32.制止


 その声を聞いた瞬間、恭司きょうじは大声で訳のわからぬ悲鳴を漏らした。



 振り返ることなど、とてもできなかった。


 叫びながら、出口へと駆け出す。しかしすぐに、縺れた自分の足に躓き、無様に転んだ。転んでも這いずり、必死に逃げようと足掻く。


 気付かぬ間に、彼は失禁していた。ズボンから染み出た尿で軌跡を描きながら、立たぬ足腰を懸命に動かして逃れようとする恭司を見下ろし――サラギは呆れたとでも言いたげに、溜息を落とした。



「先ほどまでの威勢はどうしたんですか。全く、娘の前でみっともない。父ともあろう者がそんな情けない姿を見せるなんて……やはりあなたは、親失格ですね」



 そう吐き捨て様、彼は恭司の左足首を踏み付けてあっさり砕いた。凄まじい激痛に、恭司が転げ回る。



「ほう、あなたにも痛みという感覚があったのですね。私はてっきり、知らないのかと思っていましたよ。苦痛、悲痛、恐怖、畏怖……この全てを、ないがしろにして生きて来られたそうですからねえ。おやおや、涙も流せるとは。失敬、私の勘違いだったようですな。あなたという人を、誤解しておりました」



 恭司の目にはもう、鋭い肉食獣じみた凶暴な光はなく、何十年ぶりかに流す涙でしとどに濡れていた。


 既知を振り切った異形の存在に対する恐怖が、苦痛すらも凌駕する。


 声を詰まらせながら、恭司は必死に乞うた。



「ひ…………たす……助けて、許して。助け、助けてくれ……」



 コンクリートにうつ伏せたまま、そればかりを繰り返す。


 サラギは泣きじゃくる恭司の前に屈み込むと両肩を抱いて身を起こさせ、真正面から彼を見据えて問うた。



「これまで何人が、あなたにそう言いましたか? あなたはその懇願に耳を貸し、願いを叶えたことがあるのですか?」



 恭司に返すことのできた答えは、噛み合わない歯の根から漏れる嗚咽のみだった。



 サラギは軽く肩を竦めてみせてから、彼の肩を抱く手に力を込めた。恭司が思い出したかのように絶叫する。彼の両肩も、いつかの女探偵と同じ末路を辿った。


 だが、これだけでは終わらない。


 立ち上がったサラギは彼の足元へと移動し、今度は両足首を掴んだ。無事だった右側も、軽く圧砕される。


 息つく暇もなく、襲い来る苦痛の連続。恭司は獣のように喚き、赤子のように泣くしかできなかった。



 サラギは恭司の足を掴んだまま引きずり、放心状態でへたり込んでいる筒見つつみの元へ運んだ。



「この方も、助けを求めても叶わず、苦痛と涙を長らく強いられてきた一人です。どうです? 今のあなたなら、彼女の気持ちが少しは理解できるのではありませんか?」



 初めて見る義父の泣き顔に、筒見は少なからず動揺した。


 助けて、と悲しげな目が訴えている。この自分に、哀願している。


 ずっとずっと恐ろしいだけの存在でしかなかった。この人には弱い面などないのだと思っていた。


 なのに、違った。

 この人も自分と同じ、『ただの人間』なのだ。



「皆、あなたのために生きているわけではありません。ここは、あなたが中心の世界ではありません。食物連鎖の頂点にいるのは、あなたではありません。それをこれから、あなたは思い知るんですよ」



 怖気立つような声で宣言し、サラギは恭司に向けて再び手を伸ばした。



「待って!」



 しかし、筒見が立ち塞がる。サラギは伸ばしかけていた腕を止め、彼女に視線を落とした。



「邪魔をするおつもりですか。ならば、あなたもこの人の味方だと見做し、相応の処理します。ナナセさんの朋友とはいえ、私のことを知られてしまった以上、ただで済ませるわけにはいかないようですし」



 リオに向けた時とは比にならないほど暗く冷酷な眼差しには、憎悪に加えて確かな殺意が滲んでいた。


 その目に射竦められながらも、筒見はいつのまにか綺麗に塞がった彼の左胸に恐る恐る触れ、震える喉から声を絞り出した。



「あたしは……サラギくんの秘密を知ったからって、誰かに言うつもりなんてないよ。だって、サラギくんは大切な友達だもん。けど、サラギくんが口止めしたいなら、好きにしてくれていい。だからお願い、少しだけ……時間をちょうだい。この人に、言いたいことがあるの。どうせ最後になるなら、話をさせて」


