34.覚悟


『……』


『…………』


『………………』


『……………………』




 いつもの声が、聞こえる。


 幾度も幾度も繰り返される。




『……、……、……、……』




 声はいつまでも続く。



 その声を聞きながら、七瀬ななせはふと、このままずっと夢現の狭間に居続けるのも悪くない、と思った。


 ここでなら、ずっと一緒にいられる。たとえ本物のあの人ではないとしても、ただの記憶の再生に過ぎないとしても、ずっと存在を感じていられる。



『……は、……で、ない』



 しかし夢に逃避しようと、現実は変わらないと理解してもいた。


 あの人がいないこの世界を、生きねば駄目なのだ。この限りある命が、いつ途絶えるとも分からぬ瀬戸際を体感しながら生きねば駄目なのだ。様々なものを失ったこの身で、無為で無益な人生をひたすら続けなくては駄目なのだ。



『ア、……、……、キ』



 自ら作り出した逃げ場に留まるのは簡単で居心地が良い。だけど、此処は己の居場所ではない。



『ア、カ、ツ、キ』



 声に追い立てられるようにして、七瀬は目を開けた。



 まず視界を襲ったのは、瞳を刺し抜くような強い光だった。思わず手を掲げ、瞼を覆う。


 暫くして眩しさに慣れると、見覚えのない天井が確認できた。自宅マンションとは全く違う、荒い木目の目立つ板造りの天井、木製の梁、丸太を組み合わせた壁。首を巡らせてみれば、煌々と光を放つ数々の照明器具も確認できた。


 一体、ここは何処なのだろう。


 目が覚めてもぼんやりと働かない頭を起こすと、七瀬は全裸の自分の足を開き、照明の付いた虫眼鏡のような器具を使って性器を調べている男を発見した。



「うん、外部も内部も文句なしだ。これならアップの撮影も最高に決まる。しかしまあ、こんだけ綺麗だと、使うのが勿体無く感じるねぇ……」


「そうなの」



 何となく返事を返した七瀬に、男は驚いて顔を上げた。



「あれぇ、もう起きたの? おっかしいなぁ、予定じゃもう一時間くらいは目覚めないはずだったのに」


「そうなの」



 よくわからないまま、七瀬は全く同じ言葉を落とした。そして、またふらりと倒れる。


 背中にスプリングが弾む感触が走った。そこで七瀬はやっと、自分がベッドに寝かされていることに気付いた。



「おいおい、大丈夫? 半端なとこで目ぇ覚ましたから反動きてるのか……眠剤の耐性は高いようだけど、かなり強いの使ったもんな。ま、起きたことは起きたんだし、とっとと始めっか」



 そう言うと、薄いレンズのサングラスをかけ直した男――河内かわちは造り付けのクローゼットを開けて、中から二着の衣装を取り出した。


 どちらもレースやフリルがふんだんに使われたロリータ系のミニドレスで、大きな違いは基本色が白か黒かという点であった。それを仰向けで空を見上げている七瀬に交互に重ね、河内は暫し思案してから大きく頷いた。



「どっちもハマるけど、敢えての黒にするかな。処女なら普通は白ってイメージだけど、久々の良素材だ。ありがちの王道じゃつまらない。そうだなぁ……夜の森に現れた黒アリス、そこで人間の男達に捕まり陵辱の限りを尽くされ、やがて快楽に溺れて、不思議の国には二度と帰れなくなるって設定はどう? うん、面白いんじゃない? よし、これでいこう!」



