33.粗餐


「……はっ、そのリサって奴のことで俺を恨んでるってのか? だから死ぬ前に謝ってちょうだい、と? そんなどうでもいい女の死に様を聞かせて、どうしようってんだ? とんでもねえバカだな、てめえは!」



 半ば自棄気味に、恭司きょうじが喚く。


 すぐ側に死神がいて、そいつが最期の鎌を振るうのを待つばかりという状況なのに、記憶の片隅にもない使い捨て女の話など面白くもなければ役にも立たない。


 もしかしたら自分に改心を促し、もう悪さはしませんから許してくださいと二人でサラギに命乞いしようという魂胆があったのかもしれないが、今更何をしたところで無駄だと恭司は悟っていた。 



 相手は『不死の化物』なのだ。『人間の道理』など通用するわけがない。



 そんな恭司の心中を知ってか知らずか、筒見つつみは静かに答えた。



「違うよ、リサはほんのきっかけ。こんな子もいたんだって、伝えたかっただけだよ。謝ってもらおうなんて思ってないから、安心して。あたしがあんたを憎んでるのは…………ママのせいだよ」


「……あ? 佳純かすみ? 今度は男を見る目のない馬鹿な母親のお話かい。くっだらねえな」



 流石に母親の名前は覚えていたようだったが、恭司はその話になっても相変わらずで、嘲り笑いすら浮かべてみせた。



「そうね、ママは男を見る目がなかったし、子育てできる器もない駄目な女だった。父親が誰かもわからないままあたしを産んどいて、邪魔だって放置してた。子どもがいることを隠して、ずっと水商売と男漁りを続けてた。金が貯まって自分の店を開いたら、あっという間に人気になって、羽振りが良くなって……でも騙されてあんたに全部持ってかれて、結局自殺してんの。ホント典型的なバカ女。でもね」



 そこで言葉を区切り、筒見は恭司の胸倉を引っ掴んだ。



「バカでもクズでも、あたしにとっては唯一の親だったんだ! なのにあのクソ女……最後の最期で裏切りやがった。てめえの名前を呼んで逝きやがった。てめえはあたしから、ママを奪ったんだよ!」



 何もかも奪い尽くし、恭司がもう用済みだと判断して離婚届を突き付けたという翌日――筒見の母親は、飛び降り自殺を図った。


 連絡を受け病院に駆け付けた筒見は、医師に促されて瀕死の彼女の手を握った。



 すると母は弱々しい力で手を握り返し、娘である筒見に告げた。



『……恭司、来てくれたの』



 それが最期の言葉だった。



 ずっとネグレクトされ続けながらも、筒見はいつか母が笑いかけてくれるはず、抱きしめてくれるはずと信じていた。


 しかしあの言葉を聞いた瞬間、母は自分に愛情なんて欠片も持っていない、自分は母にとって死の間際ですら認識されない存在なのだという事実を、完膚なきまでに叩き付けられたのだ。



「あんたなんか、いなくなればいいとずっと思ってた。消えてほしくて消えてほしくて、仕方なかった。あの世なんてものがあるかは知らないけど、次はあたしが殺してやるよ! ママの目の前で、誰かわからなくなるくらいグチャグチャに切り裂いてやる! あんたは……あんただけは、もう二度とママに会わせない!」



 鬼気迫る叫びと表情に、流石の恭司も言葉を失った。



 この娘は、これほどの憎悪を抱き続けていたのだ――恭司が本性を見せる前から。母親の新たな夫として紹介された時から、ずっと。



 筒見は乱れた息を整えて手を離し、サラギに向き直った。




「もう、いいよ……」




 彼女の口から零れたのは、幼い頃、誰もいない家で一人よくやっていたかくれんぼの台詞だった。


 そうして箪笥や押入れに隠れて、母親が見付けてくれるのを待っていた。一度も叶わなかったけれども。



 サラギは一瞬、無表情になった。だが、すぐにくちびるを吊り上げ応じる。



「では次は、私が『鬼』ですね。目を閉じていなさい。『もういいよ』と聞こえるまで」



 項垂れて佇む筒見の隣を彼がすり抜け近付くと、恭司は思い出したように情けない悲鳴を漏らした。



「あ……ひ……やめ、やめろ! 俺が悪かった! リサのことも佳純のことも謝る、反省する! もう二度と誰も傷付けない、約束する! 愛梨あいり、お願い助けて! 助けてくれ!」



