30.呪縛
外出はもちろん禁じられ、常に見張りが付いている。
内部は電気と水道が通っており、冷風機と扇風機も何台か用意してもらったため、快適とは言い難いにしろ、思ったよりは過ごしやすかった。
世話をしにやって来る者は毎回違えど、彼女に要求することは皆同じだった。これが食糧代、ということなのだろう。そう割り切り、筒見は抵抗せずに体を開いて望まれるがままに相手した。
恭司の姿は、ここに来てから一度も見ていない。誰も彼のことは口にせず、また筒見の方から尋ねることもなかった。
「はあ、いつまでこんなとこいなきゃなんないのかなぁ……超退屈だよ。ねえ、次はゲームか何か持ってきてくれない? 食事もっとカロリー低いのにしてほしいな。揚げ物ばっかじゃ太っちゃうよ」
「うるせえな、お前の口車にゃ気を付けろって言われてんだよ。太りたくないならその分、運動すりゃいいだろうが」
「ケチ。いいよ、もうあんたになんて頼まない。ムカつくから、次の人には思いっきりサービスしよ〜っと」
再び伸びてきた手を払い除け、筒見はシーツに包まったままくちびるを尖らせてみせた。
「おいおい、何だよ。俺にゃ手抜きだったってか? どっちがケチだよ、ちゃんと平等にサービスしろ」
「あ、ケチな上に逆ギレしちゃう? だったらあたしがサービスしたくなるように、そっちが頑張ったらあ?」
けらけら笑う彼女を組み敷き、男が第二戦に突入しかけたところで――不意に、倉庫の扉が開く音が轟いた。
「え……恭司、さん? いや、あの、お疲れ様です」
ずかずかと入り込んできた恭司は、唖然としている男を蹴り落とし、マットレスだけを置いた簡易なベッドにどかりと腰掛けた。
「お
義父の暴挙になどもうとっくに慣れている筒見は、目で促して裸の男を立ち去らせると、バスローブを羽織って座り直した。
いつになく暗い顔をしたまま、恭司はゆっくりと息を吐き出し、それから彼女に問うた。
「…………サラギ、とかいったか。あの男、本当にお前の恋人なんだろうな?」
その名を聞いただけで、筒見の胸に甘酸っぱいような物悲しいような、ひどく切ない気持ちが満ち溢れた。
こんなことを聞かれたのは、
「それを言うなら恋人だった、でしょ。何で今更そんなこと聞くの。もう、会うこともないのに」
平静を装おうとしたが、胸に広がった郷愁にも似た思いは留め切れず、筒見はそっぽを向いて俯いた。その様子から彼女が嘘をついていないと判断した恭司は、次なる質問を繰り出した。
「そうか。じゃあ奴は『ナナちゃん』とはどういう関係なんだ?」
心臓が鷲掴みにされたような気がして、筒見は凍りついた。
鼓動が、早鐘を打つ。
黙り込んだ義娘に、恭司は更に畳み掛けた。
「あの男と『ナナちゃん』は、友達じゃないらしい。だったら何なんだ? 何故、恋人のお前も知らないような一面を、あの娘には見せる? お前、何か知ってるんだろ? 答えろ」
ここで何も言わなければ、この男はきっと――いや、間違いなく七瀬を襲撃し、彼女本人に問い質すだろう。どちらにせよ、もう目を付けられてしまっている。
ならば少しでも彼女から注意が逸れるよう、自分が働きかけなくてはならない。
「ナナちゃんは…………サラギくんを、猫だと思い込んでるんだよ。サラギくんも、自分を猫だと思ってるの」
「……はあ?」
恭司が珍しく素っ頓狂な声を上げる。
「意味がわからないのはあたしも同じだよ! もうとっくに調べて知ってるだろうけど、ナナちゃんは精神を病んでる。それで何を思ったか、彼を拾って猫として世話してたらしいの。あたしが知ってるのはそのくらい。ナナちゃん、躾が出来ないっていつも困ってた。あたしの前では『普通の人』だったから理解できなかったけど……お義父さんから事情を聞いた今ならわかる。サラギくんは、きっとどこか、人として大切な部分が壊れてたんだよ。だから、『猫』として扱ってくれるナナちゃんの前では、自然体でいられたんだと思う」
恭司はあんぐりと口を開き、半ば呆然と筒見の話を聞いていた。
飼い主?
