37.覚醒


「さあ、ナナセさん。夢見る時間はもうお終いです。起きなさい。いつまでお母さんに甘えるおつもりですか? いい加減になさい。どれだけ探しても、お母さんはどこにもいません。『あなたが食べてしまった』のでしょう?」



 筒見つつみが息を飲む。


 サラギの言葉を聞くや、七瀬ななせは抵抗を止めた。




「…………だって、仕方ないよ。口の中、入ってくるの。嫌だったけど、食べたくなかったけど、どろどろ流れてくるの。飲み込むしかなかった。お母さんを、食べるしかなかった」




 虚ろな鳶色の瞳が揺らめく。揺らめきは波となり、押し出された波は涙となって、七瀬の頬を流れ落ちた。



「腐ってくの、お母さん。私を抱き締めたまま、溶けてくの。お母さん、お母さんの形じゃなくなってくの。それでも、一緒にいたかった。食べたくなんて、なかった。食べたら、いなくなる。消えてなくなる。それにお母さん、私のこと嫌ってた。私のこと、許さない。私が殺した。私を、『自分が生んだ子じゃない』『人じゃない』『人でなしの化物』って言った。なのに、死ぬ時はずっと、名前を呼んでくれた。あかつきあかつきあかつきって。食べたくなかった、お母さん……でも、食べてまで生きろって。私のことが嫌いだから、あの世には来るなって。だから…………死ねないの。お母さんを食べても、生きなきゃならないの」



 拙い口調で語られたのは、彼女の壮絶な過去の一部だった。



 詳しい状況は定かではないが、殺した母親の腐乱死体を口にし生き延びた――――それが七瀬を苦しめているトラウマの原因であるようだ。



 筒見は、ぐっと奥歯を噛み締めた。


 己の汚点ともいえる過去を七瀬が調べたと知った時、筒見は彼女に対して本気で殺意を抱いた。自分を助けるためと理解していても、許せなかった。



 七瀬も、同じだろう。


 いや、誰にも知られたくないという思いだけは同じだけれど、根本がまるで違う。



 彼女が頑ななまでに過去に他人の立ち入りを禁じるのは、自分のように汚点だと恥じ侮蔑されることを恐れているからではない。


 たとえ凄惨極まりないものであろうとも、七瀬は母親との記憶を独り占めしていたいのだ。ずっと、一人で抱えていたいのだ。


 どれだけ悲惨な過去でも、それによってどれだけ苦しめられようとも、彼女にとっては誰にも踏み入られたくない聖域にも似た『大切な思い出』なのだ。


 名前を呼ばれることを嫌うのもきっと、最期に聞いた母親の声を忘れたくないからなのだろう。



 想像でしかないけれど、筒見にはそう思えた。何故なら、自分もまた母親の最期の言葉に囚われ続けた『同士』だから。



 なので筒見は、こちらを見つめるサラギに頷いてみせた。聞かなかったことにする、と。



 筒見の返事を目で受け取ると、サラギは七瀬に向き直った。


 嗚咽を漏らすでもなくしゃくり上げることもなく、ひたすら涙だけを流し続けている。これは泣いているのではない、ただ網膜に焼き付いた過去の映像に目を射られただけなのだろう。



「そうですね、あなたは生きなくてはなりません。だったら、早く戻って来なさい。記憶の中のお母さんを食べても、生きてはいけませんよ?」



 サラギは彼女をもう一度胸に抱き締め、言葉を続けた。



「あなたはいつか、言いましたよね。私のように不死の身で生きても意味はない、と。死に逃れようとしたお母さんの遺志を尊重し、お母さんのいない世界に留まることがあなたの生きる動力源。それが、あなたが自分に課した贖罪。ですが死なないのでは、お母さんに二度と会えない。精一杯生きた結果を、再会したお母さんに褒めてもらいたい――そう考えて、あなたは生きているのでしょう?」



 サラギの胸に顔を埋めたまま、七瀬は僅かに頭を動かした。頷いたのだ。



「死して認められたいのなら、こんな意味のないことはもうお止めなさい。お家に帰りましょう。お母さんはいなくとも、 あなたの好きなコーヒーがある。あなたの好きな本がある。好きなものがあるあなたのお家で、あなたの大切な友人が戻ったお祝いをしましょう。勿論、可愛い猫も一緒ですよ」


「…………ねこ」



 小さく呟くと、七瀬は飛び起きるようにして顔を上げ――しかし、糸が切れたように意識を失った。



「いけない!」



 慌てて筒見は駆け寄った。


 急いで脈拍を取り、呼吸を確認する。どちらもひどく弱々しい。



 やはり、オーバードースしていたのだ。



 母親の幻覚を追いかけることで保たれていた意識が、サラギの説得により消滅したせいで途切れたに違いない。かといって、あのままの状態が続けば発狂していただろう。


 筒見はサラギの腕に力無くもたれる七瀬を激しく揺さぶり、必死に頬を叩いた。



「ナナちゃん、ダメ! 起きて! 目を覚まして!」



 何度呼びかけても、返事はない。


 なすがままに揺られる姿は、乱れてはいるもののドレスを纏っていることも相まって、まるで等身大の人形のようだった。



 リサのことが、頭を過る。


 焦り狂うあまり、筒見は泣き叫んだ。



「起きて! 起きてよ、ナナちゃん! お願いだから起きてよ……守るって言ったじゃん! ナナちゃんは……あたしが守るって。囚われの姫が助かったら、エンドロールに出てくるんでしょ? まだ物語のエンディングも知らない内に、勝手に眠り姫やってんじゃないよぉ……脇役のくせに主役の座、奪うなよぉ…………」



 力無く垂れた手を握り、最後に交わした約束を懸命に訴える。




 すると――――泣き伏していた筒見の耳に、聞き慣れた声が掠れて届いた。




「…………ごめん。ちょっとだけ、主役……やってみたかった、のかも」




 相変わらず無表情ではあったが、正気を取り戻した証に七瀬は自力で身を起こし、自分の肩を抱く飼い猫の手を汚らわしいと言わんばかりに振り払った。



「おかえり、筒見さん」

「ナナちゃんも、おかえり」



 そうして互いの存在を確かめるように、二人は固く抱き合った。



 ついに迎えた、念願のエンディング――――だが、そのエンドロールは筒見の想像と違い、プリンセスを差し置いてドレスを着た脇役がダブルヒロインに昇格、そして王子役だったはずのサラギは納得いかないという目で蚊帳の外から眺めるという、非常に奇天烈なものだった。

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