「いいでしょう。最後のお願いならば仕方がない、どうぞ心行くまで語りなさい」



 冷ややかにそう告げ、サラギは一歩引いた。



 指先に感じた彼の温もりごと手を握り締め、筒見は恭司の傍らに膝を付いた。そっと顔を寄せると、待っていたかのように恭司が囁いた。



「あ、愛梨あいり……胸ポケットに、銃がある。弾倉も、そこに……奴を、殺せ。お前が殺るんだ。でなきゃ、二人共……」



 この期に及んでまだ抵抗しようとする義父に、筒見は思わず笑ってしまった。ところが何故か、涙まで一緒に溢れ出す。



「バカね、無駄だよ。サラギくん、死なないみたいなんだもん。もう諦めよ?」


「嫌だ、死にたく、ない……死にたくない……! 何とかしてくれ、愛梨。お前、恋人なんだろ? あいつを、止めてくれ。あの、化物を……!」



 動かぬ四肢を捩らせ、恭司が必死に泣き縋る。先程とは構図がまるきり真逆だった。


 だが筒見は無視したりせず、窘めるように彼の頭を撫でてやった。



「サラギくんは化物なんかじゃないよ。ちょっと体が頑丈なだけ。それに実は、恋人じゃないの。だから、あたしには止められない。騙しててごめんね。でも、お義父さんもあたしを何度も騙したんだから、おあいこだよね」



 万策尽きて、今度こそ絶望の奈落へと突き落とされた恭司に、筒見は言葉を続けた。



「どうせ死ぬんだからさ、あたしの話を聞いて。あたし、あんたが大嫌いだった。でも勘違いしないでね。確かに、あんたにされたことは許せない。散々玩具にされて、金のために体売らされて。それだけならまだしも、あたしに女の子キャッチさせて、その子達も同じ目に遭わせて、どんどん仲間を増やしてく。そんな腐った病原体の感染媒体みたいな真似すんの、死ぬほど嫌だった」



 筒見の脳裏に、過去の忌まわしい記憶が蘇る。



 好きでもない男達に、無理矢理肉体を蹂躙される辛さ。


 誰にも相談できないまま、恐怖に支配されて意のままの人形となった醜い自分。


 松木と花房の教育を受け、男ばかりでなく、目についた女をも闇へと誘う日々。


 悲鳴、罵声、怒声、自分に向けられる『何故どうして』と言いたげな皆の悲しい瞳。



 逃げようとした奴に、薬を与えたこともあった。中毒に陥って操り人形と化した者を手下に使い、彼らにも良からぬ仕事をさせ、不幸ばかりが広がっていく悪循環――――そんな中にも、希望はあった。



「リサのことなんて、もう覚えてないよね。あの子、あたしが自殺しようとした時に止めてくれたんだ。生きてればどうにかなる、一生このままなわけじゃない、いつか幸せになれる日が来るって。あたしに騙されてこの世界に引きずり込まれたってのに、どんだけお人好しのお花畑頭なんだよって笑いたかったけど、あんまり真剣でさ……笑えなくて、代わりに泣いた」



 以来、距離を縮めた二人は合間を縫って頻繁に連絡を取り合い、会って色々なことを話した。


 普通の家庭に育ち普通の女子高生だったリサは、将来の夢についてよく語ってくれた。自分と出会わなければきっと今頃、夢だった保育士になっていたのだろう。彼女の控えめな笑顔を思い出し、筒見は俯いた。



「でも……死んじゃった。薬のオーバードースで、ホント呆気なく。そしたらあんた、言ったよね。『大した稼ぎもできなかった生ゴミ』って。あんたにとって、あたし達は道具でしかないことくらいわかってたつもりだったけど、死んでも人として扱われないんだって痛感したよ。だから、皆を逃がそうと思ったの」



 リサが亡くなってから、筒見はこれまで以上に従順に仕事を続け、恭司の信用を得ることに専念した。仕事も辛かったが、不自然にならないよう、少しずつ心を開いていくフリをするのは本当に大変だった。念願叶ってグループ内でも重要な役割を担うようになると、細心の注意を払いながら恭司達の悪事に関する証拠を集めた。


 そして頃合いを見計らい、筒見は敢えて下手を踏んで警察に捕まった。


 そこからは早かった。既にグループ内でトップクラスにいた彼女の供述と『手土産』は、恭司の存在と素行を知りつつ尻尾を掴めずにいた警察に大きな躍進をもたらした。


 恭司は逮捕され、グループも壊滅。松木や花房のようにうまく逃げ出した者もいたようだが、目的は果たせたのだから筒見は満足だった。



 だが、最も罰したかった自分自身は、大した罪に問われなかった。



 当時まだ十八歳だった上、義父からの性的虐待に売春強要という悲惨な家庭環境、また積極的に捜査に協力し深く反省している点が大きく評価され、情状酌量の余地ありと判断されたのだ。


 未来ある少女を慮っての裁定だったのだろう。しかし皮肉なことに、このせいで彼女が抱えていた罪悪感を行き場を失くし、心を蝕まれるようになった。



 また、警察に自分の知る全てを暴露した筒見だったが――一つだけ、黙っていたことがある。リサのことだ。



 彼女の死は、『全く面識のない相手から通り魔的に暴行を受け、その際に投与された麻薬によるオーバードース』とされている。


 リサはお母さんには知られたくない、悲しませたくないといつも言っていた。そんな彼女の思いを尊重し、筒見はリサが自分達のグループに関与していたことだけは言わなかった。

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