36.咀嚼
「え? 誰……?」
重石代わりに七瀬の上に乗っていた眼鏡男が、狼狽えながらも問う。河内の知人である可能性を考慮したのだが、相手の纏う空気でそうではないと悟ってもいた。
「あなた方…………その人に何をしたんですか?」
サラギの口元には、もう笑みはなかった。
女性的にも見えるなよやかなくちびるから、背骨を下から砕いていくような恐ろしく暗い音声がどろりと流れ落ちる。殺意より深い、熟成された怨念じみた空気が熱帯夜に茹だる室内を一気に冷却した。
これは、ただの訪問者ではない。
無言の内にそれと察した五人は顔を見合わせ、サラギに向かって一斉に襲いかかった。
五人の中には、喧嘩慣れした者もいる。暴力沙汰とは全く無縁の奴もいたが、この人数ならば余裕だと思っていた。
だがすぐに、それは勘違いだったと気付かされた。
拳が腹を抉れば内臓ごと貫かれ、首を掴まれれば簡単に脛骨が砕ける。蹴られるだけで腿は関節を無視してその方向に折れ曲がり、手刀を喰らえば刃物の如く分断される。
喧嘩や格闘が通用しないなどというレベルではない。まるで出鱈目だった。
「…………ナナセさんに、何をしたんですか?」
敢えて話せる程度に留めておいたタクの髪を引き掴んで顔を寄せると、サラギはもう一度同じことを訊いた。
両足を蹴り折られ、倒れたまま他の皆が殺されていく様を見せられたタクは、間近に迫る琥珀色の眼差しに威圧され気を失いかけながらも、必死に首を横に振った。
「な、何もしてない! 本当だ、嘘だと思うならあそこにあるカメラ見てみろ! 撮ってたから、河内さんが全部撮ってたから! 俺、食われたんだよ! あの子にここ、食い千切られたんだよ! 被害者なんだよ!」
「…………ナナセさんが? あなたを?」
その言葉に毒気を抜かれたように、サラギは目を瞠った。
彼の指差す方向に視線を落とせば、腹部には確かに肉を無理矢理に噛み千切られたらしき生々しい傷がある。
命乞いをするタクの頭を踏み潰して立ち上がると、サラギはベッドの上に転がる七瀬に近付いた。
「ナナセさん、大丈夫ですか? 助けに来ましたよ?」
優しく問いかけながら轡を毟り取り、ロープも引き千切って解く。
戒めを失った七瀬は、まろび落ちるようにしてサラギに身を預けた。そして背中にしっかりと腕を回し、溶け合わさることを切望するかの如く強く密着する。
いつにない彼女の様子に、サラギは軽く狼狽えた。
「……ナナセ、さん?」
恐る恐る名を呼んだその時、左胸に鋭い痛みが走った。
驚いて見下ろせば、七瀬がシャツの上から心臓付近の皮膚に歯を突き立てていた。容赦のない力で食い込ませたそれは、じりじりと肉を切り裂き、奥へ奥へと侵入していく。
それにつれて濃くなる苦痛に、サラギは顔を歪めた。
「ちょ……ナナセさん、止めなさい。一体どうしたというんです? あなたは肉も血も、大嫌いだったでしょう。何故こんなことを……」
痛みを堪えて訴えても、七瀬は止まらない。
引き剥がそうとしても、七瀬は離さない。
激しく混乱しながら、それでもサラギは何とか彼女から身を離すことに成功した。シャツの生地と自分の肉とを引き換えに。
タクの時と同様、七瀬はサラギからもぎ取った血肉を布地ごと噛み締めて飲み込んだ。それからやはりすぐに吐き出し、同じ台詞を落とした。
「……お母さんじゃ、ない」
「…………ナナセさん、あなた」
愕然としてサラギが呟く。
しかしドア付近に人の気配を感じると、すぐに七瀬を頭から覆うようにして胸に抱え込んだ。
「
入口に転がる五人の無残な遺体に竦み上がりながらも、筒見は言われた通り、なるべくベッドに近付かないよう壁を伝い、設置されたカメラの元に到着した。
「お母さん、お母さん、お母さん……」
サラギの腕の中で、七瀬が暴れる。だが行動とは裏腹に、その表情もその声も痛切なまでに悲しげだ。
この取り乱し方は、尋常じゃない。
筒見には、原因が何なのかすぐに察しがついた。
果たしてそれは、カメラを確認すると的中した。
「……サラギくん、まずは良い報せ。ナナちゃん、体の方は無事だよ。何かされる前に、こうなっちゃって手が付けられなくなったみたい」
「悪い報せとは?」
間髪入れずにサラギが問う。筒見は震える息を大きく吐き出してから、静かに答えた。
「ナナちゃん……やっぱりドラッグ食わされてる。カメラには投与されてるシーンは映ってないけど、種類は何となく……予想つく」
河内は言うことを聞かない女の子がいると、必要に応じて薬物を使っていた。確認できた情報は『眠剤』『経口二発』のみだったが、筒見の予想通りの薬物なら、それはどちらもとても強力なもので――ドラッグ初心者には、かなり危険な量だと推測された。
「あの……ドラッグとは何ですか?」
この非常時に間抜けた質問をされ、筒見は半ばやつあたり気味に怒鳴り付けた。
「バカ! 麻薬だよ! 飲んだら高揚感煽ったり幻覚見せたりすんの! 使い続けたら頭も体もイカれちゃうの! 薬って名は付いてるけど、あんなのただの毒物だ!」
筒見の勢いに気圧されながらも、サラギはもう一度尋ねた。
「す、すみません……横文字に疎くて。麻薬でしたら、私も存じております。しかし一度や二度くらいの摂取なら、大事には至りませんよね?」
筒見は小さく頷き、しかしそのまま深く俯いた。
「一般にはそう言われてるし、依存症になることはない、と思う。でも……薬が効いてる間に精神状態がおかしくなって、発狂したり……体に合わなくて、最悪、死んじゃったり……することも…………」
徐々に細くなっていく声が完全に消え入ると、サラギは胸の中に抱いていた七瀬に視線を落とした。
これが麻薬の効果であるなら、彼女はきっと――。
彼が少し力を緩めた途端、七瀬は『母ではない』相手を突き飛ばし逃れようとした。だがサラギはそれを許さず、藻掻く彼女の両肩をしっかりと押さえ、真っ直ぐ目を見据えた。
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