 鼻息荒く語る河内をよそに、七瀬は取り留めなく散る思考を何とか掻き集めて、か細い記憶の糸を辿った。



 そうして、夕飯を買いに出かけた帰り道に人気のない路地で覆面をした何者かにナイフで脅され、車に乗せられたことを思い出す。


 数人がかりで体を押さえ付けられ、大人しくしなければ筒見つつみも殺すと更に脅しかけられて何かの薬を飲まされ――そこから意識は途切れ、今にリンクする。



「ねえ……筒見さんは無事?」



 嬉々として下着や衣類を着せている河内に、七瀬は一番気がかりだったことを尋ねた。



愛梨あいりに危険があるわけがないさ。あの娘は俺らにとっても大切な存在だからね」


「そっか、ならいい」



 何の感慨もない声でそれだけ答えると、七瀬は再び黙った。



 薬のせいでまだ朦朧としているのだろうが、友人を心配するくらいなのだから、自分の危機だって理解できているはずだ。なのに全く動じない彼女に拍子抜けして、河内はヘッドドレスを装着し終えた頭を掴んで問いかけた。



「あのさ、君、わかってる? これから君は、男性経験もないってのに複数の野郎に犯されるんだよ? おまけにこの俺が、その様子を余す事なくきっちり撮影する」


「そうみたいね」



 他人事のように七瀬が呟く。


 河内は少し困惑したのか苛立ったのか、金のオールバックに合わせてブリーチした眉を軽く歪めた。



「お前よ、怖いとかさ、嫌だとかさ、そういうの少しも感じないの? 現実感沸かないってやつ? だったら現実見せてやんよ。おい、もう入っていいぞ!」



 河内が大きな声で呼ぶと、隣室で待機していた五人の男達が雪崩込んできた。


 年齢は二十代から五十代とバラバラ。屈強な肉体を誇示する者から弛み切った者までバラエティに富んだ顔ぶれだったが、揃って既に下着一枚という姿だ。早くも股間を隆々と充血させている者までいる。



「どうよ、久々にイケてる主演女優だろ? おまけに処女だ。ただちょっと、反応が鈍そうなんだよなあ。キョウちゃんに聞いた話じゃ、痛覚バカになってるらしいし」



 河内が七瀬を抱き起こして紹介すると、一番若い男がくちびるを尖らせた。



「マジすか? それじゃ破瓜の画、決まらないじゃないすか。痛がらないんじゃ、ただのマグロと同じっしょ。つまんねえな」


「だったらいっそ、ドールって設定にすれば? 受ける層は限られるけど、このビジュアルならそこそこ需要あるだろ」



 眼鏡をかけた小肥りの男が進言する。しかし河内はうんざりしたように歯を剥き、腕の中の七瀬を愛おしげに撫で回した。



「上玉の初物をマニア向けに卸すなんて、そんな勿体無いことするか。痛覚はさておき、快感の方はお前らで開発してやれるだろ? 燃えねえんなら点火するまでだ。このお人形さんみたいに可愛い姫に、天国ってもんを教えてやるぞ」


「あ、なるほど。ギャップの淫乱路線でいくのね。了解した」



 河内の思惑を理解すると残る三人も頷き、嫌らしい笑みを浮かべた。


 その様子を見ても、七瀬は心此処にあらずといった感じだった。


 河内が懐に忍ばせていた小さなケースから注射器を取り出し、それを彼女のくちびるの隙間に押し込む。そこで初めて、七瀬は抵抗を見せた。



「大丈夫、毒じゃないよ。俺らが君を殺すわけないだろう? 何たって、愛梨の大事なお友達なんだから」



 弱々しく手足を動かして藻掻き、薬を吐き出した七瀬を優しく諭し、河内はもう一度同じ行為を繰り返した。


 飲み込んだのは少量だったが、七瀬の全身はすぐに奇妙な浮遊感に包まれた。



 そんな中、彼女の脳裏に浮かんだのは二人の人物の顔だった。



 一つは最後に見た、涙に濡れた親友の顔。


 筒見に危害が及ばないならそれでいい。この身を蹂躙して気が済むなら、好きに使えば良い。


 何の思い入れもない、この世に存在するためだけにある、ただの器だ。



 そして、もう一つは――。



 名を呼びながら手を伸ばすその人に、しかし七瀬はいつものように縋り付かず、ぐっと拳を握り締めた。



 まだ死なない。まだ死ねない。まだそちらには行けない。まだだ。まだあの人には――会えない。

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