猫?
確かにあの娘が心を患い、精神科に長らく通院していることは調べて知っている。しかしまさか、人と猫との区別もできないほど狂っているとは思いもしなかった。少し話した程度ではあるが受け答えもスムーズで、おかしな物言いや挙動は微塵も感じなかったのに。
しかしあの七瀬という少女ならば、そんな突拍子もない病を隠し持っていてもおかしくはないとも恭司は思った。
よく出来た人形のような、無表情で無痛症の娘。
そして――『親殺し』。
いつから狂ってしまったのかまではわからないが、『七瀬が母親を殺した』というあの事件は、彼女が親とその他の生物を識別できなかったために起こったのかもしれない。
サラギという男もまた然り。
麗しい外観をしていながら、中身は底なし沼の如くどこまでもイカれた狂人。
あれ程おかしな奴が普通に暮らすには、何らかの後ろ盾がなければ不可能だろう。
自分を人間ではなく獣として扱ってくれる七瀬は、まさに理想の『飼い主』だ。
「……ふん、まあそういうことにしておこう」
泣きそうな目で真剣に訴えていた筒見は、恭司の返事を聞いてもひどく悲しげな表情のままだった。
本当のことを言ったのに信じてくれないと嘆き憂いているのか、それとも自分で言っておきながら尚も好きな男の本性を信じたくないと思い煩っているからか、どちらでも構わない。
恭司は彼女の顎に手をかけ、ぐっと顔を近付けた。
「
「…………解、放?」
意味が理解できないとでもいうように、筒見は鸚鵡返しに単語を繰り返した。
「そうだ。だが、置き土産はいただく。狂った獣の狂った飼い主『ナナちゃん』――あの娘と引き換えだ」
それを聞くと、筒見は恭司の思惑を瞬時に悟り、同時に暗黒の淵へと叩き落とされた。
「やめて、やめてよ! ナナちゃんは関係ない! ナナちゃんは狂ってなんかない! 少しおかしいかもしれないけど、それでも一生懸命病気を治そうと頑張ってるんだよ! だからお願い、ナナちゃんは……ナナちゃんだけは…………」
恭司は必死に縋る筒見を払い除け、携帯電話を取り出して何者かに連絡をつけた。
それから大粒の涙を零して繰り返し哀願する筒見に、彼は残酷な宣告を下した。
「よし、役者は揃った。愛梨よ、大事なお友達の『ナナちゃん』のためにも愛しの彼が現れたらきっちり伝えてくれよ? 『もう大丈夫だから関わらないで』とな。まず、お前を見付けられるかねえ? ま、あんだけ撃たれりゃ暫くは動けねえだろう。もしかしたら、死んでるかもわからんな」
恐らく、七瀬が金を持っていると知り、彼女一点に的を絞ったのだろう。かつての自分と同じ目に遭わせ、それを材料に彼女から金を搾り取る――しかし、それを遂行するには邪魔な存在がいた。サラギだ。
七瀬を守るため筒見が、彼を排除する。それが駄目なら、筒見を守るため七瀬が、彼を排除する。二人が互いを思い合う『友情』を、この男は利用しようとしているのだ。
最初から、どちらも解放する気なんてさらさらないのだろう。罪悪感に駆られた筒見が、七瀬を置いて自分一人だけ逃げられるわけがない。
そんな彼女の性分を知っていて、この男はこんな茶番めいた取引を持ちかけたに違いない。
加えてサラギが重傷を負ったと知り、更なる深い絶望感に打ち拉がれながら、それでももう一度懇願しようと恭司を見上げた筒見は――――途端に、その目を大きく見開いて固まった。恭司も、彼女のただならぬ表情に振り向く。
閉めたはずの倉庫の扉が、開いていた。
そこから外灯の灯りが入り込み、薄暗いコンクリートの床に薄く扇状の光を落としている。
その淡い逆光の中、長い影を伴って固い靴音と共に、ゆっくりと闇より黒い人影が近付いてきた。
「お前……っ!」
「お久しぶりです、筒見さん。お元気でしたか?」
涼やかな目尻を柔らかに細め、サラギは蜜を含んだような微笑を浮かべてみせた。
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