き込んでいた。


 友人によく似た面差しから、筒見はリサの母親だと直感した。墓参り真っ盛りのこの時期に訪れたことがなかったため、誰かと鉢合わせることは一度もなかったけれども――まさか、最も顔を合わせたくなかった人に遭遇するとは。



「す、すみません! 迷惑でしたよね。お花、すぐ片付けます」



 激しく狼狽えつつ、筒見は慌てて立ち上がろうとした。しかし女性は彼女の肩にそっと手を置き、それを押し留めた。



「いいの、ありがとう。とっても嬉しい」


「えっと……違ってたらごめんなさい。リサさんの、お母様でしょうか?」



 女性は穏やかでいて寂しげな笑みを浮かべて頷き、筒見の隣にしゃがみ込んだ。覚悟を決めて筒見は彼女に向き直り、自己紹介した。



「初めまして、筒見つつみ愛梨あいりと申します。リサさんとは……仲良くさせていただいてました。お葬式にも行けなかったし、お母様とはお会いしたことないと思うんですけれど……あの、どうしてあたしの名前、知ってたんですか?」



 すると、リサの母はバッグから小さなノートのようなものを取り出した。


 ピンクのクマが描かれた表紙には、何となく見覚えがある。そう確か、リサが大切にしていたプリクラ帳だ。



「これに、あなたと一緒に撮った写真が……あの子、あなたしか友達がいなかったみたいで」



 手渡されたそれを、許可を得て捲ってみる。彼女の言う通り、リサが高校の制服を着たプリは本当に自分とのツーショットばかりだった。



「…………いじめに遭ってたらしくてね」



 ぽつりと、リサの母が漏らす。



「本人の希望を無視して、親の見栄で有名私立に行かせるなんてバカなことをしたから……誰とも打ち解けられなかったみたいで。学校も休みがちで、家でもずっと閉じこもって。けど、いつ頃からか、よく出かけるようになったの。きっと、あなたのおかげね」



 そう、自分のせいだ。


 呼び出されていたのだ。体を売るために。クズのような男達に貢ぐために。



 後ろめたさに耐え兼ねて、筒見が俯く。だが、リサの母は変わらず優しい口調で続けた。



「携帯電話で、楽しそうに話しているところも何度も見たわ。アイリ、アイリ、って……ああ、友達ができたんだなあって嬉しかった」


『アイリ』



 母親のよく似た声音が、何度も聞いたリサの声を耳奥に思い出させる。堪らず、筒見は膝頭に顔を埋めて嗚咽を漏らした。



「アイリさん、本当にありがとう。ずっと、リサのことを覚えててくれて。忘れずにいてくれて。友達に、なってくれて……」



 リサの母の言葉を聞きながら、筒見はこれが自分に課せられた贖罪なのだと思った。



 リサを陥れ、リサを騙し、リサを殺した。


 彼女のことを、一生忘れずに生きていく。それが唯一、自分にできる償いなのだ、と。

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