 無駄だとわかっていても、乞わずにはいられなかった。ここにいるのは、死なない化物と己を憎む義娘のみ。絶望しかない中でも、何とか希望を見出したかった。



 必死で生に縋り付く義父の哀願に、筒見は背を向けて耳を塞いだ。これが彼女にできる、精一杯の復讐だった。



 サラギはそんな彼女を肩越しに見遣ると笑みを濃くし、暴れ藻掻く恭司の肩を掴んで顔を寄せた。



「往生際が悪いですよ。これまでの代償を支払う時が来たのです。まあ、大した値にはなりそうにはありませんがね」



 恐怖に歪んだ恭司の視界に、いつかモニター越しに見た鋭く尖った犬歯が映る。暗緑色のフィルターを除いたそれは白く艶やかに煌めき、口腔奥に躍る舌は血液の如く赤かった。


 慄き見守るしかできない恭司の腕を取ると、サラギは刃の如く研ぎ澄まされた歯をその二の腕に深々と突き立てた。


 そして、大きく噛み千切る。


 己の肉を咀嚼するサラギの琥珀色の瞳を仰ぎ、恭司は更なる恐怖に突き落とされた。




 この男は――――自分を生きたまま食うつもりなのだ!


 我こそが頂点だと思い込み驕っていた自分に、『食物連鎖の頂点を思い知らせる』と宣告した通り!!




「ああ! あああああ!!」




 恭司は絶叫した。



 次々と襲い来る耐え難い苦痛への恐怖、確定した死から逃れられない恐怖、ただの食餌として食まれる恐怖、徐々に形を失っていく恐怖、人を喰らう不死者という正体不明の恐ろしい存在への恐怖――――ありとあらゆる恐怖が一斉に彼を責め苛む。


 正気など保っていられなかった。それでも地獄の苦しみは続く。恭司は叫んだ。叫ぶしかできなかった。



 時間にして、ほんの数十分の出来事だった。



 だが塞いだ手を突き抜けて鼓膜を揺らす義父の声に耐えていた筒見には、永劫の時のように感じられた。



 声はどんどん小さくなり、やがて途絶えた。



 無音となっても筒見は身を縮めて蹲ったまま、固く目を閉じて外界の感覚を遮断し続けた。


 何が行われているかなんて、想像したくもない。想像などせずとも、次は自分の番なのだから。




「…………もういいですよ」




 耳元に、静かな囁き声が落ちる。



 恐る恐る顔を上げると、こちらを覗き込んでいたサラギと至近距離で目が合った。



「全く、何度も声をかけたんですよ? そんなに強く耳を塞いでいたら、合図なんて聞こえないでしょう。筒見さんは、かくれんぼをしたことがないのですか?」



 手近にあったタオルで顔を拭きながら、サラギが不思議そうに尋ねる。その瞳にはもう邪気はなく、口元を彩る仄かな微笑も、筒見がよく知るものだった。


 呆然と見上げる筒見の前で、サラギは脱ぎ捨てた衣類を拾い上げ吸い込んだ血を絞ると、赤く濡れたシャツを再び羽織った。



「え……? あの、待って、サラギくん。あたしは? あたしは、殺さなくて……いいの?」



 のんびりとボタンを留める彼に筒見が問う。


 サラギはジャケットの内ポケットに入れておいた貴重品の無事を確認してから、さも心外といった風に肩を竦めてみせた。



「失礼な、私は殺戮などという無益な行為は好みません。どうしても後を追いたいというなら止めませんが、やるならご自分でお願いしますよ。何せもう、お腹一杯なので」



 筒見が慌てて辺りを見渡す。


 恭司の姿は、どこにもなかった。残されているのは、心許ない灯りに浮かぶ凄まじい量の血の痕だけだ。



 食べ尽くされたのだと理解しようとしても、その事実に頭が追い付かない。筒見は脱力感に任せ、暫し呆然とした。



「さあ、一緒に帰りましょう。早く無事な姿を見せて、ナナセさんを安心させてあげて下さい」



 サラギがへたり込む彼女に手を伸べる。


 だがその言葉で我に返った筒見は、大切な親友の危機を思い出し、サラギの足に縋り付いた。



「サラギくん、ナナちゃんが! ナナちゃんが捕まった! ナナちゃんを助けに行かなきゃ! あたしが守るって言ったのに……あたしのせいで……!」



 途端に、彼の表情が失せる。



 ズボンの生地を握り締めたまま涙目で訴える筒見を引き起こすと、サラギはそっと問いかけた。




「…………案内、お願いできます?」




 やけに優しい声音とは裏腹に、琥珀色の両の目はこれまで以上に凄惨な輝きに満ちていた。

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